(7) 自然肥料と金肥の普及

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 次に、多肥多労働を特徴とする近世の農業生産に欠かすことのできない肥料についてみていこう。江戸時代を通じて小農が主に利用した肥料は、山野から採集する緑肥であった。大坂や堺など畿内の棉作先進地のように、近世初期からすでに干鰯や〆粕など購入肥料(金肥)を使用していた地域もあったが、全国的にみると自然肥料が支配的であった。広大な保有地をもつ有力農民を除き、狭い田畑を耕作して生活・生産を維持しなければならない多数の農民は、領主へ年貢を納めたあとでは、翌年の生産に最低限必要な収穫物だけしか手元に残らず、そこから貨幣を獲得して金肥を購入することは、非常に困難であった。したがって、彼らが使用する肥料は、山林原野から採集できる自然肥料にその多くを依存する以外に方法はなかった。この自然肥料は、採草給源地としての山野を利用して採集されたが、それを刈敷(かりしき)といい、さらに肥効を高めるため、これを厩肥(きゅうひ)や堆肥などに加工して耕地に投入した。
 購入肥料の利用が遅れた大網白里地域においても、近世後期になると、干鰯などの魚肥が次第に使われ始めた。ことに、当地域は、干鰯や〆粕の生産地である九十九里浜を控えていることから、金肥の導入には大変恵まれた条件の下にあったといえる。事実、町域村々に残存する近世後期の地主経営の帳簿のなかには、金肥の使用を裏付ける干鰯の売買代金が計上されている。ただ、そのような金肥の投与は、すべての農民によって行われたわけでなく、村内のごく限られた有力農民が主に導入し、ほかの大多数の農民は、この有力農民を介して少量使用していたに過ぎない。後で述べるように、九十九里浜の鰯大地引網漁業では、六〇人前後の船手のほかに、一〇〇~二〇〇人の引手を要したが、一般にこれらの引手(岡者(おかもん))には、水揚げの際、「下場」に積み上げられた下等の鰯をその労働の代価としてもち帰ることが許されていたといわれる。そうであるならば内陸部の村でも多くの農民が、かなりの数量の魚肥を田畑に投入する可能性があったことになる。ところが、漁業経営帳簿を検討した結果では、彼らの引手の労働に対しては、現金で支払われている場合が少なくない。そのことは、彼ら在村の農民が、すべて干鰯を入手して耕地に使用していたわけではないことを暗示する。
 全面的な普及がなかったにしても、自然肥料に比して肥効の高い購入肥料を施肥することにより、町域村々の農業生産にも一定の変化があらわれてくる。とくに、畑作において土地利用の集約化が進み、作付け回数の増加や集約作物の栽培が可能となって、土地生産性の向上がもたらされた。また、それまで肥効の低い自然肥料しかなかったために、草地の低湿地の開田が不可能であったのが、魚肥の使用でその開発が可能となった。さらにそれだけにとどまらず、金肥の導入と多投によって、それまで多くの労働量を必要としていた刈敷刈り労働が節約され、その余った労働力を他の作業に振り向けることができたので、労働生産性が向上した。このように購入肥料の採用は、収穫量の増大と相まって労働生産性を著しく上昇させ、近世中・後期における生産力発展の基本的な要因となった。
 とはいえ、九十九里の魚肥生産地を近くに抱えながら、町域で自然肥料に代わる肥料として金肥が全面的に普及するまでには至らなかった。依然として山野から採集する緑肥は、農家の重要な肥料源であり、それゆえ、その緑肥の獲得をめぐって、用水出入と同様、村々で入会秣場(いりあいまぐさば)争論が数多く起こった。現存史料で判明する主な野論だけでも、寛永十三年(一六三六)、金谷村・山口村・養安寺村・餅木村・大竹村の五か村と、大和田村(現千葉市)との猿橋野をめぐる野論、とくに、この猿橋野をめぐっては、以後も秣場出入が続発し、明治初年には、新政府の士族授産政策の一環として、四五町歩もの広大な原野の開拓に関する係争が、士族側と地元農民との間でもち上り、最終的には大審院にまでその裁決を仰いでいる。そのほか、寛永十六年の南飯塚村と北飯塚村との野論、寛文十年(一六七〇)の大網村・仏島村・経田村・赤荻村・富田村と、北横川村・南飯塚村との星谷野新開についての秣場境界争い、なお、この出入は、元禄十六年にも再燃している。寛文十三年、金谷村・養安寺村・山田村(現千葉市)と、小西村との野論、貞享四年(一六八七)の萱野村と砂田村の野論、享保十年(一七二五)と天明五年(一七八五)の両度の南飯塚村と北飯塚村との入会秣場開発及び割り渡し出入、慶応三年(一八六七)、神房村・平沢村・門谷村・宮崎村・池田村・南玉村・小食土村(現千葉市)と、小中村との入会秣場開発出入など、夥しい件数にのぼる。