(8) 猿橋野秣場出入

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 そのなかから、猿橋野(現千葉市)の野論を取り上げて、出入に至る原因や解決に向けての話合い、さらには秣場入会慣行などについて知ることにしよう。猿橋野における秣場出入をここで取り上げるのも、町域に現存する史料で最も早い時期の寛永十三年の野論であるということ、町域の五か村がこの野論に関係していること、そしてなによりも残存史料の豊富さと、争論の時間的長さで他の秣場出入の追随を許さないといった理由に拠る。以下、近世初期の秣場入会利用の実態を把握する手掛かりとして、全文を掲げることにする。
 
       乍恐返答書以申上候
 一先年よりかられ不申候野、四年以前御給所ニ出申候以来かられ申候と申上候儀皆偽御座候、此野之儀は、金谷村・山口村・養安寺村・餅木村・大竹村右五ケ村之御地頭拾弐人之御知行之百姓、先方之儀は不及申ニ、御入国之以来右五ケ村之野ニて御座候処を、大和田村之百姓衆、戌ノ年冬中より改大勢罷出候て、金谷村之者かやかり申候処を、散々ニうちたゝき、其上鎌をとられ申候間、其野ニて鎌取かへし可申候へ共、此野は大和田村之野ニて無御座候ヘハ、草・かやかりに罷出不申候間、野ニて鎌取かへし申儀成不申候故、右取申候かま返し候ヘと度々断いたし候得共、返し不申候付て、大あみ市・大和田村之者大勢罷出候間ニ、右鎌取申候者とも、まくハり申候間、とられ申候者共参合、右より断如申、何とて鎌を返し不申候哉返し候ヘと申候ヘハ、かまの儀は返し申間敷と申ニ付て、左様ニ候ハヽ、鎌之代に上着(うハぎ)成共渡し候ヘと申、九人分拾七人ニて請取預り申儀をおいはきと申候ハ、皆偽ニ御座候事
 一次左衛門、藤左衛門買田致候を、鎌之代と申おさへられ候よし申上候、尤かまの代におさへ申儀は、当七月かやかりに拾四、五人参候者共を、大和田村之百姓衆ばうを持、大勢罷出、散々にうちたゝき、鎌を取申候中にも、壱人あたまをうちわられ、半死ニ罷成候間、大和田村へたうしニのせ越にて代官名主ニ見せ申候ヘハ、疵ハ見申候間、其身死候ハヽ、人代を出し可申候間、先々内へめしつれ、かんひやういたし候ヘと申ニ付て、其時分断申候様ハ、かやうに討れ申、返報は何方ニても出合次第ニうちかへし可申よし断仕候、又かまの代にハ買田地ト申候をおさへ申へきよし断致候、乍去鎌を返し候ハヽ、いねにハ構無御座候由断申候て、いまにおさへ置申候事
 一野御馬追に罷出候を証文に申上候儀、是ハ証文にハ罷成申間敷候、先年より御馬追に出申候村は、御定置被成候、我々村にかきらす、佐倉野へつゝき申候野ニて草・かやかり申村々ハ、あまた御座候へとも、先年より追不申候事
 一右五ケ村之百姓共、別に草・かやかり申場一円持不申、此野ニて草・かやをかり、牛馬をも持、百姓きんし申候、大和田村之百姓衆ハ、時(自)分之野過分ニ持申候、我々五ケ村之野よりおほく御座候、あわれ御検使被遣御順見候ハヽ、過分至極ニ可奉存候事
 一此猿橋野と申場ニて、大和田村之者草・かやかり申候儀は、いまに無御座候、我々野ニて御座候、証文ニハ御入国以来之御地頭・御代官衆御存被成候間、我等共偽と思召候ハヽ、土気・東金之御代官衆ニ御尋可被下候、口上ニ可申上候、以上
         寛永拾三年
            子ノ十月
上総之内土気領
     大久保七兵衛知行所金谷村次郎右衛門[印]
     川野庄大夫七郎右衛門[印]
     小宮山重右衛門太郎左衛門[印]
     服部兵右衛門加右衛門[印]
     森助右衛門小十郎[印]
     戸木内記知行所餅木村四郎兵衛[印]
     長谷川九兵衛大竹村源十郎[印]
     水野庄助山口村内蔵助[印]
     清水平三郎同村惣左衛門[印]
     赤井七郎兵衛同村次郎兵衛[印]
     大岡仙三郎養安寺村平右衛門[印]
     長尾庄右衛門同村清兵衛[印]
         御奉行所様惣百姓
         [印]
(金谷区有文書)

 
 これは金谷村など町域五か村と大和田村の間で争われた猿橋野秣場出入である。前者五か村から出された五か条のこの返答書には、第一条目で、家康の関東入国以来、猿橋野秣場は五か村の入会秣場であったにもかかわらず、大和田村の百姓衆が、前年の寛永十二年冬から大勢繰り出すようになり、たまたまその場で茅刈りを行っていた金谷村の者を打擲(ちょうちゃく)して、鎌を奪い取ったことが述べられている。近世初期の野論の場合、自村の正統性を主張する手段として、緑肥採取に必要な道具である相手方の鎌を奪うことが慣習化していたようである。鎌を取り上げられた金谷村の百姓衆は、大和田村の者が鎌を返さないので、鎌の代わりに上着を剝ぎ取ってしまおうという報復手段に出た。
 また、二条目では、当寛永十三年の七月に、茅刈りに入山した金谷村の者一四、五人に対し、大和田村の百姓衆が棒をもって大挙押しかけ、激しく打ちかかり、相手の鎌を取ろうとしていた金谷村の者が一人頭を打ち割られ、半死の状態になっている様子などが生々しく記されている。仕返しは、「何方ニても出合次第ニうちかへ」すといった過激な内容を述べ、とりあえず、鎌の代わりに買田地を差し押えたことを断り、鎌さえ返せば、田地の稲は決して損わないことを約定している。さらに第三条で、大和田村の農民が佐倉野馬追いにかこつけて猿橋野に入り込み、草や茅を刈っているのに対し、馬追いは先年から除かれていることを申し述べ、四条目では、五か村の草・茅刈りの場所はこの野においてほかになく、それも牛馬をやっと飼うことができるほどのものであって、それとは対照的に大和田村では過分の野山をもっているということを強く主張している。これらいずれの条文も、野論のときは相手の鎌を無理矢理取り上げ、他方、その仕返しに衣服を奪い取るなど、近世初期の入会秣場出入の様子が具体的に記されていて大変興味深い。
 この野論の結末は詳らかではないが、寛文二年(一六六二)の金谷村と大和田村との裁許状が現存することから、再び両村の間で猿橋野をめぐる秣場出入がもち上ったことが分かる。その裁許状は、「猿橋野論之事」を糺明したところ、論所内に大和田村の荒畑があり、また猿橋田地は、大和田村地内のものとして猿橋と名づけられていることなどから、「大和田村之地無紛」いと裁決している。そして「先年扱有之」て野内に「鍬目を付、入会境ニ相定」めているので、双方が立ち会って絵図面に印をつけるよう申し渡しているのである。猿橋野出入でもそうであるが、寛文十三年の小西村と、金谷村・養安寺村・山田村との野論の場合でも、その裁決に決定的な意味をもったのは、論地に小西村は「纔(わずか)に入候も無之」く、金谷村・山田村の「谷田入組、両村の地内慥相見」えるというように、論地内に争い当事者の村の耕地が存在するか否かということであった。つまり、近世初期の野論は、論地内にすでに開田畑があって、それが検地により占有権を認められているかどうかということが、その裁定に大きな影響を与えたのである。ところで、寛文二年の猿橋野論での「先年扱」いというのが、寛永十三年の野論のときの裁許を指していることは間違いない。そのときの境界を基準にして、西方は、金谷村住民の立ち入ることのできない地区、また東方は、金谷村および先規入会の村々が入山を許される入会秣場であることが再確認されたのである。論所に東西の境界を設定したことは、裁許状の記載内容からも見当がつくが、明治四年(一八七一)に宮谷県が、「大和田村地元外九ケ村入会秣場字猿橋野寛文度裁許年暦相立、境界致紛乱」したため、「見分」を遂げたときの絵図から、その境がはっきりと確かめられる。南は東金町より野田道を境にして、佐倉道境に南北に並塚を築き、その並塚の西側を金谷村ほか先規よりの入会村々の秣場とし、東側を大和田村の秣場とした。寛文度に決定した入会地の境界が、以後明治初年まで長い間効力をもち続けたことは注目される。

写真 明治4年 猿橋野絵図 (金谷区有文書)