ところで、新田開発は、莫大な資力と労力を投下して行わなければならないため、経済的基盤の脆弱な近世農民にとっては、領主主導のような大掛かりな開発はほとんど不可能であった。大網白里地域においても、中期以降は、本村の個別経営の延長として行われる小規模な開発によって耕地を拡大させる、いわゆる切添(きりぞえ)(村添・持添)新田が主流であった。正徳三年(一七一三)の金谷村における新田開発進行状況をみると、図17のように、原野を少しずつ拡張していく切添新田の様子がはっきりと窺える。また、元禄十六年(一七〇三)の星谷村の開発絵図の場合のように、大網村・経田村・南北富田村・赤荻村・赤荻村のうち下駒込村・仏島村・南飯塚村・北横川村・南横川村の入会秣場であった「干谷野」が、「近年所々より右之野内ヘ新畑仕出シ」たことから前年に訴訟沙汰となり、以後境塚を定め、そのなかでは「自今以後入会之村々ハ不及申、地元大網よりも新田畑・新林・新屋鋪仕出シ申間敷」と開発禁止の場所となってしまった原野もある(南飯塚 富塚治郎家文書)。これは、開発の結果、緑肥の供給地である秣場が狭められ、自然肥料に大きく依存する農民に肥料不足という現象をもたらしたために採られた処置であった。緑肥の採集と入会地の開発とは、常に表裏一体の関係にあり、新田開発を無作為に行うと肥料不足の状態を招き、逆に生産力の向上を目指すには耕地の拡大が必要という相反した関係が常につきまとったのである。そこに、先にみたような入会秣場出入が、各地で頻発する一因があった。元禄十六年の星谷野論は、入会内における特定場所の開発禁止という形で終結したが、それまで開かれた場所や、禁止区域外の場所については開田が容認された。そのため、星谷野には各村の新田が入り組んで存在することになり、現在、飛地として星谷地区に大網地区の地所が散在するのも、そのような歴史的背景があったものと思われる。
図17 金谷村切添新田図 (金谷区有文書)
享保改革で知られる八代将軍吉宗は、幕府財政の行き詰りを打開する目的で、年貢増徴政策の一環として定免法の採用とともに、代官見立(だいかんみたて)新田と町人請負(うけおい)新田による開発奨励政策を強力に推し進めた。大網白里地域の村々でもそれに呼応して新田開発に積極的に取り組んだ。とりわけ、代官による代官見立新田の開発に大きな成果があった。先に掲示した表1の町域全村高の推移をみると、寛文八年一万七一五三石余、元禄十五年一万八九四五石余、寛政五年二万〇二六一石余、明治元年二万〇八四二石余という数字が示すように、元禄期までに一七九二石、享保期を経て寛政期に至る間に一三一六石と、寛文期から寛政期までには三一〇八石の大幅な村高の増加傾向がみられる。ところが、寛政期以降明治初年までは、五八一石の増加を示すだけである。このことから、町域の新田開発は、その多くが寛政期前後までに行われ、その開発部分が高入れされたことが知られる。
享保二十年(一七三五)時における各村の新田反別を示した表21では、町域二〇か村で三三四町余が新田高として反別に組み込まれている。これらはいずれも新開地として代官領となるもので、なかでも南横川村が八一町余と群を抜き、細草村四九町余、今泉村四四町余、四天木村三五町余がそれに続く。白里地区の三か村で全体の四〇%弱を占めていることが、大きな特色となっている。これは、細草村と四天木村の間にあった細草沼が新開されたのと、海付村の今泉と四天木の両村の浜芝地が開発されたことに起因する。寛政期から天保期まで町域全体の村高は、三八三石ほど増加するが、これは多分に四天木村の三二五石の村高の増加に負うところが大きい。浜芝地の開発については、後出の漁業のところで説明を加えるので、ここでは、海付村の開発反別が大きな比重を占めていたことだけを指摘するにとどめる。
新田反別 | |
町 | |
永田村 | 10.3628 |
赤荻村 | 6.7000 |
経田村 | 7.3000 |
大網村 | 27.8104 |
仏島村 | 6.7000 |
山口村 | 0.5529 |
南横川村 | 81.4004 |
南富田村 | 2.3122 |
北富田村 | 3.5508 |
北横川村 | 4.0000 |
上貝塚村 | 2.8907 |
清名幸谷村 | 9.5012 |
南飯塚村 | 9.9901 |
北飯塚村 | 6.4908 |
木崎村 | 11.8117 |
下ケ傍示村 | 5.8915 |
二ノ袋村 | 7.0625 |
細草村 | 49.5528 |
四天木村 | 35.7201 |
今泉村 | 44.8012 |
合 計 | 334.3511 |