近世社会は、兵農分離策によって、農民を土地に縛りつけ、領主は生産過程から離れて、商工業者とともに都市に集住するという、つまり農村と都市との分離を前提に成立していた。したがって、農民の支配に直接目が行き届かない近世封建領主は、単婚小家族を基本とする小農経営を自然経済の枠内にはめ込むような生産・流通構造や市場構造を創り出すことが必要であった。もちろん、商品経済への接触を体制的に否定されていた小農民も、彼らの生産に不可欠な非自給生活資料(塩など)や各種の生産用具(鍬や鎌など)を調達するには、一定の交換市場を必要とした。とはいえ、このような商品生産・流通は、一般的には農民の手元に剰余が保証されない性質のものであり、それ自体幕藩制の経済構造に抵触するものではなかった。
ところが、先述したように、元禄期から享保期にかけて農業生産力が一定程度上昇したことにより、農民自らが利潤獲得を目的とするような新しい性格の商品生産が展開してくるようになる。農具の発明と改良、灌漑用水施設の整備と改善は、農業技術の進歩を惹起させると同時に、新田開発を可能にして耕地面積を拡大させ、貢租の固定化現象と相まって農民に一定の剰余を生み出す条件を与えた。農民は、その余分の生産物を販売してえた貨幣を、農具や魚肥、あるいは農産物加工用具などの購入に向けることにより、農業生産力を一層高めることができた。
もっとも、農民による生産物の商品化が飛躍的に進み、貨幣経済が広汎に展開するようになるには、単に農業生産力が向上したというだけでは実現されない。上昇部分が領主に全部徴収されないで、農民の手元にわずかでも残るような年貢の固定化、ないしは相対的減少といった条件が付加されなければならないからである。この点については、年貢の検見取りから定免(じょうめん)制への切り替え、あるいは石代納(こくだいのう)や先納金(せんのうきん)の納入といったことが、その条件を満たす上で重要な意味をもった。また、石代納や諸役の貨幣納の強要、ないしは干鰯・〆粕など金肥の投入の必要から、農民は何らかの手段を講じて貨幣を入手しなければならず、そのことによって、農村は必然的に貨幣経済に巻き込まれることになる。ただ、先納金納入については、領主に返済能力のないことが多く、その貸付利足はもとより、元金さえ返済されないこともあり、所持地を質入れしてまで領主に上納金を納入した有力農民のなかには、かえって自己の経営を悪化させてしまう者もいた。領主への先納金貸付け、あるいは後でみる農民への現金貸付けが、決して有力農民の致富の条件とはならない場合が多かったのである。