農村への商品貨幣経済の浸透に伴い、農業経営内部にも、労働力の質的転換、質入れによる土地移動と「質地(しっち)地主」小作関係の進展などといった新たな事態が生まれてくる。それまで譜代下人や同族団の賦役労働に依拠していた「名田(みょうでん)地主」経営は、彼ら従属農民の自立と分裂によって、その労働力を質的に転換させることを余儀なくされた。
しかし、この新本百姓の自立の過程は、そのまま安定的な経営を保証するようなものではなかった。なぜなら、領主による年貢・諸役の強制収取の下で、金肥を導入し、生産用具である新型の農具を買い求めなければならない農民たちが、高騰する生産費を賄いうるような経営を行うことは、極めて困難であったからである。零細な農業経営で日々の生活を維持している小農は、わずかな自然災害や物価の変動によっても、その経営に破綻をきたし、すぐに年貢滞納や肥料代金の未払いといった状態に追い込まれてしまうのである。
近世初期において、このような危機に直面したとき、手元に余分の生産物をもたない農民がとりうる方法としては、家族の一員を売ることであり、他は田畑などの所持地を売却することであった。ところが、農業経営に欠かすことのできない家族労働力や耕作地を売却することは、たとえ一時的に資金を調達しえても、最終的には小農経営の破綻に帰結してしまう。小農経営の行き詰りは、大閤検地、徳川初期検地以来、小農自立政策を促進し、単婚小家族の一般的成立を目指してきた幕府権力にとっても、決して看過できない問題であった。そのような状態を回避する目的で、幕府は、元和元年(一六一五)に人身売買の禁止令を制定し、寛永二十年(一六四三)には、田畑永代売買禁止令を公布して、小農の「保護」、育成をはかった。
この二つの法令によって、人身売買と田畑売買とが体制的に否定され、資金の一時的な調達は、家族の一員の質入れや土地の質入れによってしかできなくなった。