(3) 奉公人

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 小農経営から必然的に放出される農業労働力としての奉公人の性格については、事実上の賃労働に近い奉公形態から、一定の従属関係が残る譜代下人に近い奉公形態までさまざまである。一般に近世においては、質物(しちもつ)奉公と居消(いげし)奉公とによる奉公形態が多くみられた。質物奉公の場合は、奉公人の労働力は前貸金の利子に充当され、人主(奉公人を出す者)は、年季が明けると同時に元金を返済しなければならなかった。他方、居消奉公は、前借金の一部または全額を相殺するための奉公稼ぎで、定められた期間奉公を勤めると自動的に前借金が消滅するものである。この居消奉公は、質物奉公と、完全な給金雇傭関係を示す奉公との過渡的な奉公形式といえる。
 そこで、町域に残る奉公人請状(うけじょう)のなかから、嘉永五年(一八五二)のものを一点掲げておく(清名幸谷 大原豊家文書)。
 

写真 奉公人請状 (清名幸谷 大原豊家文書)
 
     相定申奉公人請状之事
当子御年貢不足ニ付、此ちよと申女慥成者ニ御座候ニ付、我等請人ニ罷立、当子暮より来丑極月廿日迄壱ケ年季之御奉公ニ差出、為身代金三両弐分弐朱只今慥ニ受取、御蔵皆済申処実正ニ御座候、此者年之内取逃、欠落等は不申及、年中永煩等有之節は、人代成共、本金成共貴殿御望次第早足(速)埓明、貴殿方へ少も御苦労相懸申間敷候、此者儀ニ付、親類・組合は勿論、自脇故障之者無御座候
御公儀様御法度之義不及申、御家風為相守可申候、若気儘・我儘等有之節は、何時成共本金相済、当人は早足引取、農業差支不成可仕候
宗旨之義は、代々日蓮宗ニて、小野本因寺旦那ニ紛無御座候、若何角兎申者御座候ハヽ、我等共罷出、貴殿ヘ御苦労相懸申間敷候、為後日請状仍て如件
嘉永五壬子年十二月小野村
  人主
    源四郎[印]
同村
  請人
    太左衛門[印]
清名幸谷
   与重郎殿
小野村
  名主
    喜右衛門[印]

 
 これは、年貢上納に差し詰った小野村(現東金市)源四郎が、ちよという妻娘いずれかを、前借金のかたに清名幸谷村与重郎に奉公人として出したときの請状である。年季は一年で、身代(みのしろ)金として三両二分二朱が前借りされ、それを年貢納入に向けたことが記されている。これは居消奉公の形態をとるものであるが、奉公人を雇い入れた与重郎は、文言中にちよが奉公できないときは、人主が「農業差支不成」よう前借金「本金」を返済するといっているように、農業労働力としてこのちよを雇傭したことが分かる。近世後期においては、余業の発達、労働費の高騰などを原因とする労働力不足により、地主手作りは安定的な労働力確保が困難な状況となっていた。文化元年(一八〇四)、南飯塚村では、一年切の奉公に入った女性が出奔したとき、雇傭側の農民が、「当時一時を競候農行専要時節、給金受取相済シ候て、当作何を以植付可致候哉」と、請人が責任上、給金を埋め合わせることを申し出たにもかかわらず、農業労働力として奉公人が必要なことを述べて弁金を拒んだことから訴訟沙汰までに発展している。この事例などは、当時の労働不足の状況がいかに深刻なものであったか、如実に示しているといえよう。
 奉公人を雇傭できる農民は、その大部分が村の上層農民であった。もちろん当時の有力農民は、近世初期の「名田地主」層とは本質的に異なっている。近世初期の有力農民といえば、譜代下人や傍系家族などの従属層を数人から数十人抱え、彼らの賦役労働によって大規模な手作り経営を営んでいた「名田地主」層をいう。年代が下るにつれて、それらの従属農民が次第に自立、分裂していったため、彼らの労働力に全面的に依存できなくなってくると、「名田地主」層が、その後も大規模な自作経営を続けていくには、賦役労働に代わる新たな労働力をみい出さなければならなかった。そして、彼らが新たにみい出した労働力こそ、奉公人形式による雇傭労働力であったのである。また、「名田地主」層は、単に労働力の性質を転換させるだけでなく、経営自体も小農経営から放出される奉公人を雇い入れて行う地主手作り(その多くが「質地地主」)へと変化させざるをえなかったのである。他方、自立したとはいえ、常に不安定な経営状態におかれていた小農が、その経営を維持していくには、家族の一員を奉公人として放出しなければならなかったことは、すでに述べた通りである。この二つの条件が合致して、旧「名田地主」層や、新たに台頭してきた富裕農民が、地主手作り経営主として、その経営を保持することができたのである。
 最後に、奉公人の雇傭条件についてみておくと、奉公形式は、一般に質物奉公から居消奉公へと移っていき、年季も長年季から一年季などの短年季へと変わっていく。雇傭主が人主へ支払う前貸金は、ふつう給金に充当される身代金だけであるが、奉公中に恩給という形で、奉公人に着物などを支給することもあった。南飯塚村の寛政二年(一七九〇)の請状には、浜宿村のきわが奉公人となるとき、身代金二分二朱のほかに「ひとへ(単衣)もの壱枚」を支給することが約定されている。時代が下るにしたがって、この恩給の条件は改善されていった。