田畑の永代売りは、寛永期以来、幕府によって法的に禁止されていたが、それが在地において必ずしも貫徹していたとはいい難い。江戸時代で最も有名な土地立法の一つであるこの田畑永代売買禁令も、その題名どおりの法令が存在したわけではない。田畑永代売買禁止令というのは、寛永二十年(一六四三)三月に幕府から代官に宛てて出された「堤川除普請其外在方取扱之儀ニ付御書付」(『御触書寛保集成』)全七か条のなかの第三条と、同年同月に農民宛てに布令された「在々御仕置之儀ニ付御書付」(同前書)全一七か条のなかの第一三条との総称である。
その条文は、前者は、
一身上能百姓は田地を買取、弥宜成、身体成らざる者は田畠沽却せしめ、猶々身上成るべからざる之間、向後田畠売買停止せしむべき事
さらに後者は、
一田畑永代売買仕まじき事
というものである。しかし、田畑永代売買禁止令という場合、同年同月に出された次の罰則も含めていうのがふつうである(同前書)。
田畑永代売御仕置
一売主牢舎之上追放、本人死候時は子同罪
一買主過怠牢、本人死候は子同罪
但、買候田畑は売主之御代官、又は地頭へこれを取上
一証人過怠牢、本人死候時は子に構なし
一質に取候者作り取にして、質に置候ものより年貢役相勤候得は、永代売同前之御仕置
但、頼納質といふ
右之通、田畑永代売買停止之旨仰出され候
ところが、このような罰則規定が定められたにもかかわらず、その後も田畑永代売りが行われていた事実を示す土地証文は、村々でかなり見受けられる。一例を挙げると、上掲の寛文八年(一六八八)の土地証文が、その内容をよく伝えている(木崎 富塚勝男家文書)。
写真 寛文8年の永代売証文
相定手形之事 | |||
一 | 下田三反壱畝拾四歩永代ニ金子拾両ニ売申、御蔵借金ニ相済申所実正也、縦天下一同之御国替又ハ御代官替御座候共、此田ニおゐてハ少も違乱申間敷候、為後日之末代之手形進申候、仍て如件 | ||
寛文八年 | 木崎村 | ||
申ノ十月十一日 | 田主 | 弥兵衛 | |
同所組頭 | |||
半兵衛[印] | |||
五左衛門[印] | |||
木崎村七兵衛殿 | 次衛門[印] | ||
助右衛門[印] | |||
総右衛門[印] |
寛永二十年の田畑永代売買禁止令からすでに二十五年も経過し、法令の主旨が在地のすみずみまで行き渡っていたと考えられるこの時期においても、永代売りは行われていたのである。木崎村の田主弥兵衛が、下田三反余を一〇両の借金のために売却したもので、この田の所持権は、「縦天下一同之御国替又ハ御代官替」があっても、決して変わることなく七兵衛の方にあることを約束している。この文言形式は、近世初期の特徴を示しているものとして重要である。買取主の七兵衛家には、以後も延宝六年(一六七八)まで、八通の永代売り証文が作成され、同年十二月に始めて十年季の田畑質入証文があらわれてくる。そのほか、小西村の小関家(現東金市在住)でも、寛文十一年を初発として貞享四年(一六八七)まで、数点の永代売り証文が残っており、当地では寛文期を中心にかなり広く田畑の永代売りが行われていたことが確認できる。
田畑永代売買禁止令は、小農自立政策に基づく小農の「保護」を大前提とする一方で、寛永の大飢饉によって解体の危機に直面する小農経営を建て直すために公布されたといわれる。しかし、そうした理念のもとで布令されたこの土地立法も、在地の実情に合わないときは、その施行に多大な困難を伴った。町域の村々で、かなりの永代売り証文が発見されるという事実は、農村内部に田畑の永代売りを阻止できないような土地売買に対する強い欲求が潜在していたことを示唆している。