農業生産力の発展、商品貨幣経済の農村への浸透とともに、十七世紀後半以降、土地の質入れが活発に行われるようになった。しかし、質地の形をとる土地移動は、結果的に「質地地主」小作関係を助長させ、究極的には質地の流地によって、土地を喪失する多くの下層農民を生み出した。そうした状況は、質入主側に請け戻しの能力が欠如すること、及び農業生産力の向上により、限られた上層農民が余剰生産物を獲得できるような条件が用意されることによって初めてもたらされる。農業生産力の上昇、農村における貨幣経済の浸透、農民闘争の激化などを契機に、これまでの領主の年貢収取体系が次第に崩れ始め、農民の手元にもわずかながら剰余が蓄積できるような条件が作られていく。もっとも、これらの余剰物を取得できたのは、ごく一部の有力農民に限られていた。彼ら有力農民が、土地を質地によって集積しようと意図するのも、生産物から農民の生産に必要な部分と、領主への貢租部分を控除してもなお、余分なものが生まれるような生産条件が準備されていたからであった。こうして、元禄・享保期には、質地関係による土地移動が広汎に行われるようになったのである。そして、最終的には田畑の質入れ行為は、質地が質流れとなって金主の方へ渡されることにより、永代売りとなんら変わらないものとなってしまう。
このような状況下で、幕府は、元禄八年(一六九五)「質地取扱いに関する十二か条の覚」(『日本財政経済史』第三巻)を発布し、はじめて田畑の質流れを公認した。質地の処理規定を定めたこの土地立法は、全体的には質地の請戻権を保証していたが、年季が明けても質入主が請け戻しできないときは、質流地にしてもよいという条文があり、事実上流地を認めるものであった。この土地立法は、近世の土地政策上、流地、すなわち実質的な永代売りを認めた点で画期的な意義をもっている。
ところが、享保六年(一七二一)、幕府は、突如として「流地禁止令」(『御触書寛保集成』)を公布して、元禄以来の流地に関する規定を大幅に変更した。この法令は、田畑の質入れは従来通り認めるが、質流れについては、今後一切認めないというものであった。それは、元禄八年以降質流れを公認して実質的な土地売買の途をひらいてきた幕府が、予想をはるかに上回る流地の増大、「質地地主」小作関係の進展、高額な地主取分(小作料)の増大などにより、それらが、小農経営を脅(おびや)かすのみならず、ひいては領主的土地所有体系すら動揺させかねない状況にあったことから出された土地法令であった。
しかしながら、この流地禁止令は、布令してからわずか一年九か月後の享保八年八月には撤回しなければならなかった。法令の狙いと在地での現実的な流地の在り方との食い違いが、農村金融の混乱を招き、かえって農村の疲弊をもたらしたからである。こうして、享保期には、永代売りが事実上認められ、田畑永代売買禁止令は、全くその効力を失ってしまった。開幕以来、小農自立・維持政策を貫ぬいてきた幕府は、これ以後広汎に展開する「質地地主」小作関係に立脚して、その権力を保持していこうとする。
その「質地地主」小作関係は、あくまでも小農経営の展開によって成立するものである。その基盤となる小農の経営が確固たるものでない限り、この地主小作関係は、自から不安定にならざるをえない。農業生産の発展は、小農民を自立させ、小農経営を展開させはしたが、その小農経営が安定性を保つほどの飛躍的な生産力の向上はなかった。そうした存立基盤の弱い小農経営のうえに立って、「質地地主」経営は成立していたのであるから、当然その経営状態は不安定にならざるをえなかった。