明治十三年(一八八〇)の「千葉県統計表」によれば、山辺郡の物産構成は表22のようになる。年代的に明治十三年のものであるということで、この数値をそのまま江戸時代のそれに置き換えることは無理であるが、幕末期の物産状況の輪郭なりは表示していると思われる。
A 生産高 | B 価額 | % | C Bのうち 移出額 | B/C移出% | C/C合計% | |
石 | 円 | 円 | ||||
米 | 52,903.410 | 469,782.280 | 71.2 | 46,978.220 | 10.0 | 60.8 |
石 | ||||||
麦 | 20,851.484 | 105,299.990 | 16.0 | 0 | 0 | 0 |
石 | ||||||
栗 | 218.139 | 719.900 | 0.1 | 0 | 0 | 0 |
石 | ||||||
大 豆 | 5,989.109 | 24,732.400 | 3.7 | 0 | 0 | 0 |
甘 薯 | 687,771斤 | 275.108 | 0.1 | 0 | 0 | 0 |
実 綿 | 149,431斤 | 13,487.900 | 2.0 | 0 | 0 | 0 |
製 茶 | 38,707斤 | 13,547.450 | 2.1 | 4,515.820 | 33.3 | 5.8 |
藍 葉 | 113,475斤 | 4,539.000 | 0.7 | 4,539.000 | 100.0 | 5.9 |
乾 魚 | 257,500斤 | 9,012.500 | 1.4 | 7,210.000 | 80.0 | 9.3 |
干 鰯 | 496,160斤 | 17,365.600 | 2.6 | 14,092.480 | 81.2 | 18.2 |
鰹 節 | 1,625斤 | 552.500 | 0.1 | 0 | 0 | 0 |
合 計 | 659,314.628 | 100 | 77,335.520 | 11.7 | 100 | |
概して、諸物産中、米の占める比重が七一%強と圧倒的に高く、麦一六%、大豆三・七%など雑穀類が低い比率でそれに続く。当時においては、海産物は、干鰯・乾魚・鰹節を合わせても四・一%を占めるだけで、すでに代表的な商品生産物とはなっていない。畑作商品作物では、製茶と藍葉があるが、金額的には極めて些少である。この諸産物のうち、移出品として商品化(山辺郡外への販売・商品化で考える)されるものは、農作物では米・製茶・藍葉であり、漁獲物では干鰯・乾魚だけである。麦など雑穀類と、実綿・鰹節は全く移出されず、自給用であることが分かる。商品化率の高いのは、藍葉(一〇〇%)、干鰯・乾魚(いずれも約八〇%)であるが、これらは生産高自体が少なく、生産高の一〇%の移出を占めるだけの米の商品化価格が、全移出額の六〇%余を占めて他を大きく引き離している。価額の比率が示す通り、当時の山辺郡の生産構造は、稲作が主体で、その生産米は一〇%が郡外に移出されるだけで、残りの九〇%は郡内の自給用米として消費された。これらのことから、同郡の生産構造は、水田一毛作、畑作での冬作―麦、夏作―大豆という自給的な作付体系が主軸をなしていたことが窺える。先述したように、房総の農業生産条件は、用排水施設の未整備と海岸沿いの村にみられる土質の不良を二大特色とし、とりわけ山武郡(旧山辺郡と武射郡で構成)地域ではその特色が顕著である。そのことは、明治三十九年(一九〇六)で水田二毛作率がわずかに〇・一%という数字が端的にあらわしている。この低生産力水準にとどまっている農業生産のあり方が、表22の物産高の数値に反映しているといえよう。