1等 | 甲 | 山口(和) |
乙 | 萱野(瑞) 小中(瑞) 神房(瑞) 池田(山) 南玉(山) 金谷郷(山) 小西(和) | |
2等 | 甲 | 永田(瑞) 大網(網) 養安寺(和) |
乙 | 砂田(瑞) 駒込(瑞) 餅木(山) | |
3等 | 甲 | 大竹(山) |
乙 | ||
4等 | 甲 | 仏島(網) |
乙 | 経田(瑞) | |
5等 | 甲 | 富田(増) 清名幸谷(増) |
乙 | 北横川(増) 九十根(福) | |
6等 | 甲 | 南横川(増) 星谷(増) 南飯塚(増) 桂山(福) 二ノ袋(福) |
乙 | 上貝塚(増) 北飯塚(増) 木崎(増) 北吉田(福) 長国(福) 四天木(白) 南今泉(白) | |
7等 | 甲 | 柿餅(増) 上谷新田(増) 柳橋(増) 下ケ傍示(福) 細草(白) 北今泉(白) |
乙 | ||
8等 | 甲 | |
乙 | ||
明治十二年前後に、各等級にランクづけられている村々の水田反当り収穫高が、どの程度であったのかを窺ってみると、二等甲の養安寺村は、反当り一石四斗六升三合とかなり多い生産量を示している。しかし、六等甲の桂山村は五斗四升六合、六等乙の北吉田村は四斗五升七合と生産量は極端に少ない。このように、一等から七等までに区分された村々は、その反収に相当の開きがあり、この生産条件の違いは、当然それぞれの地域で営まれる農業経営に多大な影響を及ぼした。平均的には、中位の四、五等でも六、七斗の反収であったと考えられることから、当時においても、町域の村々の生産諸条件は、山辺郡全体のそれと同じようにかなり低い水準にとどめられていたといえよう。
江戸時代の田畑面積比率では、水利や土質の点で水田耕作の生産条件が不良な海岸寄りの村ほど、水田化率が高いといった現象があらわれている(表24)。調査の対象が享保期から明治初年までというように年代的なズレがあるので、統一的な比較はできないが、それでも大体の傾向は示していると思われる。福岡地区の桂山村、北吉田村が七〇%以上の水田率を示し、細草村(白里地区)もほぼ七〇%の比率となり、他の村は、柿餅村を除いてすべて田方の比率が五七~六五%と、畑方のそれをわずかに上回る田畑面積比率である。
地区 | 村 名 | 田地面積 | % | 畑地面積 | % | 面積合計 | 田地反当り 石高(石盛) | 備 考 |
大和 | 養安寺村 | 町 16.8323 | 64 | 町 9.6416 | 36 | 町 26.4809 | 石 1.079 | 享保11年 1給分 |
山辺 | 金谷郷 餅木村 | 90.0302 11.9318 | 58 61 | 65.0317 7.6413 | 42 39 | 155.0619 19.5801 | 1.687 1.450 | 文化10年 全村分 慶応 4年 全村分 |
瑞穂 | 萱野村 | 17.8902 | 57 | 13.3426 | 43 | 31.2328 | 1.179 | 明治 2年 全村分 |
大網 | 大網村 | 142.6107 | 61 | 92.3507 | 39 | 234.9614 | 1.272 | 寛政 5年 全村分 |
増穂 | 清名幸谷村 柿餅村 | 54.4116 3.6218 | 65 45 | 29.4102 4.4905 | 35 55 | 83.8218 8.1123 | 0.772 0.784 | 明治 3年 全村分 明治 2年 全村分 |
福岡 | 北吉田村 桂山村 | 18.7518 25.0408 | 70 74 | 8.1925 8.8817 | 30 26 | 26.9513 33.9225 | 1.371 0.929 | 寛政 5年 全村分 寛政 5年 全村分 |
白里 | 細草村 | 3.5902 | 69 | 1.5903 | 31 | 5.1805 | 1.212 | 慶応 4年 1給分 |
さて、近世の石高制は、封建領主が農民を統制する上での基本的な支配制度であったが、その石高は、幕初においては検地の施行の過程で耕地の生産高に基づいて決定された。各農民の所持高の合計が村高となり、面積に対する収穫量の割合で石盛が決定され、その石盛が年貢賦課高の算定基礎となった。ところが、近世中・後期になると、石盛が土地に応じた生産高を正確に表示しなくなる。可能な限り、新田分、見取地反別も加えて算出した田地反当り石高(石盛)では、例えば前表で二等甲にランクされた養安寺村の場合、石盛一石七升九合であるのに対し、等級の低い餅木村、大網村、北吉田村、細草村などの村の石盛の方が大きい。全体的にみても、石盛の大小は、前表の水田等級と照応しておらず、そのことはまた、江戸時代の年貢量算出の基礎となる石盛が、田畑の生産高の指標とはなりえないことを暗示する。
次に、町域村々のなかから、明治七年の柿餅村(明治元年村高約五〇石)の物産を表示すると、表25のようになる。同村は、ほぼ町域の中央部(増穂地区)に立地し、水田等級では七等甲と町域で最も低いところにランクされる村である。この等級から判断しても、決して農業生産条件に恵まれた村とはいえない。生産価額で最も多額を占めるのが、米の四一%強で、その価額は一一五円余である。次いで大麦が二五%強を占め、この二つの主雑穀生産物を合計すると、全価額の六六%強を占めることになる。これに他の雑穀類と芋・菜を加えた普通物産の占める比率は、約八八%となり、特有物産に比べて高い。特有物産のなかで、商品化できるような物産は、梨、綿、鶏卵などが考えられるが、数量的には微々たるものである。あとは、いずれも自給用の域を出ないであろう。やはり、同村も水田稲作を中心に、冬作に麦を栽培する畑二毛作の農業生産構造をもつ村であることが知られる。柿餅村の物産構成から窺えるような農業構造が、用水や土地など生産諸条件に差はあるものの、町域の内陸部の村々にほぼ共通して見られる形であった。
数 量 | 価 額 | % | ||
円 | ||||
普 通 物 産 | 米 | 21石 | 115.50 | 41.5 |
大 麦 | 16石 | 70.24 | 25.2 | |
小 麦 | 4石 | 13.46 | 4.8 | |
大 豆 | 2石5斗 | 9.05 | 3.3 | |
蕎 麦 | 4石 | 10. | 3.6 | |
黍 | 3石 | 6. | 2.2 | |
粟 | 1石 | 1.97 | 0.7 | |
薩摩芋 | 800貫匁 | 16. | 5.7 | |
菜 | 400貫匁 | 4. | 1.4 | |
小 計 | 246.22 | 88.4 | ||
特 有 物 産 | 味 噌 | 90貫匁 | 9. | 3.2 |
梨 | 200貫匁 | 10. | 3.6 | |
鶏 | 60羽 | 1.80 | 0.7 | |
鶏 卵 | 650粒 | 3.088 | 1.1 | |
綿 | 22貫060匁 | 8.45 | 3.0 | |
小 計 | 32.338 | 11.6 | ||
合 計 | 278.558 | 100 | ||