(2) 町域村々の物産

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 次に、明治初年の物産表を利用して、町域村々の農業生産の特徴を知ることにしよう。海付きの村である今泉村と四天木村を除き、他のほとんどの村が、概ね山辺郡全体と似かよった生産構造を有している。しかし、細部にわたって検討すると、村々においてその生産条件、とくに水利や土質などの条件は決して一様ではない。表23は、明治十二年の水田等級表から、各村の土地の生産条件の優劣を窺うため表示したものである。明治二十二年の新村名で見当づけると、町域西部に位置する村が概して等級が高く、東部の海岸に近接する村ほど等級が下っていることが分かる。大和、瑞穂、山辺、大網、増穂、福岡、白里の地区の順で、すなわち丘陵部から海岸へ向って進むにつれて等級が下っているのである。このことは、丘陵部の方が、川の上流であるため、用水の利用に優位な位置にあり、地味の点でも海岸に近い村々に比して肥沃な土壌をもっていたことを明示する。
表23 明治12年 大網白里地域の村別水田等級表
1等山口(和)
萱野(瑞) 小中(瑞) 神房(瑞) 池田(山) 南玉(山) 金谷郷(山) 小西(和)
2等永田(瑞) 大網(網) 養安寺(和)
砂田(瑞) 駒込(瑞) 餅木(山)
3等大竹(山)
4等仏島(網)
経田(瑞)
5等富田(増) 清名幸谷(増)
北横川(増) 九十根(福)
6等南横川(増) 星谷(増) 南飯塚(増) 桂山(福) 二ノ袋(福)
上貝塚(増) 北飯塚(増) 木崎(増) 北吉田(福) 長国(福) 四天木(白) 南今泉(白)
7等柿餅(増) 上谷新田(増) 柳橋(増) 下ケ傍示(福) 細草(白) 北今泉(白)
8等
注1)  明治12年「地位等級調査心得書入」(桂山島田良吉家文書)より作成。
注2)  ( )は,明治22年の合併後の村名をあらわす。(和)大和村,(瑞)瑞穂村,(山)山辺村,(網)大網村,(増)増穂村,(福)福岡村,(白)白里村。
注3)  小中村には,小中,平沢,門谷,宮崎の各村が,また金谷郷には,金谷,小沼,長谷,真行,名の各村が,それぞれ一括して表示されている。なお,清水村については,郡が異なるので記されていない。

 明治十二年前後に、各等級にランクづけられている村々の水田反当り収穫高が、どの程度であったのかを窺ってみると、二等甲の養安寺村は、反当り一石四斗六升三合とかなり多い生産量を示している。しかし、六等甲の桂山村は五斗四升六合、六等乙の北吉田村は四斗五升七合と生産量は極端に少ない。このように、一等から七等までに区分された村々は、その反収に相当の開きがあり、この生産条件の違いは、当然それぞれの地域で営まれる農業経営に多大な影響を及ぼした。平均的には、中位の四、五等でも六、七斗の反収であったと考えられることから、当時においても、町域の村々の生産諸条件は、山辺郡全体のそれと同じようにかなり低い水準にとどめられていたといえよう。
 江戸時代の田畑面積比率では、水利や土質の点で水田耕作の生産条件が不良な海岸寄りの村ほど、水田化率が高いといった現象があらわれている(表24)。調査の対象が享保期から明治初年までというように年代的なズレがあるので、統一的な比較はできないが、それでも大体の傾向は示していると思われる。福岡地区の桂山村、北吉田村が七〇%以上の水田率を示し、細草村(白里地区)もほぼ七〇%の比率となり、他の村は、柿餅村を除いてすべて田方の比率が五七~六五%と、畑方のそれをわずかに上回る田畑面積比率である。
表24 各村の田畑面積と石盛
地区村 名田地面積%畑地面積%面積合計田地反当り
石高(石盛)
備  考
 
大和
 
養安寺村
町      
16.8323
 
64
町      
9.6416
 
36
町      
26.4809
石     
1.079
 
享保11年 1給分
山辺金谷郷
餅木村
90.0302
11.9318
58
61
65.0317
7.6413
42
39
155.0619
19.5801
1.687
1.450
文化10年 全村分
慶応 4年 全村分
瑞穂萱野村17.89025713.34264331.23281.179明治 2年 全村分
大網大網村142.61076192.350739234.96141.272寛政 5年 全村分
増穂清名幸谷村
柿餅村
54.4116
3.6218
65
45
29.4102
4.4905
35
55
83.8218
8.1123
0.772
0.784
明治 3年 全村分
明治 2年 全村分
福岡北吉田村
桂山村
18.7518
25.0408
70
74
8.1925
8.8817
30
26
26.9513
33.9225
1.371
0.929
寛政 5年 全村分
寛政 5年 全村分
白里細草村3.5902691.5903315.18051.212慶応 4年 1給分
注1)  各地区旧村現存史料より作成。
注2)  畑地に屋敷地も含む。また田畑面積に見取地,林畑なども含んでいる。
注3)  単位:面積は町,反,畝,歩,石盛は石,斗,升,合。

 さて、近世の石高制は、封建領主が農民を統制する上での基本的な支配制度であったが、その石高は、幕初においては検地の施行の過程で耕地の生産高に基づいて決定された。各農民の所持高の合計が村高となり、面積に対する収穫量の割合で石盛が決定され、その石盛が年貢賦課高の算定基礎となった。ところが、近世中・後期になると、石盛が土地に応じた生産高を正確に表示しなくなる。可能な限り、新田分、見取地反別も加えて算出した田地反当り石高(石盛)では、例えば前表で二等甲にランクされた養安寺村の場合、石盛一石七升九合であるのに対し、等級の低い餅木村、大網村、北吉田村、細草村などの村の石盛の方が大きい。全体的にみても、石盛の大小は、前表の水田等級と照応しておらず、そのことはまた、江戸時代の年貢量算出の基礎となる石盛が、田畑の生産高の指標とはなりえないことを暗示する。
 次に、町域村々のなかから、明治七年の柿餅村(明治元年村高約五〇石)の物産を表示すると、表25のようになる。同村は、ほぼ町域の中央部(増穂地区)に立地し、水田等級では七等甲と町域で最も低いところにランクされる村である。この等級から判断しても、決して農業生産条件に恵まれた村とはいえない。生産価額で最も多額を占めるのが、米の四一%強で、その価額は一一五円余である。次いで大麦が二五%強を占め、この二つの主雑穀生産物を合計すると、全価額の六六%強を占めることになる。これに他の雑穀類と芋・菜を加えた普通物産の占める比率は、約八八%となり、特有物産に比べて高い。特有物産のなかで、商品化できるような物産は、梨、綿、鶏卵などが考えられるが、数量的には微々たるものである。あとは、いずれも自給用の域を出ないであろう。やはり、同村も水田稲作を中心に、冬作に麦を栽培する畑二毛作の農業生産構造をもつ村であることが知られる。柿餅村の物産構成から窺えるような農業構造が、用水や土地など生産諸条件に差はあるものの、町域の内陸部の村々にほぼ共通して見られる形であった。
表25 明治7年 柿餅村の物産
数 量価 額%



21石 115.50 41.5
大 麦16石 70.24 25.2
小 麦4石 13.46 4.8
大 豆2石5斗9.05 3.3
蕎 麦4石 10.  3.6
3石 6.  2.2
1石 1.97 0.7
薩摩芋800貫匁16.  5.7
400貫匁4.  1.4
小 計246.22 88.4



味 噌90貫匁9.  3.2
200貫匁10.  3.6
60羽1.80 0.7
鶏 卵650粒3.0881.1
綿22貫060匁8.45 3.0
小 計32.33811.6
合  計278.558100
注)  明治8年「物産取調書(明治7年分)」(柿餅小川嘉治家文書)より作成。