(3) 南飯塚村の概況

493 ~ 494 / 1367ページ
 南飯塚村(明治元年村高約七〇石)は、町域の中央部に位置し、天保十四年(一八四三)時点で、戸数一六戸、村高七〇石余の村である。水田等級表では六等甲にランクづけられ、土地生産条件は決して良好とはいえない。各年の「村明細帳」が語るように、「川附・沼添、又は谷間等之場所ニては無御座候得共、用水掛り水旱損之患有之、米怔不宜」といった土地柄で、作物は「田方稲作之外無御座」、「畑作は二毛、三毛」を行い、農業の間に「男縄・莚、女糸・もめん」を作るような村であった。このような生産条件下にある南飯塚村で生産された物産の種類と数量を、明治三年の物産表を利用して表示することにしよう(表26)。村の規模に応じた主雑穀類の生産比率は、先の柿餅村と非常に類似する。特産物は綿だけで、それも一五〇斤という数字が示すように、商品化するほどの生産規模ではない。
表26 明治3年 南飯塚村の物産
数 量
50石  
舂き麦25石6斗
小 麦4石8斗
大 豆16石  
6石4斗
5石  
薩摩芋200俵
唐 芋90俵
胡 麻5斗
菜 種3石2斗
綿150斤
注1)  明治3年「産物書上帳扣」(南飯塚 富塚治郎家文書)より作成。
注2)  薩摩芋,唐芋は1俵=15貫匁。

 こうした農業生産の特徴をもつ南飯塚村では、生産条件の低位性を克服し、生産性を少しでも向上させ、農業経営の拡大と安定化をはかるため、近世においてもさまざまな経営上における改善が試みられた。町域村々では、江戸時代にすぐれた多くの農業経営者を輩出したが、南飯塚村の富塚主静と惺斎の父子もそのような一人である。