(7)富塚家の経営

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 惺斎が、その農業経営において、先代の主静の影響を強くうけたことは、それぞれが著わした「家政行事」と「看防之法」を比較してその類似点を検討すれば歴然とする。主静の教えの根幹をなすものは、「近世高持ノ百姓、手作ハ損ナリトテ、皆入作ニシテ、下タ屋ト云モノニナリ、……身分百姓ニテ居ナカラ、如斯コ(「ゴ」)ミ・ホコリモナク、奇麗ニ計りクラシナバ、……手作ハ損ナリトテ、作ラサルコト十四、五年ニ及」ぶとあるように、自作経営から小作経営への転換を戒め、農民らしく土にまみれて耕作に従事するよう述べている点である。
 ところで、富塚家は、南飯塚村の草分け層であり、近世中・後期においても村内第一の高持農民で、明和四年(一七六七)の所持高反別(表27)では、一六人中最高の三町九反九畝一四歩(旗本戸塚知行所三町三反七畝二〇歩、代官領六反一畝二四歩)を所持する。その所持反別のうち、高のついていない旗本戸塚知行所分の新田二反二畝四歩を差し引いた三町七反七畝一〇歩に対する石高は一三石九斗七升六合である。反当り石高は、三斗七升余と非常に小さい。この反当り石高の数字は、南飯塚村の生産諸条件の低位性をそのままあらわす。同村の総反別は、約一七町三反(石高約七〇石)で、富塚家の所持地は、そのうち約二三%を占める。その後、安政二年(一八五五)には、旗本知行所分のみであるが、三町六反余、明治三年には、同じく旗本知行所分だけで三町六反余というように、明和四年旗本知行所分のみと比較してほとんど変化がない。
表27 南飯塚村一人別所持反別 (明和4年)
所持反別
反  
治郎右衛門39.914
孫兵衛34.318
平左衛門11.317
孫右衛門10.818
三右衛門9.810
茂左衛門8.619
権兵衛8.019
源左衛門7.411
与右衛門6.907
庄左衛門6.506
庄兵衛5.811
仁右衛門5.416
長四郎5.027
長兵衛4.715
次兵衛4.315
八兵衛3.621
村 持0.124
計 16人173.228
注1)  明和4年「御領私領名寄帳」(南飯塚 富塚治郎家文書)より作成。
注2)  単位:町.反.畝.歩。

 前述のように、同家からは分家百姓を数人出しており、近世初期の「名田地主」経営から、奉公人を雇傭して行う地主手作り経営(「質地地主」経営も含む)へと転換した典型的な有力農民であった。ところが、明和・寛政期を経て、化政期に至る間に、同家の経営はさらに変化し、主静が著わした「家政行事」からも知られるように、小作経営をできるだけ縮小し、家族労働と二、三人の雇傭労働で行う手作り経営へと方向を転換しようと努力するのである。後出の表30でみるように、富塚家は化政期ごろから天保期にかけて、同家の所持地をかなり質地に入れていることが、そのことを証明している。当時の一般的にみられる労働力不足という社会現象に加え、上総道学を修めた父主静の教えが、その経営の転換に大きく作用したであろうことは考えられないことではない。
 経営を縮小した同家では、それと反比例するかのように貸金活動の比重が大きくなる。表28で示すように、弘化四年(一八四七)の貸金状況は、支出項目では古勘定残金と貸付金とが、それぞれ全体の一九・九%と五七・二%を占め、両者の合計比率は約七七%となり、小作金(金納分のみ)、米代金などの比率をはるかに上回る。ここで留意しなければならないのは、古勘定残金、貸付金とも、貸付元金に対して異常に利足が高いということである。これを、文化十年(一八一三)のそれと比較すると、文化十年には、全支出額二〇五貫文余と、弘化四年の場合よりもかなり少額であるが、そのうち古勘定残金三九貫文余の元金に対する利足は約四貫文(元金に対する比率約一〇%)、また貸付金九八貫文余に対する利足は三貫文余(同約三%)と相当少ない。それは、貸付額も少額ながら、貸付金が焦げつかないで、比較的早期に返済されたことに起因する。ところが、弘化四年になると、古勘定残金は、元金二〇四貫文余の約六一%に相当する一二五貫文余が、また貸付金についても、元金六七七貫文余の四〇%に当たる二七一貫文余の金額が、それぞれ利足として計上されているのである。これは、貸付金利が高利であったからという理由によるものではない。一か年はおろか十か年にも及ぶ利足が書き加えられ、元金のみならず、利足すら返済されていないために、このような尨大な利足額になったのである。年貢・諸役やその他は、支出より余分に小作人などから預かった金額が収入項目に計上されるので、一〇〇%以上の回収率となっているが、この年、全貸付額に対してわずかに二三%の回収率しか示していない。いかに貸付金の返済が滞っていたか窺えるであろう。
表28 貸付額と回収状況(弘化4年)
支 出 額収 入 額回収率
B/A%
換算銭額A小計%換算銭額B小計%
 
古勘定残金
同利足

204,613
125,058

329,671
 
 
19.9
 

20,258
1,314

21,572
 
 
5.7
 
 
6.5
 
貸付金
同利足
677,615
271,235
948,850
 
57.2
 
163,925
77,815
241,740
 
63.3
 
25.5
 
小作金(金納分)
同利足
212,747
15,938
228,685
 
13.8
 
52,105
710
52,815
 
13.8
 
23.1
 
米代金
同利足
107,066
9,871
116,937
 
7.0
 
25,044
0
25,044
 
6.6
 
21.4
 
年貢・諸役16,17316,1731.017,33717,3374.5107.2
その他18,79118,7911.123,14923,1496.1123.2
合 計1659,107100381,65710023.0
注1)  弘化4年「丁未暮勘定差引帳」(南飯塚 富塚治郎家文書)より作成。
注2)  銭換算,米換算は,すべて原史料中の換算率1両=銭6600文,1両=米9斗8升を用いた。
注3)  米代金の支出額は,米販売と貸米を含む。また年貢・諸役は立替分のほか自己納入分も含む。

 そのことは、同家の貸金活動が、決して営利を目的とした貸付けではなく、村内の困窮農民に当座の現金を融通することによって、彼らの経営破綻を食い止めようとするための貸付けであったことを暗示する。それは、村の長(おさ)として村落内の秩序を維持しようとする立場と、主静の一旦貸与した金銭は、返済がないものと考えよという教えとに依拠する。同家は、自作経営を志向しながらも、労働力不足により、かなりの部分を小作に出すことを余儀なくされる。しかし、その小作経営の場合でも、毎年の「小作取立帳」の最初の部分に、忠孝の志がある小作人には、「毛見切引」(作柄をみて小作米を免除すること)のときに助力し、かつ特別に出精した者に対しては、褒美として余計に切引きすることなどを定めた家訓が五か条書き留められている。事実、同家の「小作取立帳」には、「マケ」、「勘弁」などの記載が随所にみられ、小作料が作柄だけでなく、小作人の勤勉ぶりによって差し引かれていることが分かる。これらのことから、同家の貸金活動、小作経営は、その利得収入に本質があるのではなく、村内の窮民に助力を与え、村そのものを維持するための経済行為にその本分があったことが明らかとなる。その背景に上総道学を学んだ思想上の影響があったことは、否定できないであろう。