(1) 鰯地引網漁業のおこり

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 九十九里浜における鰯地引網漁業は、戦国末期から近世初期にかけて次第に発達し、元禄・享保期には大型化が進んだ。そして、宝暦・天明期から文化・文政期にかけてさらに大規模化するとともに最盛期を迎え、全国でも有数な漁業に発展した。九十九里浜に面する町域の二か村(南北今泉村と四天木村)が、北は海上郡飯岡の行部岬より、南は長柄郡大東岬に至る南北五六キロに及ぶ砂浜を利用して展開した鰯網漁業の一翼を担っていたことは、周知の事実に属する(図19)。九十九里の地引網漁業は、佐藤信季が安永九年(一七八〇)に、「諸国の漁事、九十九里の地引に如くものあることなし」(『漁村維持法』)と評し、「九十九里の地引き二百條と称す」ほどの隆盛をみたのである。こうした目ざましい発展は、この鰯網漁業が単に食糧魚生産というよりも、干鰯・〆粕など魚肥生産を目的として行われたことに起因する。とりわけ、近世初期に先進地畿内で棉作生産が発展したことにより、魚肥需要が急速に高まったこと、さらに元禄・享保期の全国的な商業的農業や主穀農業の進展に伴い、魚肥の需要が飛躍的に増大したことに、その大きな原因を求めることができる。

図19 九十九里周辺図
 
 近世前期の鰯網漁業は、地引網だけでなく、八手網(はちだあみ)・まかせ網なども存在し、これらの鰯網は、関西の出稼漁民によって関東に技術伝播された。ただ、九十九里浜においては、近世を通じて地引網による鰯網漁業が主体であり、したがって、ここで取り上げる鰯網漁業も鰯地引網漁業に限定される。この鰯地引網漁業の創業年代については、諸説があって必ずしも定説をみていない。それは、この地引網漁業の創業年代を伝える史料や文献の記載内容に大きな差異があるからである。たとえば、「江浦干鰯問屋仲間根元由来記(横須賀市図書館編『相州三浦郡東浦賀干鰯問屋関係史料』)には、
 於関東鰯漁之義は、往古宝治年中之頃、紀州之漁師西之宮久助と申もの難風ニて吹流、九十九里へ漂着仕□、同所剃金村ニ於て聊成小地引網仕立、鰯漁始候由、其後文禄年中ニは、同所浦々右小地引網ニて漁業仕候由承及候
とあり、これとほぼ同内容の記述が、明治十六年(一八八三)の『房総水産図誌』のなかにも見られる。ところが、後者では、西宮久助の漂着年代が弘治元年(一五五五)となっており、引用文中の宝治年中(一二四七~八)とは、かなりの年代的なズレがある。また、明治後期に調査された「九十九里ケ浜大地曳」(国立史料館祭魚洞文庫)のなかにある山武郡嶋浜村網主松本太郎の鰯地引網漁業沿革に関する講話には、
 応永年間、紀州片浦ノ人長郷五左衛門ナル者初メテ九十九里ケ浜ニ至リ、湾形・潮流等ノ状況ヲ見テ、鰮群ノ来遊多大ナルベキヲ以テ、今ノ山武郡白里村ニ於テ片手廻ノ地曳網ヲ創作シ、初メテ鰮漁ニ使用セリ
とあって、応永年間(一三九四~一四二七)を創業の始期とし、しかも、その地を町域の白里村(旧今泉村・四天木村・細草村)としている。
 このように、九十九里浜における鰯地引網の開始年次は、史料によってまちまちであり、そのいずれもが後年に記されたものであるため、いまひとつ信憑性に欠けるのである。しかし、いくつかの関係文献や諸史料の記述内容から推断して、戦国末期から近世初頭にかけて九十九里浜で鰯地引網漁業が操業され始めたとしても大きな間違いはないであろう。始期については統一的な確定をなしえないが、どの史料においても、関西漁民によってその漁法が伝えられ、当初においては、片手廻(かたてまわ)しによる「小地引網」が主流であったことは共通している。九十九里の地引網漁業は、関西漁民による地元漁民への技術伝播によって成長しただけでなく、その初期においては、関西の出稼漁民による操業が中心であったといわれている(荒居英次『近世日本漁村史の研究』)。事実、和泉国日根郡岡田浦からは、関東出漁(旅網(たびあみ))が盛んで、「当浦之者共、相州・房州・上総・下総浦々ニ」出漁し、少なくとも、元禄十六年(一七〇三)から元文元年(一七三六)まで今泉村に一四名、四天木村に九人の出稼漁民が確認される。

写真 九十九里浜
 
 ところが、元禄期以降次第に大型の地引網が導入されるようになると、それまでの小規模な地引網では対抗できなくなり、主に小規模な地引網で操業していた関西出稼漁民は衰退を余儀なくされた。そして、享保期を境に急速に消滅し、徐々に興隆してきた地元漁民の漁業(地網(じあみ))にとって代わられた。元禄年間の打ち続く不漁と津波による被害が、その衰廃に一層拍車をかけた。こうして、近世中期には、地元漁民による地引網漁業が、関西出漁民の旅網を駆逐し、以後、この地元漁民を中心に地引網漁業が発展していくことになる。
 しかし、元禄年間には、依然としてその規模は小さく、経営主体も、村民共同による地引網経営(村網)、有力農民を中心とする共同経営、同族による共同経営、「豪農」的な富裕農民による個人経営などさまざまであった(荒居英次前掲書)。ところが、地引網の大型化が進行するにつれて、後述するように網一乗を所有するのに、莫大な資金を必要としたため、大地引網経営を営むことができるのは、ごく一部の資力豊富な網主に限られてくるようになる。こうして、村網・共同網で操業していた中期の中小規模の地引網経営は、次第に衰微していき、特定の上層農民の個人経営による地引網漁業が主流を占めるようになる。彼らは、広大な田畑を所持し、村内の村役人を勤めているのが一般的であった。もちろん、特定の大網主が主体となるからといって、中小網主による地引網経営が全く消滅してしまったわけではない。