船が陸に漕ぎ寄せられると、岡集落の男女一〇〇人~二〇〇人が左右に別れて引綱を持って網を引き、鰯を陸揚げした。岡者には、船方や岡働のように漁獲物の割り当てはなかったが、ふつう水揚げされた鰯のうち、下等の鰯として下場に積み上げられた鰯を籠に入れて持ち帰ることが許されていた。もっとも、上代家の場合、漁業時の浜入目=諸経費のなかでその引分手間として現金支払いされることもあった。
このほか、漁事そのものに直接関与するものではないが、陸揚げされた大場の鰯を半ば独占的に買い入れる商人たちが存在した。この商人たちは、網付(あみつき)商人(付の商人、釜持商人などとも呼ばれる)といわれ、網主の網一乗ごとにおよそ二〇~三〇人が付属し、網主から買い求めた鰯を干鰯や〆粕などの魚肥に製造して、独自の流通ルートで売り捌(さば)いた。なかには、加工した魚肥を再び網主へ売ったり、網主の名前で浦賀や江戸の干鰯問屋へ出荷する網付商人もいた(『房総漁村史の研究』)。天保十三年(一八四二)に二乗の地引網を所有する四天木村の大網主斉藤四郎右衛門家では、それぞれの網に一七人と一三人の網付商人が存在した(神奈川大学日本常民文化研究所筆写文書)。なお、網付商人のうち、代表の一名(ちょうもと)が「帳元」となって、網主との鰯売買直段の交渉に当たった。