(3) 漁場と漁業年貢

552 ~ 555 / 1367ページ
 九十九里浜では、元禄年間には、関西の出稼漁民による旅網が衰退し、地元漁民の地引網漁業が一般化して、一円入会漁場が形成されていた。元禄十三年(一七〇〇)の史料に、「当浦方辺通り、地引網御領・私領共ニ従先規相互に入相、欠着(駈付)次第ニ引来申候」(中井信彦「九十九里浜に於ける地曳網漁業から揚繰網漁業への転換過程」引用文)とあり、九十九里浜一円が入会漁業地であったことが分かる。そのため、鰯群が来遊して出漁ともなれば、各網が他網に先じて鰯の多い漁場に網を張ろうとして競争となり、船方の間で乱闘騒ぎが起こることもしばしばあった。その解決に多くの浦方議定が取り決められたが、そのうち「漁業之節、先網張掛ケ候処へ、後網張懸ケ、網破り候節、繕方は勿論、後網引鰯半高、両網主ニ不拘、其最寄網主共立会、先張網主方へ相渡可申事」(国立史料館祭魚洞文庫)という嘉永五年(一八五二)の議定が、一円入会の漁業事情を端的に物語っている。ところで、近世の漁場占有利用関係を考察する場合、一つには、漁場の占有利用は古くから浦方居住民の全員によって平等に行われ、近世以降営利主義的な個人経営が発進してくると、漁場の占有利用権が特定網主、特定階層に帰属するようになったり、権利の持ち分に差異が生じるようになるとする「漁場総有説」(羽原又吉を代表とする説)がある。他方、主要漁場については、近世の漁場占有利用権は、総百姓の共有であったとする「惣百姓共有漁場説」(二野瓶徳夫説)がある。ここでは、両説を検討する余裕はないが、九十九里浜の一円入会漁場をどのように規定するかという課題については、今後、実証に基づいたより精緻な分析が要請される。
 さて、九十九里浜では、村々の地先漁業権は成立していなかったが、他村の地先で網を張り鰯を水揚げした場合、その漁獲物の販売方法には一定の制約が設けられていた。自村地先において漁獲したときは、網主の各網に付属する網付商人にその大部分が半ば独占的に売り払われることは、すでに述べた通りである。その場合でも、全部を網付商人に売却したわけではない。その売買価格が一〇両以下ならば、「網之附商人」へすべてを、また一〇両以上の「磯売大場鰯」は、「五本ニ割」って、そのうち「網之附商人」へ二本、「商人一統」へ二本、「村役人並村一同へ好身」により一本、というようにそれぞれ漁獲高=販売高に応じて比率が決められていた。そのことは、天保十三年(一八四二)の「浜商仕方議定書」(神奈川大学日本常民文化研究所筆写文書)のなかに明記されている。さらに他の地先で網を張るときには、「磯売鰯四ツ割」のうち、四分の一が「其網附商人」、四分の一が「よしみ」、四分の二が「村中商人一統軒別」に生鰯を売り払うことが約定されていたのである。このことから、操業時における村々の地先漁業権は成立していなかったが、漁獲物の量的な販売比率については、地先村々の優先権が確立していたことが明らかとなる。とくに、網付商人以外にも、水揚げされた生鰯を買い求める「商人一統」(棒手振(ぼてふ)りや小買=小商いを指すのであろう)や村役人や「好身」の者が存在していたことは注目される。その意味では、網主の鰯を買い求める商人として、これまで曖昧に使われてきた網付商人と小買を厳密に区別する必要がある。
 さて、幕府は、享保十三年(一七二八)正月九日、勘定奉行久松大和守定持らが、勘定所に代官あるいは手代を召集して、上総国を含む関東・東海地方の一〇か国の漁業権の実態調査を命ずる「御書付」を下付した(堀江俊次「享保期における勘定所の漁業権実態調査と漁業政策」『東国の社会と文化』所収)。その際、自然的諸条件が同じような海付近村を組み合わせて、浦組合ともいうべき「入合(いりあい)組合」を形成する地域もあった。九十九里浜でそのときに「入会組合」が結成されたかは不明であるが、明和期に組合で運上金(うんじょうきん)を納入している例も報告されている(山口和雄「九十九里旧地曳網漁業」)ことから、かなり早い時期に「入会組合」が組織されていたものと考えられる。後年の文政十一年(一八二八)には、九十九里浜一帯の地引網主は地域によって、旧長柄郡(和泉村~浜宿村)、旧山辺郡・旧武射郡南半(四天木村~小松村)、旧武射郡北半・旧匝瑳郡・旧海上郡(木戸村~三川村)の三大組合に区分され(海保四郎「九十九里浜旧地曳網漁業における水主対策」『横芝町史特別寄稿』所収)、さらに各大組合は、数か村ずつ三つの小組合に分かれていた(山口和雄前掲書)ことが指摘されている。幕府は、先の「御書付」のなかで、「浦方磯は其村附、沖ハ入会之定法」として「弐拾町、三拾町余之沖之方」の「根」より内は、村付地先漁業権を認めることを基本としながらも、九十九里では村付地先も一円入会漁業権と認可し、九十九里内における排他的な漁業形態を避け、当浜の慣行にしたがった漁場制度を公認した。それは、九十九里浜の魚肥生産が近世中期以降の畿内を中心とする全国的な商業的農業の発展に大きく寄与していたという事実を重視したがゆえの幕府の方策であったといえよう。
 次に、九十九里漁業における貢租について少し言及しておこう。九十九里浜一帯では、相給村落を主体とする支配関係であったため、漁業に関する貢租形態も統一的なものではなかった。貢租の賦課対象は、漁獲高か、あるいは持網、持船かのいずれかであった。この賦課対象も、初期においては漁具に課せられることが多かったが、年代を下るにしたがって漁獲高に賦課されるようになった(山口和雄前掲書)。しかし、幕末まで持船に賦課されることもあり、一概にその推転を断定することはできない。上掲写真は、寛政九年(一七九七)の四天木村(代官領のみ)の漁業年貢の皆済目録であるが、「魚猟運上」として船一艘に永一貫〇四五文で二艘分永二貫〇九〇文が課せられている。

写真 漁業年貢(四天木 内山裕治家文書)
 
 貢租額は、大体において網や船などの漁具の場合は定額で、漁獲高の場合は、十分一(分一(ぶいち))や二十分の一というように定率であった。後述する北今泉村上代家の漁業経営の場合は、本当り(春秋の職季中)は一五%、つまり漁獲高の二十分の三で、引分当り(職季外の漁獲)については五%の定率であった。これらの漁業の運上金の納入手続きは、明治初年の四天木村斉藤四郎右衛門の説明によると(吉井幸夫「上総九十九里に於ける旧地曳漁業」『社会経済史学』所収)、
 御運上之儀、是迄旧幕府・私領打混し候ニ付、不同ニ有之、上総国之内山辺郡四天木・今泉・真亀・作田、武射郡之内小松・下野・平野・折戸・下ノ郷、右九ケ村浦ヲ組合九ケ浦と唱、往古御運上納初(ママ)之由、同国長柄郡海岸浜宿村より東浪見村迄ニ組合ニ罷成、是又旧幕府へ御運上納来、其外両総海岸不残私領運上ニて互ニ入会渡世仕居候
とあるように、「入会組合」で納入していたことが分かる。貢租納入は、形式上では網主が負担することになっていたが、実質的には網主と水主の両者で負担した。