(4) 地引網漁業経営

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 近世初期においては、先述したように四つの地引網経営形態があった。ところが、元禄期前後になると、初期の小地引網が徐々に大型化し、網船二艘による鰯地引網漁業が行われるようになった。そして、享保期を経て、化政期に至ると、麻苧の全面的な普及と船材の安定的な供給により、船乗六〇~七〇人で操業される大地引網漁業が行われ、これらの歴史的推移の過程で資力の乏しい網主は、地引網漁業経営から後退を余儀なくされた。
 明治十四年(一八八一)の例であるが、大地引網一乗を所有して漁業経営を開始する場合、表31のように総額一万円余の資金を必要とした。天保十四年(一八四三)の例でも、中地引網一乗の所要資本は、水主前貸金を含めて一五〇〇両となっており(荒居英次前掲書)、地引網漁業経営には多大な労働力と莫大な資力が必要であったことが分かる。この資本を準備できるのは、当然ながら村内の富裕な有力層に限られた。文政十二年(一八二九)には、今泉村に六人、四天木村に五人の地引網主が存在したが、なかでも、(北)今泉村の上代平左衛門と四天木村の斉藤四郎右衛門は突出した大地引網主であった。
表31 大地引網1乗創業資本金見積(明治14年)
(単位:円,銭)
品     目金 額比率備   考
円 銭%
※地引船2艘及び付属品一式633.306
※新規仕立1番網1乗分代983.5519
 中古 2番網代686.001か年使用につき3割引
 中古 3番網代392.002か年使用につき6割引
※新規仕立1番大似袋1つ654.6613
 中古 2番大似袋1つ457.001か年使用につき3割引
 中古 3番大似袋1つ325.005割引
※新規仕立1番小目袋1つ393.987
 中古 2番小目袋1つ234.001か年使用につき4割引
 中古 3番小目袋1つ117.002か年使用につき7割引
※新規仕入1番綱24房代322.5613
 中古 2番綱24房代257.001か年使用につき2割引
 中古 3番綱24房代193.202か年使用につき4割引
 古綱 88房代660. 4房に付30円
※網付属諸器械代156.051
※地引営業用建物代1050.009
※柏木皮煎出し器械一式及び袋午台共180.502
 水主60人雇前渡金3,000.0030
 岡働者100人雇入前渡金300.00
合     計10,995.80100
注1)  明治14年「九十九里浦地曳網銘細調書」(四天木 斉藤八重子家文書)より作成。
注2)  ※印は地曳網1乗を経営する際,最低限必要な品目を示す。

 そこで、両者のうち、上代家の経営について、限られた史料(国立史料館祭魚洞文庫文書)ではあるが、その漁業形態なり、水主労働力の実態なりを追究することにしよう。斉藤家の祖先が「玄治・康治属ス、土気落城討死スト有共、四天寄村居住ス」(「斎藤家景図」)と土気酒井氏の旧臣を出自とし、酒井氏滅亡後、四天木村に土着したのと同じように、上代家の場合も土気ないしは東金酒井氏のいずれかの旧臣層であった祖先が北今泉村に土着した家筋であると思われる。
 今泉村は、寛文八年(一六六八)時点では五〇〇石(旗本水野氏一給)の村高をもち、寛政五年(一七九三)段階では七二九石余(同水野氏五五七石余、代官領一七二石余)と新田開発によって大幅に村高が増大している。また、近世後期には、同村は地域的に南北に分割され、上代家は北今泉に居住して旗本水野氏の名主や割元(わりもと)名主などを勤めた。明治元年(一八六八)の南北の所領高七二九石余の内訳は、北今泉約三二七石(水野氏約二三九石、代官領約八八石)、南今泉約四〇二石(水野氏約三一八石、代官領約八四石)となる。村方文書の欠如から、上代家の所持高の推移を知ることはできない。しかし、後述するように、幕末期には、小作料収入だけでもおよそ九〇石ほどであったことから、村内有数の高所持農民であったことは疑いもない。
 さて、上代家は、表32で掲示したように、文政期には、大地引網一乗を所有して、各職季に二〇〇両から一〇〇〇両ほどの漁業経営を営んだ。天保期前後には地引網を二乗に増やして、天保四年(一八三三)の春職では一二〇〇両を超える漁獲高を水揚げするほどの大網主に成長した。同表を一見して気付くように、職季ごとの漁獲高には激しい増減がある。そのことは、同家の地引網経営が豊漁・不漁に左右されて、決して安定的な基盤の上で営まれていたものではないことを暗示している。
表32 今泉村上代家漁獲高の推移
(単位 金:両分朱,銭:文)
年 次春   職秋   職
両   文両   文
文政 4年750.20ト1554 
文政 5年949.02ト323 425.10ト5192 
文政 8年232.30   
文政12年443.30ト1066 
天保 4年1203.32ト5059
弘化 1年(523.32ト2430)
注1)  文政4年~文政8年「浜漁春秋職中網引高勘定帳」,文政12年「有増勘定帳」,天保4年「さしひき帳亅,弘化1年「有増勘定帳」(いずれも国立史料館祭魚洞文庫文書)より作成。
注2)  天保期前後から2乗の網で経営が行われたが,弘化1年は,そののち「元網」分のみの漁獲高を表示した。

 上代家においては、一年を二季に分け、一月から七月ごろまでを春職とし、あとを秋職とした。そして、各職季には、「本職中」として漁獲高の多い時期を設定し、そのときの水揚げを「本当り」と呼び、それ以外の時期に網を張って漁獲したときの「引分当り」と区別した。同家では、春職の「本職中」は三月から七月ごろまで、また秋職は九月から十二月ごろまでをそれぞれ一応のメドとした。この区分は、漁獲高に対する年貢賦課と大きな関係があり、次の表33で示す通り、本職中は一五%、それ以外は五%というように運上金の比率が両者で異なった。
表33 文政4年秋職・文政5年春職 上代家地引網経営の内容
(単位 金:両分朱,銭:文)
月 日①漁獲高②大漁
報奨
渡高
③差引残高
(①-②)
④貢租%(④/③)⑤浜入目⑥差引分合計
(④+⑤)
⑦差引残高
(③-⑥)
⑧網代(⑦/2)⑨代数⑩代当り
(⑧/⑨)


4


両  文両  文両  文両  文両  文両  文両  文
8月771
8月723
本職分750.20ト155421.30728.30ト1554109.10ト634 1567.20ト1110176.30ト1744551.32ト636 275.33ト318 54人半割5.00ト226
750.20ト155421.30728.30ト1554109.10ト634 67.20ト1110176.30ト1744551.32ト636 275.33ト318 5.10ト267


5


文政4年
秋職中
干鰯ほか
追勘定
128.22ト6290128.22ト629019.12ト400 1514.22ト738 34. ト738 94.22ト555247.11ト277654人半割0.32ト5 
1月8日69.02ト222469.02ト22243.12ト663 53.12ト217946.30ト2179459.12ト826 29.23ト413 54人割0.20ト344
1月13日67.10ト650167.10ト65013.12ト400 53.12ト220006.30ト2240057.20ト505 28.30ト251 54人割0.20ト224
2月9日100. ト450010. 90. ト45004.20ト224 51.00ト10005.20ト122484.20ト327242.10ト163648人割0.32ト67 
2月10日170. ト150015. 155. ト15007.30ト72 51.10ト10009.00ト1072146. ト424 73. ト21252人割1.12ト200
本職分411.02ト  8411.02ト  861.22ト305 1542.22ト1618104.10ト1923306.20ト633 153.10ト316 55人半割2.30ト80 
949.02ト323 25. 949.02ト323 100. ト206472.10ト5750173.10ト851 748.20ト4312374.10ト56047.00ト75 
合  計1699.22ト187746.301652.32ト1877209.10ト2698139.30ト6860350.00ト25951300.12ト4948650.03ト592212.10ト342
注1)  文政4年~文政8年「浜漁春秋職中網引高勘定帳」(国立史料館祭魚洞文庫文書)より作成。
注2)  計と合計の数値は引用者が算出したが,金銭換算は史料中の1両=6900文を利用し,1両以上は金換算とした。なお,計の⑩代当りの数字は,原史料のままである。その他の数字についても,すべて原史料に依拠した。したがって,若干の集計上の誤差があることを断っておく。

 上代家の春秋一年間の漁獲高の内容が把握できる文政四年秋職から翌五年春職にかけての経営状況を表示すると、表33のようになる。まず、文政四年の秋職では、八月の二度の「引分当り」についての漁獲高は、原史料中に記載がないので明らかにできないが、その水揚げに対して、水主の分配金が七七一文と七二三文が計上されている。本職中の水揚高は、七五〇両余で、そのうち二一両三分が「十二月六日大引(大漁)」により「下働者共へ下いわし」を渡したため、全体の漁獲高から差し引かれ、残高は七二八両余となる。この差引残高に対して一五%の貢租(運上金)一〇九両余が課せられ、それに「浜入目」という諸経費六七両余が控除され、それらの差引分合計一七六両余が差し引かれて、結局、残高は五五一両余となった。地引網操業に要する諸経費である「浜入目」は、文政八年秋職の例でみると、縄代・莚代・籠代・涺油など漁業用具をはじめ、水鰯番・納屋番・岡賄・駄賃・宮番・小揚(こあげ)代などの人件費、さらには布施・袋祝・宮札・祓料など漁業の安全祈願のための費用、そのほか種々の経費というように多岐にわたる。とくに目立つのは、「小揚料」として二〇両余が計上され、九十根村・柳橋村・細草村・上谷村をはじめ近在の村々から「飛入」を含めて地引網を引く「岡者」へ引料の代償に支払われていることである。一般に、「岡者」の労働の報酬に対しては、「下場」に積み上げられた下等な鰯を分け与えるとされているが、このように生鰯を渡す代わりに現金で支払うこともかなりあったと考えられる。以上の貢租・諸経費を除いた五五一両余が、網主と水主との取り分となり、それを均等に二分して、二七五両余の「網代(あみしろ)」が算定される。一方が網主の収入となり、もう片方が船大工・鍛冶を加えた水主の取り分となる。水主一人ひとりへの配当金は、稼働人数によって決定され、本職中の場合、二七五両余を五四人半で割って五両と銭二二六文が算出されている。この代(しろ)数は、必ずしも実際の水主人数を示すものではない。上代家では、賄が一代(しろ)半、沖合四代、代船頭一代半、船大工一代小半(小半とは半代のさらに半分)と増代がなされ、逆に鍛冶は半小半と代引きが行われているように、役職にある水主は平水主より割増の報酬をうけるため、実在の人数と異なるのである。こうして、文政四年の秋職では、水主の「代(しろ)当り」=分配金は五両一分と銭二六七文と決定され、文政五年春職の七両と銭七五文を合わせて、平水主の場合、一年間で一二両一分と銭三四二文が配分されることになった。
 地引網経営の労働力主体は、現実に漁業を行う水主の労働力であり、網主は、この水主を確保するため、多額の貨幣を用意して、「足留金(あしどめきん)」に振り向けなければならなかった。新規にも水主を一人雇い入れる場合、四天木村の事例では、小額で五、六両、多額では二五両という前貸しがある(四天木 内山裕治家文書)。九十九里地引網漁業に従事する水主は、「板子(いたご)一枚下は地獄」といわれるように大変な危険が伴ったため、その操業には高度の技術と不屈の精神力が要求された。したがって、九十九里浜では、少年のときから船乗の養成をして、成人とともに上船する方法が採られた。その場合、養成費として多額な前貸金が渡されるのがふつうであった。水主は、周辺村の農家から当主の伜や弟がなる場合が多く、前貸しを受けた家では、次頁の水主証文の内容からも窺えるように、「我等忰喜代松成人之上は、御差図次弟貴殿網水主奉公ニ差出」すことが義務付けられた。そして、その前借金は、「無利足ニて御貸被下、全く御恩金之事故、忰喜代松成人之上は、聊違乱等無御座、急度水主奉公ニ差出」すことを条件に、無利足で貸し与えられたのである。またこの者が死去したり、病身のために水主勤めができなくても、貸金の返済を催促されることはなかったといわれる。その代わり、孫の出生を待って水主に迎え、女子だけの場合は聟養子を貰って前借りを引き継がせた。一見債務奴隷にも似た厳しい水主の雇傭条件のように思われるが、農業生産力の低位性から農業経営だけでは再生産が困難な当地域にあって、余分な家内労働力を水主労働に向けることによりかなりの現金を獲得でき、しかも、水主勤めをする限りにおいては、前借りの返済は強制されず、そのうえ、生活に必要な現金はいつでも網主から融通されるなど、水主奉公は水主にとって決して不利な条件とはいえなかった。前借りの継承に示されるような水主の確保とその養成は、先にみた当地域に特徴的な初生女子相続制度によって補強され、漁獲物の分配は網主と水主で折半するという「代割(しろわり)制」による分配方式が採用されるなど、この地引網漁業は、共同体的な結びつきの強い漁業形態であったといえる。

写真 水主証文(四天木 内山裕治家文書)
 
 その水主の出身地と彼らの分配金の詳細を掲出したのが、表34である。水主は、水主として雇い入れられるときに借りる「足留金」とは別に、盆暮の分配金の支給時までに当面必要な借金をし、そのほか生活に必要な食糧用の米を前借りした。同表は、前表33と関連するもので、前表では、出漁に皆勤した平水主が文政四年秋職と翌五年春職の一年間で一二両一分と銭三四二文の代(しろ)割りを受けたことを知りえた。その盆暮の支払い前に、表中のように諸雑用・市用・飯代・米などを前借りしたが、飯代については、納屋に常住して全食事をとった場合、金三分と銭九三文が計上される。また貸付項目の米は、水主の実家で食糧が不足するとき、水主の分配金をかたに前借りしたものであると推測される。とにかく、平水主を例にとっても、一年間で一二両余の分配金を入手できたのであり、海上での操業という危険性は伴うものの、内陸周辺村の農家に奉公人として雇われた者の同時期の奉公給金二~三両と比較すると、はるかに高額である。熟練者である沖合清七に至っては、一年間で約五〇両もの現金獲得を実現している。
表34 文政4年秋職・文政5年春職 上代家水主貸金及び分配金内訳
(単位 金:両分朱、銭:文)
村  名水 主 名諸雑用市用飯 代前貸合計代当り差引渡額
両   文両 両   文両   文両   文両   文
北今泉村(上ノ)    善左衛門0.32ト17390.200.20ト12931.12ト 263.10ト316612.10ト 3428.02ト 624
  〃  ( 〃 )    八郎兵衛0.30ト 6670.200.12ト 8022.22ト 7954.10ト208712.10ト 3427.02ト 755
  〃  ( 〃 )    松治郎1.10ト11230.200.30ト 9360.32ト 264.02ト199512.10ト 3427.30ト 753
  〃  ( 〃 )    半右衛門4.10ト29800.220.30ト 9361.12   7.00ト 93012.10ト 3424.20ト1460
  〃  ( 〃 )    文五郎1.20ト 1600.200.30ト 9361.12ト 264.02ト112212.00ト 4987.22ト1042
  〃  ( 〃 )    与惣兵衛1.30ト11850.200.30ト 9363.00ト212312.10ト 3428.30ト1567
  〃  ( 〃 )  市左衛門
    倅幸四郎共
3.20ト13270.321.20ト18725.32ト461924.20ト 69217.32ト1073
  〃  ( 〃 )代船頭 惣左衛門0.30ト 5550.200.30ト 9361.32ト 263.32ト150214.10ト 92910.10ト 247
  〃  ( 〃 )    久蔵0.30ト62490.200.12ト 8023.00ト14774.22ト95319.32ト 9243.22ト1458
  〃  ( 〃 )    市五郎2.00ト22540.200.30ト 9361.30ト 7095.00ト391812.10ト 3426.20ト1482
  〃  (浜戸)    武兵衛0.30ト50770.200.30ト 9361.30ト 573.30ト60819.32ト 9245.10ト 745
  〃  ( 〃 )    弥兵衛1.02ト24240.200.30ト 9361.12ト 263.30ト335812.10ト 3427.32ト1184
  〃  ( 〃 )    伝右衛門1.12ト30760.200.30ト 9360.32ト 263.20ト404412.10ト 3428.02ト 446
  〃  ( 〃 )    庄右衛門3.00ト 3140.120.30ト 9362.30ト 526.32ト131012.10ト 3425.00ト1532
  〃  ( 〃 )  吉左衛門
    倅文太郎共
2.30ト47610.101.20ト18684.30ト613524.12ト 74118.30ト 478
  〃  (上ノ)代船頭 巳之助0.30ト 2540.200.30ト 9362.00ト119414.02ト113212.00ト 779
  〃  (浜戸)    彦七3.02ト14110.200.30ト 9362.00ト 7686.12ト313712.10ト 3425.10ト1373
  〃  (当腰)    治郎左衛門1.02ト 7511.100.32ト 263.10ト 75512.10ト 3428.32ト 405
  〃  ( 〃 )    喜左衛門1.50ト99110.200.30ト 9362.30ト 6615.10ト795412.10ト 3425.30ト 782
  〃  ( 〃 )    金兵衛2.12ト17650.220.30ト 9361.32ト 265.22ト272712.10ト 3426.02ト 963
  〃  ( 〃 )    茂左衛門1.12ト38210.220.30ト 9361.10ト 4514.00ト521212.10ト 3427.12ト 985
  〃  ( 〃 )    佐兵衛0.30ト11530.300.30ト 9360.32ト 262.00ト281912.10ト 3428.32ト 735
  〃  ( 〃 )納屋 佐兵衛弟
船頭  栄蔵
1.00ト 1000.101.10ト 10013.12ト 89312.02ト 793
  〃  ( 〃 )    甚兵衛1.12ト17120.100.30ト 9362.30ト 4515.02ト307312.10ト 3426.22ト 617
  〃  ( 〃 )    七兵衛1.22ト13820.200.30ト 9361.30ト 6614.22ト336512.10ト 3427.02ト 716
北今泉村(新田)    吉三0.30ト23340.200.30ト 9362.30ト 6614.30ト394312.10ト 3426.32ト 575
北今泉村( 〃 )    勘次2.20ト11750.200.30ト 9362.00ト 6615.00ト267012.10ト 3426.30ト 917
北今泉村    助五郎0.30ト11720.100.30ト 9361.30ト211011.12ト 2759.10ト 651
  〃    久五郎1.12ト23210.100.30ト 9361.32ト 264.10ト329312.10ト 3427.20ト 373
北今泉村(新田)    勘之丞0.30   0.200.30ト 9361.32ト 263.32ト 96212.10ト 3428.02ト1052
  〃  (〃)    平四郎0.30ト14340.30ト 9360.32ト 262.12ト240012.10ト 3429.20ト 439
  又兵衛弟
    甚太
0.30ト19640.100.30ト 9361.30ト297512.00ト121910.00ト 15
南今泉村(松山)  権兵衛子供
    五郎八
2.02ト20090.100.30ト 9361.32ト 265.00ト171212.10ト 3426.30ト 731
  〃  (中谷原)    治左衛門0.30ト 3880.300.30ト 9361.32ト13034.02ト263212.00ト12197.20ト1093
  〃  ( 〃 )    巳之治郎1.00ト22500.33ト225412.10ト 34210.30ト1464
  〃  ( 〃 )    安右衛門0.32ト22070.30ト 9361.12ト 263.02ト317711.12ト 2757.30ト 442
北今泉村(新地)    新五兵衛1.00ト21360.200.30ト 9362.02ト13494.12ト438912.10ト 3427.02ト 908
北今泉村(上ノ)  佐二右衛門子供
    岩松
1.30ト 4881.30ト 48812.10ト 34210.12ト 695
  〃  (新田)  佐七弟
    万治
2.02ト 1002.02ト 10012.10ト 34210.00ト1094
浜宿村  弥右衛門弟
    勇八
0.32ト57516722.00ト64179.30ト18018.02ト 498
大沼田村    要助0.32ト46796720.32ト48559.32ト16028.20ト 197
北今泉村(浜戸)  八郎左衛門子供
船頭  卯之助
0.30ト 4430.30ト 44313.00ト 34212.00ト 823
南今泉村(中谷原) 与次右衛門(与吉)1.10ト45050.200.30ト 9361.32ト 264.12ト548012.10ト 3426.30ト 762
北今泉村(新地) 甚左衛門(長七)0.30ト69180.32ト 261.22ト395412.00ト12678.32ト 719
南今泉村かじき 亀松0.30   0.101.30ト 522.22ト 5212.10ト 3429.20ト 290
  〃上ナヤ 長吉
 隠居
1.10   3.00   4.10   12.10ト 3428.00ト 342
 賄  長右衛門8530.100.10ト 85317.20ト154817.10ト 715
沖合  清七5.00ト35745.00ト357449.00ト138843.20ト1211
    船大工15.11ト 43115.11ト 431
    鍛冶9.01ト 2609.01ト 260
合  計52人84.32ト325118.2231.30ト156156.20ト3624194.03ト2990676.02ト929477.12ト5191
注1)  史料は表33と同じ。
注2)  水主名欄の( )は、文政4年秋職と文政5年春職とで同一家族ではあるが水主が代わるものを示す。
注3)  表中の数値は原史料の数字をそのまま利用したため、若干の誤差がある。
注4)  合計の金銭換算は、原史料中に記載のある1両=6900文を利用した。

 船大工・鍛冶を含めたこれらの水主五二人は、同表からも明らかなように、浜宿村勇八、大沼田村要助を除いて、すべて南北今泉村の出身者で占められている。そして、その大部分が上代家の居住する北今泉村の水主である。今泉村全体の家数は、寛政五年(一七九三)で二九七戸、明治元年(一八六八)で三一四戸であり、明治元年の場合、北今泉は一三〇戸、南今泉は一八四戸という内訳となっている。この家数からすれば、今泉村の約二割の村民が上代家の地引網経営に水主として関わっていたことになり、北今泉村だけに限定すれば、その割合はさらに上昇する。それにとどまらず、後年に新元(しんもと)の二乗の地引網を所有するようになると、たとえ経営が一体であっても、それぞれの網に付属する水主は新網・元網で重複することがないことから、それまで以上に村内の農民が同家の地引網漁業に関係するようになる。こうして、村役人である上代家を中心に、地縁的な結合の強い形でこの大地引網漁業が営まれたのである。
 そのうえ、彼ら水主の多くは、上代家と小作関係を結んでいた。この水主と小作人との両側面の性格規定については、これまでもいくつかの試論が出されている。その主なものとして、小作による水主と、単なる雇水主との二つに大別する見解(吉井幸夫説)や、前貸金による雇水主と、そのほか小作地貸与による小作水主の存在を指摘する見解(山口和雄説)、大地引網漁業は、地主小作制の上に成立したものであると主張する論説(中井信彦説)、さらには、漁業経営と小作経営とは全く別個の経営体とする説(荒居英次説)など諸説があるが、今日まで定説をみるに至っていない。
 上代家でも、小作人を六〇人ほど抱え、その小作料は八四石余にも達する(表35)。同表では一四枚分の小作地については、小作料が記帳されていないので省いたが、一枚平均小作料四斗という数値からすればその分で六石弱となり、これを八四石余の小作料に加算すると嘉永二年(一八四九)の同家の総小作料収入高は、およそ九〇石となる。そのうち、南北今泉村では、全小作人数五九人中五四人、小作料率で八九・五%を占め、ほとんどの小作人が南北今泉村、とくに北今泉村に居住していたことが分かる。前の表34の水主名とは年代がズレるので比較しえないが、上代家と小作関係に入っている農民の多くが、同時に同家の水主であったことは容易に想像できる。九十九里地域においては網主が土地を集積していく形態は、新田開発による所持地の拡大と、質地→流地の過程を経て地主化する形が一般的であったと指摘されている(荒居英次前掲書)。その質地地主化の進行は、豊漁時の漁業・商業利潤が土地集積に注ぎ込まれた結果であり、大地引網経営を営む以上、多数の水主の飯米を大量に調達する必要があったので、大網主による土地の集積は一段と進んだ。
表35 嘉永2年 上代家小作料
(単位:石斗升合)
小作人居住地人数小作料比率
%
北今泉村4763.47074.8
南今泉村712.50014.7
真亀村48.1009.6
細草村10.8000.9
合 計5984.870100
注1)  嘉永2年「下作内見帳」(国立史料館祭魚洞文庫文書)より作成。
注2)  小作料表示のない耕地14枚分は除いた。

 これまで、上代家の鰯地引網経営は、共同体的色彩の強い漁業であったことを知りえたが、網主はこの大規模な地引網経営でどの程度の実利をあげえたのであろうか。そのことを知るために、明治十年(一八七七)から同十四年までの五か年間の平均収支を記した史料(四天木 斉藤八重子家文書)を手掛かりに検討してみよう。収入は、漁獲高四八〇〇円、古器械売却代五九六円八三銭の合計五三九六円八三銭となる。他方、支出は、漁具の消耗品費四八〇円、水主給金一九二〇円、漁具など網主仕入高二九六七円九〇銭で支出合計五三六七円九〇銭となる。収支差額は二八円九三銭で、この網主利益は、わずかに全収入額の五%しかならない。漁獲高四八〇〇円に対しては、一%にも満たない低い収益である。この数字は、九十九里地引網漁業が衰退の一途をたどる明治十年代の試算ということで、そのまま近世の漁業経営に当てはめることはできないが、上代家の天保八年(一八三七)の春職の「金銭出入帳」に記帳された収支内容をみても、純利益は決して多額なものではなく、むしろ収支においては、支出の方が多いという内容を示すのである。同帳を集計した結果では、入金四一六二両余、出金四三七〇両余となり、出金の方が二〇八両ほど入金を上回る。もっとも、出金のなかに水主への前貸しや、他人への融通金がかなり含まれているので、この出超が必ずしも同家の経営の赤字を意味するものではない。しかし、入金の項目をみても、三〇〇~四〇〇両の借入れが計上されており、そのことは、借用金によって経営を維持しなければならない大網主経営の基盤の弱さを示唆するとともに、たとえ大規模な地引網経営でもその利益は決して大きなものではなかったことを示している。
 九十九里では、たとえ大地引網主といっても、その多くが浦賀や江戸の干鰯問屋から仕込(しこみ)金=前貸金を受けていたといわれる(戸谷敏之「江戸干鰯問屋仲間」)。たとえば、江戸干鰯問屋では、銚子付近を仕入地とする銚子場、夷隅地方を主体とする永代場・元場と、九十九里浜を主とする江川場の四市場に分かれていたが、仕込金が最も多額であったのは、九十九里浜で、逆に少なかったのが房州南岸、また全く必要としなかったのが銚子であった(伊東弥之助「江戸の干鰯〆粕市場」)。それは、九十九里漁業の問屋制支配による仕込金の多さを物語るものである。また網主のなかには、このほかにも、近在の有力農民からの借り入れに大きく依存する網主もいた。寛政元年(一七八九)には、片貝村(現九十九里町)の網主源兵衛が、「此度網相続金ニ差支」えたので、木崎村七兵衛から二〇両の融資をうけ、その代償に網の三分の一の権利を譲渡し、その三分の一の網株高に応じた漁獲物を七兵衛に分配することを約束している(木崎 富塚勝男家文書)。慶応二年(一八六六)にも、真亀村(現九十九里町)の網主八郎左衛門が「網方仕入要用ニ差支」えたので、米代金四〇〇両を清名幸谷村専蔵・四郎右衛門・勘左衛門・錬太郎の四人から借用し、もし返済期日になっても「相当之利足相加」えて返却できないようなら、「干鰯壱俵ニ付、三斗入八百俵無相違相渡」すと約定している(清名幸谷 大原豊家文書)。こうした在地の有力農民から資金の融通をうけながら地引網経営を行っていた網主が、かなり存在したものと思われる。上代家の場合でも、浦賀や江戸の干鰯問屋よりむしろ、村内外の有力農民や、隣接する四天木村の大網主斉藤家から多額借用していたことが史料のなかで確認される。同家は、近在の農民から仕込金を借り入れるとともに、大網主相互で金銭の融通を行っていたのである。そして、在地で仕込金を貸与した有力農民のなかには、その網主が所有する網株の一定部分を獲得することにより、漁獲高の一部の配当をうける権利を有するようになった者もいた。
 最後に、漁獲物の流通について触れておくと、上代家では、水揚げされた鰯は今泉村地先で網を張った場合には、当然その大部分が同家の地引網に付属する網付商人に販売された。「帳元(ちょうもと)」といって網付商人のなかから代表が一人選ばれ、網主との間で売買価格を交渉する。そのとき、「此漁産商人タルヤ、水魚売買ノ際価格ヲ極メ、水魚商人エ相渡スモ、証書ノ取引モナク、売方、買方互ニ諸手ヲ打チ、以テ売買行届タルト為スノ風習ナレハ、其場ニ於テ代金取遣リハ無之モノニテ、後日ノモノトス」(国立史料館祭魚洞文庫 明治十二年「九十九里漁場沿革」)とあるように、「漁産商人」(網主)と「水魚商人」(網付商人)との間では、全くの信用取引によって口頭で価格を決定するのみで、証文類は一切作成しなかったようである。しかも、代金は、後日大体三十日ぐらいをメドに網主へ「帳元」が一括して支払う商業慣行になっていた。もちろん、すべて交渉が成立するとは限らず、価格の点で取引が決裂する場合には、「価格ノ高低又ハ網主ニ於テ見込アル時ハ、売買ヲ止メ、網主ニ干鰯・〆粕ニ製スル事モアリ」と、網主自らが水主を使って干鰯や〆粕に加工することもあった。
 このようにして陸揚げされた鰯は、その場で網付商人、ないしは若干部分は小買商人たちに販売されて、彼らが魚肥に製造し、独自の流通網で売却したり、網主自身が魚肥に加工して浦賀や江戸の干鰯問屋に販売したりした。ただ、網付商人によって加工された魚肥も、網主の名前で、江戸や浦賀の干鰯問屋に売り捌くこともあった。上代家で安政六年(一八五九)に浦賀の干鰯問屋宮原屋次兵衛と和泉屋三郎兵衛に販売された魚肥量の内訳をみると、干鰯六六一五俵のうち、上代家の元網(〓印)と新網(〓印)の合計は六五六二俵、網付商人の分は五三俵となり、〆粕については二一二七俵はすべて網付商人の分で、さらに魚油は二一二樽のうち、上代家分七二樽、網付商人分一四〇樽となっている(「積荷物手板之扣」)。これは、安政六年(一八五九)十一月から翌万延元年正月までの約四か月間に、上代家を経て浦賀の二干鰯問屋に輸送された魚肥の数量であり、網付商人の魚肥販売量が少ないのは、各自で売却した部分がかなりあるためである。浦賀の問屋でも、上代家は、とくに宮原屋との取引関係が主体で、この四か月間の取引では、干鰯一二四俵と〆粕一〇八俵だけが和泉屋への販売で、残りはすべて宮原屋である。

写真 網付商人生鰯売買図 (千葉県漁業連資料室蔵)
 
 浦賀干鰯問屋は、寛永十九年(一六四二)に開設された。彼らの多くは、関西出漁民と同一の故郷をもつ者で、近世初期の関西漁民の関東進出に呼応して、生産・加工された干鰯を大量に集荷し、畿内方面へ廻送した。ところが、元禄十年(一六九七)、幕府の公認をえて江戸干鰯問屋仲間が成立するに及んで、浦賀干鰯問屋仲間はその商業活動を著しく制限され、元文以降はその立場が逆転するようになった(荒居英次前掲書)。上代家でも、文政五年(一八二二)の干鰯販売先を調べると、浦賀の宮原屋と並んで、江戸の西宮屋の名が見受けられるが、先の安政六年では、江戸干鰯問屋への出荷は皆無である。一般的に、近世中期以降、江戸干鰯問屋が浦賀干鰯問屋を凌駕するといわれるが、同家に限っては、その後も一貫して浦賀干鰯問屋、とりわけ宮原屋との取引が主流であった。ところが、大地引網漁業が漸次衰微していく幕末期になると、その販売先は、表36に示すように、「地売」がかなりの比重を占めてくるようになる。無論、開業当初から地払いは行われていたが、幕末段階ではその割合が増大し、町域内の村々だけでも三〇%を占めるようになる。とくに、干鰯代金の相当の部分が、米の購入代金二八両余で相殺されている点は注目される。浦賀干鰯問屋の衰退によって、仕込金の手だてを狭められた網主が、在方の金貸資本と結合することにより、新しい流通組織を形成しようとしたことが、販売先の変化となってあらわれているといえよう。しかし、大網主といえども、その経営基盤は極めて不安定で、そうした在方の金主との関係が創り出せない場合は、資金難のために没落してしまう網主もいた。
表36 慶応元年春職分 上代家干鰯販売内訳
村 名人数干鰯
販売
俵数
干鰯販売代金%
購入
俵数
米購入代金




両   文両   文
赤荻村83825.33   1318.01ト3400
柳橋村33922.23ト100045.20   
清名幸谷村52412.00   44.20   
四天木村294.30ト 300
南今泉村142.20   
上貝塚村142.10   
経田村132.01   
小計7か村2112172.03ト1300302128.01ト3873




横須賀村2210167.12ト 600
砂古瀬村28447.20   
橋 場15034.12   
八日市場村12826.02   
和田村14123.23ト 900
押堀村1148.21ト 60045.20ト 761
生実村3126.13   
大沼田村274.10ト 600
求名村142.10   
五木田村142.00   
滝沢村110.20   
不 明44019.22   
小計11か村40386242.23ト27007045.20ト 761
合計18か村61507314.32ト40001002533.21ト4634
注1)  慶応元年「干鰯売揚帳亅(国立史料館祭魚洞文庫文書)より作成。
注2)  単位は金:両分朱,銭:文。

 幕末・維新期を迎えると、諸職人の余業の発展、それに伴う労働力市場の拡大、水主への貸付金の不足とその回収の停滞、さらには、安価な蝦夷の鰊魚肥の全国的な流通との競合と、その結果としての生産過剰、そして共同体的な結びつきの弛緩(しかん)といった諸事情によって、それまで商業的農業の展開とともに、肥効の高い魚肥生産を背景に九十九里一帯で興隆をみた鰯大地引網漁業は次第に廃頽していく。そこでは、大地引網経営は、その経営規模を縮小することを余儀なくされ、地引網と併行して操業される刺網・建網・コロ網などの各種網漁業の発達、そしてなによりも、明治二十三年(一八九〇)に考案使用され始めた改良揚繰網の出現によって、地引網漁業は一大転換を迫られることになる。