明治十四年(一八八一)の例であるが、大地引網一乗を所有して漁業経営を開始する場合、表31のように総額一万円余の資金を必要とした。天保十四年(一八四三)の例でも、中地引網一乗の所要資本は、水主前貸金を含めて一五〇〇両となっており(荒居英次前掲書)、地引網漁業経営には多大な労働力と莫大な資力が必要であったことが分かる。この資本を準備できるのは、当然ながら村内の富裕な有力層に限られた。文政十二年(一八二九)には、今泉村に六人、四天木村に五人の地引網主が存在したが、なかでも、(北)今泉村の上代平左衛門と四天木村の斉藤四郎右衛門は突出した大地引網主であった。
品 目 | 金 額 | 比率 | 備 考 |
円 銭 | % | ||
※地引船2艘及び付属品一式 | 633.30 | 6 | |
※新規仕立1番網1乗分代 | 983.55 | 19 | |
中古 2番網代 | 686.00 | 1か年使用につき3割引 | |
中古 3番網代 | 392.00 | 2か年使用につき6割引 | |
※新規仕立1番大似袋1つ | 654.66 | 13 | |
中古 2番大似袋1つ | 457.00 | 1か年使用につき3割引 | |
中古 3番大似袋1つ | 325.00 | 5割引 | |
※新規仕立1番小目袋1つ | 393.98 | 7 | |
中古 2番小目袋1つ | 234.00 | 1か年使用につき4割引 | |
中古 3番小目袋1つ | 117.00 | 2か年使用につき7割引 | |
※新規仕入1番綱24房代 | 322.56 | 13 | |
中古 2番綱24房代 | 257.00 | 1か年使用につき2割引 | |
中古 3番綱24房代 | 193.20 | 2か年使用につき4割引 | |
古綱 88房代 | 660. | 4房に付30円 | |
※網付属諸器械代 | 156.05 | 1 | |
※地引営業用建物代 | 1050.00 | 9 | |
※柏木皮煎出し器械一式及び袋午台共 | 180.50 | 2 | |
水主60人雇前渡金 | 3,000.00 | 30 | |
岡働者100人雇入前渡金 | 300.00 | ||
合 計 | 10,995.80 | 100 | |
そこで、両者のうち、上代家の経営について、限られた史料(国立史料館祭魚洞文庫文書)ではあるが、その漁業形態なり、水主労働力の実態なりを追究することにしよう。斉藤家の祖先が「玄治・康治属ス、土気落城討死スト有共、四天寄村居住ス」(「斎藤家景図」)と土気酒井氏の旧臣を出自とし、酒井氏滅亡後、四天木村に土着したのと同じように、上代家の場合も土気ないしは東金酒井氏のいずれかの旧臣層であった祖先が北今泉村に土着した家筋であると思われる。
今泉村は、寛文八年(一六六八)時点では五〇〇石(旗本水野氏一給)の村高をもち、寛政五年(一七九三)段階では七二九石余(同水野氏五五七石余、代官領一七二石余)と新田開発によって大幅に村高が増大している。また、近世後期には、同村は地域的に南北に分割され、上代家は北今泉に居住して旗本水野氏の名主や割元(わりもと)名主などを勤めた。明治元年(一八六八)の南北の所領高七二九石余の内訳は、北今泉約三二七石(水野氏約二三九石、代官領約八八石)、南今泉約四〇二石(水野氏約三一八石、代官領約八四石)となる。村方文書の欠如から、上代家の所持高の推移を知ることはできない。しかし、後述するように、幕末期には、小作料収入だけでもおよそ九〇石ほどであったことから、村内有数の高所持農民であったことは疑いもない。
さて、上代家は、表32で掲示したように、文政期には、大地引網一乗を所有して、各職季に二〇〇両から一〇〇〇両ほどの漁業経営を営んだ。天保期前後には地引網を二乗に増やして、天保四年(一八三三)の春職では一二〇〇両を超える漁獲高を水揚げするほどの大網主に成長した。同表を一見して気付くように、職季ごとの漁獲高には激しい増減がある。そのことは、同家の地引網経営が豊漁・不漁に左右されて、決して安定的な基盤の上で営まれていたものではないことを暗示している。
年 次 | 春 職 | 秋 職 |
両 文 | 両 文 | |
文政 4年 | 750.20ト1554 | |
文政 5年 | 949.02ト323 | 425.10ト5192 |
文政 8年 | 232.30 | |
文政12年 | 443.30ト1066 | |
天保 4年 | 1203.32ト5059 | |
弘化 1年 | (523.32ト2430) | |
上代家においては、一年を二季に分け、一月から七月ごろまでを春職とし、あとを秋職とした。そして、各職季には、「本職中」として漁獲高の多い時期を設定し、そのときの水揚げを「本当り」と呼び、それ以外の時期に網を張って漁獲したときの「引分当り」と区別した。同家では、春職の「本職中」は三月から七月ごろまで、また秋職は九月から十二月ごろまでをそれぞれ一応のメドとした。この区分は、漁獲高に対する年貢賦課と大きな関係があり、次の表33で示す通り、本職中は一五%、それ以外は五%というように運上金の比率が両者で異なった。
月 日 | ①漁獲高 | ②大漁 報奨 渡高 | ③差引残高 (①-②) | ④貢租 | %(④/③) | ⑤浜入目 | ⑥差引分合計 (④+⑤) | ⑦差引残高 (③-⑥) | ⑧網代(⑦/2) | ⑨代数 | ⑩代当り (⑧/⑨) | |
文 政 4 年 秋 職 | 両 文 | 両 | 両 文 | 両 文 | 両 文 | 両 文 | 両 文 | 両 文 | ||||
8月 | ― | ― | 771 | |||||||||
8月 | ― | ― | 723 | |||||||||
本職分 | 750.20ト1554 | 21.30 | 728.30ト1554 | 109.10ト634 | 15 | 67.20ト1110 | 176.30ト1744 | 551.32ト636 | 275.33ト318 | 54人半割 | 5.00ト226 | |
計 | 750.20ト1554 | 21.30 | 728.30ト1554 | 109.10ト634 | 67.20ト1110 | 176.30ト1744 | 551.32ト636 | 275.33ト318 | 5.10ト267 | |||
文 政 5 年 春 職 | 文政4年 秋職中 干鰯ほか 追勘定 | 128.22ト6290 | 128.22ト6290 | 19.12ト400 | 15 | 14.22ト738 | 34. ト738 | 94.22ト5552 | 47.11ト2776 | 54人半割 | 0.32ト5 | |
1月8日 | 69.02ト2224 | 69.02ト2224 | 3.12ト663 | 5 | 3.12ト21794 | 6.30ト21794 | 59.12ト826 | 29.23ト413 | 54人割 | 0.20ト344 | ||
1月13日 | 67.10ト6501 | 67.10ト6501 | 3.12ト400 | 5 | 3.12ト22000 | 6.30ト22400 | 57.20ト505 | 28.30ト251 | 54人割 | 0.20ト224 | ||
2月9日 | 100. ト4500 | 10. | 90. ト4500 | 4.20ト224 | 5 | 1.00ト1000 | 5.20ト1224 | 84.20ト3272 | 42.10ト1636 | 48人割 | 0.32ト67 | |
2月10日 | 170. ト1500 | 15. | 155. ト1500 | 7.30ト72 | 5 | 1.10ト1000 | 9.00ト1072 | 146. ト424 | 73. ト212 | 52人割 | 1.12ト200 | |
本職分 | 411.02ト 8 | 411.02ト 8 | 61.22ト305 | 15 | 42.22ト1618 | 104.10ト1923 | 306.20ト633 | 153.10ト316 | 55人半割 | 2.30ト80 | ||
計 | 949.02ト323 | 25. | 949.02ト323 | 100. ト2064 | 72.10ト5750 | 173.10ト851 | 748.20ト4312 | 374.10ト5604 | 7.00ト75 | |||
合 計 | 1699.22ト1877 | 46.30 | 1652.32ト1877 | 209.10ト2698 | 139.30ト6860 | 350.00ト2595 | 1300.12ト4948 | 650.03ト5922 | 12.10ト342 | |||
上代家の春秋一年間の漁獲高の内容が把握できる文政四年秋職から翌五年春職にかけての経営状況を表示すると、表33のようになる。まず、文政四年の秋職では、八月の二度の「引分当り」についての漁獲高は、原史料中に記載がないので明らかにできないが、その水揚げに対して、水主の分配金が七七一文と七二三文が計上されている。本職中の水揚高は、七五〇両余で、そのうち二一両三分が「十二月六日大引(大漁)」により「下働者共へ下いわし」を渡したため、全体の漁獲高から差し引かれ、残高は七二八両余となる。この差引残高に対して一五%の貢租(運上金)一〇九両余が課せられ、それに「浜入目」という諸経費六七両余が控除され、それらの差引分合計一七六両余が差し引かれて、結局、残高は五五一両余となった。地引網操業に要する諸経費である「浜入目」は、文政八年秋職の例でみると、縄代・莚代・籠代・涺油など漁業用具をはじめ、水鰯番・納屋番・岡賄・駄賃・宮番・小揚(こあげ)代などの人件費、さらには布施・袋祝・宮札・祓料など漁業の安全祈願のための費用、そのほか種々の経費というように多岐にわたる。とくに目立つのは、「小揚料」として二〇両余が計上され、九十根村・柳橋村・細草村・上谷村をはじめ近在の村々から「飛入」を含めて地引網を引く「岡者」へ引料の代償に支払われていることである。一般に、「岡者」の労働の報酬に対しては、「下場」に積み上げられた下等な鰯を分け与えるとされているが、このように生鰯を渡す代わりに現金で支払うこともかなりあったと考えられる。以上の貢租・諸経費を除いた五五一両余が、網主と水主との取り分となり、それを均等に二分して、二七五両余の「網代(あみしろ)」が算定される。一方が網主の収入となり、もう片方が船大工・鍛冶を加えた水主の取り分となる。水主一人ひとりへの配当金は、稼働人数によって決定され、本職中の場合、二七五両余を五四人半で割って五両と銭二二六文が算出されている。この代(しろ)数は、必ずしも実際の水主人数を示すものではない。上代家では、賄が一代(しろ)半、沖合四代、代船頭一代半、船大工一代小半(小半とは半代のさらに半分)と増代がなされ、逆に鍛冶は半小半と代引きが行われているように、役職にある水主は平水主より割増の報酬をうけるため、実在の人数と異なるのである。こうして、文政四年の秋職では、水主の「代(しろ)当り」=分配金は五両一分と銭二六七文と決定され、文政五年春職の七両と銭七五文を合わせて、平水主の場合、一年間で一二両一分と銭三四二文が配分されることになった。
地引網経営の労働力主体は、現実に漁業を行う水主の労働力であり、網主は、この水主を確保するため、多額の貨幣を用意して、「足留金(あしどめきん)」に振り向けなければならなかった。新規にも水主を一人雇い入れる場合、四天木村の事例では、小額で五、六両、多額では二五両という前貸しがある(四天木 内山裕治家文書)。九十九里地引網漁業に従事する水主は、「板子(いたご)一枚下は地獄」といわれるように大変な危険が伴ったため、その操業には高度の技術と不屈の精神力が要求された。したがって、九十九里浜では、少年のときから船乗の養成をして、成人とともに上船する方法が採られた。その場合、養成費として多額な前貸金が渡されるのがふつうであった。水主は、周辺村の農家から当主の伜や弟がなる場合が多く、前貸しを受けた家では、次頁の水主証文の内容からも窺えるように、「我等忰喜代松成人之上は、御差図次弟貴殿網水主奉公ニ差出」すことが義務付けられた。そして、その前借金は、「無利足ニて御貸被下、全く御恩金之事故、忰喜代松成人之上は、聊違乱等無御座、急度水主奉公ニ差出」すことを条件に、無利足で貸し与えられたのである。またこの者が死去したり、病身のために水主勤めができなくても、貸金の返済を催促されることはなかったといわれる。その代わり、孫の出生を待って水主に迎え、女子だけの場合は聟養子を貰って前借りを引き継がせた。一見債務奴隷にも似た厳しい水主の雇傭条件のように思われるが、農業生産力の低位性から農業経営だけでは再生産が困難な当地域にあって、余分な家内労働力を水主労働に向けることによりかなりの現金を獲得でき、しかも、水主勤めをする限りにおいては、前借りの返済は強制されず、そのうえ、生活に必要な現金はいつでも網主から融通されるなど、水主奉公は水主にとって決して不利な条件とはいえなかった。前借りの継承に示されるような水主の確保とその養成は、先にみた当地域に特徴的な初生女子相続制度によって補強され、漁獲物の分配は網主と水主で折半するという「代割(しろわり)制」による分配方式が採用されるなど、この地引網漁業は、共同体的な結びつきの強い漁業形態であったといえる。
写真 水主証文(四天木 内山裕治家文書)
その水主の出身地と彼らの分配金の詳細を掲出したのが、表34である。水主は、水主として雇い入れられるときに借りる「足留金」とは別に、盆暮の分配金の支給時までに当面必要な借金をし、そのほか生活に必要な食糧用の米を前借りした。同表は、前表33と関連するもので、前表では、出漁に皆勤した平水主が文政四年秋職と翌五年春職の一年間で一二両一分と銭三四二文の代(しろ)割りを受けたことを知りえた。その盆暮の支払い前に、表中のように諸雑用・市用・飯代・米などを前借りしたが、飯代については、納屋に常住して全食事をとった場合、金三分と銭九三文が計上される。また貸付項目の米は、水主の実家で食糧が不足するとき、水主の分配金をかたに前借りしたものであると推測される。とにかく、平水主を例にとっても、一年間で一二両余の分配金を入手できたのであり、海上での操業という危険性は伴うものの、内陸周辺村の農家に奉公人として雇われた者の同時期の奉公給金二~三両と比較すると、はるかに高額である。熟練者である沖合清七に至っては、一年間で約五〇両もの現金獲得を実現している。
村 名 | 水 主 名 | 諸雑用 | 市用 | 飯 代 | 米 | 前貸合計 | 代当り | 差引渡額 |
両 文 | 両 | 両 文 | 両 文 | 両 文 | 両 文 | |||
北今泉村(上ノ) | 善左衛門 | 0.32ト1739 | 0.20 | 0.20ト1293 | 1.12ト 26 | 3.10ト3166 | 12.10ト 342 | 8.02ト 624 |
〃 ( 〃 ) | 八郎兵衛 | 0.30ト 667 | 0.20 | 0.12ト 802 | 2.22ト 795 | 4.10ト2087 | 12.10ト 342 | 7.02ト 755 |
〃 ( 〃 ) | 松治郎 | 1.10ト1123 | 0.20 | 0.30ト 936 | 0.32ト 26 | 4.02ト1995 | 12.10ト 342 | 7.30ト 753 |
〃 ( 〃 ) | 半右衛門 | 4.10ト2980 | 0.22 | 0.30ト 936 | 1.12 | 7.00ト 930 | 12.10ト 342 | 4.20ト1460 |
〃 ( 〃 ) | 文五郎 | 1.20ト 160 | 0.20 | 0.30ト 936 | 1.12ト 26 | 4.02ト1122 | 12.00ト 498 | 7.22ト1042 |
〃 ( 〃 ) | 与惣兵衛 | 1.30ト1185 | 0.20 | 0.30ト 936 | 3.00ト2123 | 12.10ト 342 | 8.30ト1567 | |
〃 ( 〃 ) | 市左衛門 倅幸四郎共 | 3.20ト1327 | 0.32 | 1.20ト1872 | 5.32ト4619 | 24.20ト 692 | 17.32ト1073 | |
〃 ( 〃 ) | 代船頭 惣左衛門 | 0.30ト 555 | 0.20 | 0.30ト 936 | 1.32ト 26 | 3.32ト1502 | 14.10ト 929 | 10.10ト 247 |
〃 ( 〃 ) | 久蔵 | 0.30ト6249 | 0.20 | 0.12ト 802 | 3.00ト1477 | 4.22ト9531 | 9.32ト 924 | 3.22ト1458 |
〃 ( 〃 ) | 市五郎 | 2.00ト2254 | 0.20 | 0.30ト 936 | 1.30ト 709 | 5.00ト3918 | 12.10ト 342 | 6.20ト1482 |
〃 (浜戸) | 武兵衛 | 0.30ト5077 | 0.20 | 0.30ト 936 | 1.30ト 57 | 3.30ト6081 | 9.32ト 924 | 5.10ト 745 |
〃 ( 〃 ) | 弥兵衛 | 1.02ト2424 | 0.20 | 0.30ト 936 | 1.12ト 26 | 3.30ト3358 | 12.10ト 342 | 7.32ト1184 |
〃 ( 〃 ) | 伝右衛門 | 1.12ト3076 | 0.20 | 0.30ト 936 | 0.32ト 26 | 3.20ト4044 | 12.10ト 342 | 8.02ト 446 |
〃 ( 〃 ) | 庄右衛門 | 3.00ト 314 | 0.12 | 0.30ト 936 | 2.30ト 52 | 6.32ト1310 | 12.10ト 342 | 5.00ト1532 |
〃 ( 〃 ) | 吉左衛門 倅文太郎共 | 2.30ト4761 | 0.10 | 1.20ト1868 | 4.30ト6135 | 24.12ト 741 | 18.30ト 478 | |
〃 (上ノ) | 代船頭 巳之助 | 0.30ト 254 | 0.20 | 0.30ト 936 | 2.00ト1194 | 14.02ト1132 | 12.00ト 779 | |
〃 (浜戸) | 彦七 | 3.02ト1411 | 0.20 | 0.30ト 936 | 2.00ト 768 | 6.12ト3137 | 12.10ト 342 | 5.10ト1373 |
〃 (当腰) | 治郎左衛門 | 1.02ト 751 | 1.10 | 0.32ト 26 | 3.10ト 755 | 12.10ト 342 | 8.32ト 405 | |
〃 ( 〃 ) | 喜左衛門 | 1.50ト9911 | 0.20 | 0.30ト 936 | 2.30ト 661 | 5.10ト7954 | 12.10ト 342 | 5.30ト 782 |
〃 ( 〃 ) | 金兵衛 | 2.12ト1765 | 0.22 | 0.30ト 936 | 1.32ト 26 | 5.22ト2727 | 12.10ト 342 | 6.02ト 963 |
〃 ( 〃 ) | 茂左衛門 | 1.12ト3821 | 0.22 | 0.30ト 936 | 1.10ト 451 | 4.00ト5212 | 12.10ト 342 | 7.12ト 985 |
〃 ( 〃 ) | 佐兵衛 | 0.30ト1153 | 0.30 | 0.30ト 936 | 0.32ト 26 | 2.00ト2819 | 12.10ト 342 | 8.32ト 735 |
〃 ( 〃 ) | 納屋 佐兵衛弟 船頭 栄蔵 | 1.00ト 100 | 0.10 | 1.10ト 100 | 13.12ト 893 | 12.02ト 793 | ||
〃 ( 〃 ) | 甚兵衛 | 1.12ト1712 | 0.10 | 0.30ト 936 | 2.30ト 451 | 5.02ト3073 | 12.10ト 342 | 6.22ト 617 |
〃 ( 〃 ) | 七兵衛 | 1.22ト1382 | 0.20 | 0.30ト 936 | 1.30ト 661 | 4.22ト3365 | 12.10ト 342 | 7.02ト 716 |
北今泉村(新田) | 吉三 | 0.30ト2334 | 0.20 | 0.30ト 936 | 2.30ト 661 | 4.30ト3943 | 12.10ト 342 | 6.32ト 575 |
北今泉村( 〃 ) | 勘次 | 2.20ト1175 | 0.20 | 0.30ト 936 | 2.00ト 661 | 5.00ト2670 | 12.10ト 342 | 6.30ト 917 |
北今泉村 | 助五郎 | 0.30ト1172 | 0.10 | 0.30ト 936 | 1.30ト2110 | 11.12ト 275 | 9.10ト 651 | |
〃 | 久五郎 | 1.12ト2321 | 0.10 | 0.30ト 936 | 1.32ト 26 | 4.10ト3293 | 12.10ト 342 | 7.20ト 373 |
北今泉村(新田) | 勘之丞 | 0.30 | 0.20 | 0.30ト 936 | 1.32ト 26 | 3.32ト 962 | 12.10ト 342 | 8.02ト1052 |
〃 (〃) | 平四郎 | 0.30ト1434 | 0.30ト 936 | 0.32ト 26 | 2.12ト2400 | 12.10ト 342 | 9.20ト 439 | |
又兵衛弟 甚太 | 0.30ト1964 | 0.10 | 0.30ト 936 | 1.30ト2975 | 12.00ト1219 | 10.00ト 15 | ||
南今泉村(松山) | 権兵衛子供 五郎八 | 2.02ト2009 | 0.10 | 0.30ト 936 | 1.32ト 26 | 5.00ト1712 | 12.10ト 342 | 6.30ト 731 |
〃 (中谷原) | 治左衛門 | 0.30ト 388 | 0.30 | 0.30ト 936 | 1.32ト1303 | 4.02ト2632 | 12.00ト1219 | 7.20ト1093 |
〃 ( 〃 ) | 巳之治郎 | 1.00ト2250 | 0.33ト2254 | 12.10ト 342 | 10.30ト1464 | |||
〃 ( 〃 ) | 安右衛門 | 0.32ト2207 | 0.30ト 936 | 1.12ト 26 | 3.02ト3177 | 11.12ト 275 | 7.30ト 442 | |
北今泉村(新地) | 新五兵衛 | 1.00ト2136 | 0.20 | 0.30ト 936 | 2.02ト1349 | 4.12ト4389 | 12.10ト 342 | 7.02ト 908 |
北今泉村(上ノ) | 佐二右衛門子供 岩松 | 1.30ト 488 | 1.30ト 488 | 12.10ト 342 | 10.12ト 695 | |||
〃 (新田) | 佐七弟 万治 | 2.02ト 100 | 2.02ト 100 | 12.10ト 342 | 10.00ト1094 | |||
浜宿村 | 弥右衛門弟 勇八 | 0.32ト5751 | 672 | 2.00ト6417 | 9.30ト1801 | 8.02ト 498 | ||
大沼田村 | 要助 | 0.32ト4679 | 672 | 0.32ト4855 | 9.32ト1602 | 8.20ト 197 | ||
北今泉村(浜戸) | 八郎左衛門子供 船頭 卯之助 | 0.30ト 443 | 0.30ト 443 | 13.00ト 342 | 12.00ト 823 | |||
南今泉村(中谷原) | 与次右衛門(与吉) | 1.10ト4505 | 0.20 | 0.30ト 936 | 1.32ト 26 | 4.12ト5480 | 12.10ト 342 | 6.30ト 762 |
北今泉村(新地) | 甚左衛門(長七) | 0.30ト6918 | 0.32ト 26 | 1.22ト3954 | 12.00ト1267 | 8.32ト 719 | ||
南今泉村 | かじき 亀松 | 0.30 | 0.10 | 1.30ト 52 | 2.22ト 52 | 12.10ト 342 | 9.20ト 290 | |
〃 | 上ナヤ 長吉 隠居 | 1.10 | 3.00 | 4.10 | 12.10ト 342 | 8.00ト 342 | ||
賄 長右衛門 | 853 | 0.10 | 0.10ト 853 | 17.20ト1548 | 17.10ト 715 | |||
沖合 清七 | 5.00ト3574 | 5.00ト3574 | 49.00ト1388 | 43.20ト1211 | ||||
船大工 | 15.11ト 431 | 15.11ト 431 | ||||||
鍛冶 | 9.01ト 260 | 9.01ト 260 | ||||||
合 計 | 52人 | 84.32ト3251 | 18.22 | 31.30ト1561 | 56.20ト3624 | 194.03ト2990 | 676.02ト929 | 477.12ト5191 |
船大工・鍛冶を含めたこれらの水主五二人は、同表からも明らかなように、浜宿村勇八、大沼田村要助を除いて、すべて南北今泉村の出身者で占められている。そして、その大部分が上代家の居住する北今泉村の水主である。今泉村全体の家数は、寛政五年(一七九三)で二九七戸、明治元年(一八六八)で三一四戸であり、明治元年の場合、北今泉は一三〇戸、南今泉は一八四戸という内訳となっている。この家数からすれば、今泉村の約二割の村民が上代家の地引網経営に水主として関わっていたことになり、北今泉村だけに限定すれば、その割合はさらに上昇する。それにとどまらず、後年に新元(しんもと)の二乗の地引網を所有するようになると、たとえ経営が一体であっても、それぞれの網に付属する水主は新網・元網で重複することがないことから、それまで以上に村内の農民が同家の地引網漁業に関係するようになる。こうして、村役人である上代家を中心に、地縁的な結合の強い形でこの大地引網漁業が営まれたのである。
そのうえ、彼ら水主の多くは、上代家と小作関係を結んでいた。この水主と小作人との両側面の性格規定については、これまでもいくつかの試論が出されている。その主なものとして、小作による水主と、単なる雇水主との二つに大別する見解(吉井幸夫説)や、前貸金による雇水主と、そのほか小作地貸与による小作水主の存在を指摘する見解(山口和雄説)、大地引網漁業は、地主小作制の上に成立したものであると主張する論説(中井信彦説)、さらには、漁業経営と小作経営とは全く別個の経営体とする説(荒居英次説)など諸説があるが、今日まで定説をみるに至っていない。
上代家でも、小作人を六〇人ほど抱え、その小作料は八四石余にも達する(表35)。同表では一四枚分の小作地については、小作料が記帳されていないので省いたが、一枚平均小作料四斗という数値からすればその分で六石弱となり、これを八四石余の小作料に加算すると嘉永二年(一八四九)の同家の総小作料収入高は、およそ九〇石となる。そのうち、南北今泉村では、全小作人数五九人中五四人、小作料率で八九・五%を占め、ほとんどの小作人が南北今泉村、とくに北今泉村に居住していたことが分かる。前の表34の水主名とは年代がズレるので比較しえないが、上代家と小作関係に入っている農民の多くが、同時に同家の水主であったことは容易に想像できる。九十九里地域においては網主が土地を集積していく形態は、新田開発による所持地の拡大と、質地→流地の過程を経て地主化する形が一般的であったと指摘されている(荒居英次前掲書)。その質地地主化の進行は、豊漁時の漁業・商業利潤が土地集積に注ぎ込まれた結果であり、大地引網経営を営む以上、多数の水主の飯米を大量に調達する必要があったので、大網主による土地の集積は一段と進んだ。
小作人居住地 | 人数 | 小作料 | 比率 |
人 | 石 | % | |
北今泉村 | 47 | 63.470 | 74.8 |
南今泉村 | 7 | 12.500 | 14.7 |
真亀村 | 4 | 8.100 | 9.6 |
細草村 | 1 | 0.800 | 0.9 |
合 計 | 59 | 84.870 | 100 |
これまで、上代家の鰯地引網経営は、共同体的色彩の強い漁業であったことを知りえたが、網主はこの大規模な地引網経営でどの程度の実利をあげえたのであろうか。そのことを知るために、明治十年(一八七七)から同十四年までの五か年間の平均収支を記した史料(四天木 斉藤八重子家文書)を手掛かりに検討してみよう。収入は、漁獲高四八〇〇円、古器械売却代五九六円八三銭の合計五三九六円八三銭となる。他方、支出は、漁具の消耗品費四八〇円、水主給金一九二〇円、漁具など網主仕入高二九六七円九〇銭で支出合計五三六七円九〇銭となる。収支差額は二八円九三銭で、この網主利益は、わずかに全収入額の五%しかならない。漁獲高四八〇〇円に対しては、一%にも満たない低い収益である。この数字は、九十九里地引網漁業が衰退の一途をたどる明治十年代の試算ということで、そのまま近世の漁業経営に当てはめることはできないが、上代家の天保八年(一八三七)の春職の「金銭出入帳」に記帳された収支内容をみても、純利益は決して多額なものではなく、むしろ収支においては、支出の方が多いという内容を示すのである。同帳を集計した結果では、入金四一六二両余、出金四三七〇両余となり、出金の方が二〇八両ほど入金を上回る。もっとも、出金のなかに水主への前貸しや、他人への融通金がかなり含まれているので、この出超が必ずしも同家の経営の赤字を意味するものではない。しかし、入金の項目をみても、三〇〇~四〇〇両の借入れが計上されており、そのことは、借用金によって経営を維持しなければならない大網主経営の基盤の弱さを示唆するとともに、たとえ大規模な地引網経営でもその利益は決して大きなものではなかったことを示している。
九十九里では、たとえ大地引網主といっても、その多くが浦賀や江戸の干鰯問屋から仕込(しこみ)金=前貸金を受けていたといわれる(戸谷敏之「江戸干鰯問屋仲間」)。たとえば、江戸干鰯問屋では、銚子付近を仕入地とする銚子場、夷隅地方を主体とする永代場・元場と、九十九里浜を主とする江川場の四市場に分かれていたが、仕込金が最も多額であったのは、九十九里浜で、逆に少なかったのが房州南岸、また全く必要としなかったのが銚子であった(伊東弥之助「江戸の干鰯〆粕市場」)。それは、九十九里漁業の問屋制支配による仕込金の多さを物語るものである。また網主のなかには、このほかにも、近在の有力農民からの借り入れに大きく依存する網主もいた。寛政元年(一七八九)には、片貝村(現九十九里町)の網主源兵衛が、「此度網相続金ニ差支」えたので、木崎村七兵衛から二〇両の融資をうけ、その代償に網の三分の一の権利を譲渡し、その三分の一の網株高に応じた漁獲物を七兵衛に分配することを約束している(木崎 富塚勝男家文書)。慶応二年(一八六六)にも、真亀村(現九十九里町)の網主八郎左衛門が「網方仕入要用ニ差支」えたので、米代金四〇〇両を清名幸谷村専蔵・四郎右衛門・勘左衛門・錬太郎の四人から借用し、もし返済期日になっても「相当之利足相加」えて返却できないようなら、「干鰯壱俵ニ付、三斗入八百俵無相違相渡」すと約定している(清名幸谷 大原豊家文書)。こうした在地の有力農民から資金の融通をうけながら地引網経営を行っていた網主が、かなり存在したものと思われる。上代家の場合でも、浦賀や江戸の干鰯問屋よりむしろ、村内外の有力農民や、隣接する四天木村の大網主斉藤家から多額借用していたことが史料のなかで確認される。同家は、近在の農民から仕込金を借り入れるとともに、大網主相互で金銭の融通を行っていたのである。そして、在地で仕込金を貸与した有力農民のなかには、その網主が所有する網株の一定部分を獲得することにより、漁獲高の一部の配当をうける権利を有するようになった者もいた。
最後に、漁獲物の流通について触れておくと、上代家では、水揚げされた鰯は今泉村地先で網を張った場合には、当然その大部分が同家の地引網に付属する網付商人に販売された。「帳元(ちょうもと)」といって網付商人のなかから代表が一人選ばれ、網主との間で売買価格を交渉する。そのとき、「此漁産商人タルヤ、水魚売買ノ際価格ヲ極メ、水魚商人エ相渡スモ、証書ノ取引モナク、売方、買方互ニ諸手ヲ打チ、以テ売買行届タルト為スノ風習ナレハ、其場ニ於テ代金取遣リハ無之モノニテ、後日ノモノトス」(国立史料館祭魚洞文庫 明治十二年「九十九里漁場沿革」)とあるように、「漁産商人」(網主)と「水魚商人」(網付商人)との間では、全くの信用取引によって口頭で価格を決定するのみで、証文類は一切作成しなかったようである。しかも、代金は、後日大体三十日ぐらいをメドに網主へ「帳元」が一括して支払う商業慣行になっていた。もちろん、すべて交渉が成立するとは限らず、価格の点で取引が決裂する場合には、「価格ノ高低又ハ網主ニ於テ見込アル時ハ、売買ヲ止メ、網主ニ干鰯・〆粕ニ製スル事モアリ」と、網主自らが水主を使って干鰯や〆粕に加工することもあった。
このようにして陸揚げされた鰯は、その場で網付商人、ないしは若干部分は小買商人たちに販売されて、彼らが魚肥に製造し、独自の流通網で売却したり、網主自身が魚肥に加工して浦賀や江戸の干鰯問屋に販売したりした。ただ、網付商人によって加工された魚肥も、網主の名前で、江戸や浦賀の干鰯問屋に売り捌くこともあった。上代家で安政六年(一八五九)に浦賀の干鰯問屋宮原屋次兵衛と和泉屋三郎兵衛に販売された魚肥量の内訳をみると、干鰯六六一五俵のうち、上代家の元網(〓印)と新網(〓印)の合計は六五六二俵、網付商人の分は五三俵となり、〆粕については二一二七俵はすべて網付商人の分で、さらに魚油は二一二樽のうち、上代家分七二樽、網付商人分一四〇樽となっている(「積荷物手板之扣」)。これは、安政六年(一八五九)十一月から翌万延元年正月までの約四か月間に、上代家を経て浦賀の二干鰯問屋に輸送された魚肥の数量であり、網付商人の魚肥販売量が少ないのは、各自で売却した部分がかなりあるためである。浦賀の問屋でも、上代家は、とくに宮原屋との取引関係が主体で、この四か月間の取引では、干鰯一二四俵と〆粕一〇八俵だけが和泉屋への販売で、残りはすべて宮原屋である。
写真 網付商人生鰯売買図 (千葉県漁業連資料室蔵)
浦賀干鰯問屋は、寛永十九年(一六四二)に開設された。彼らの多くは、関西出漁民と同一の故郷をもつ者で、近世初期の関西漁民の関東進出に呼応して、生産・加工された干鰯を大量に集荷し、畿内方面へ廻送した。ところが、元禄十年(一六九七)、幕府の公認をえて江戸干鰯問屋仲間が成立するに及んで、浦賀干鰯問屋仲間はその商業活動を著しく制限され、元文以降はその立場が逆転するようになった(荒居英次前掲書)。上代家でも、文政五年(一八二二)の干鰯販売先を調べると、浦賀の宮原屋と並んで、江戸の西宮屋の名が見受けられるが、先の安政六年では、江戸干鰯問屋への出荷は皆無である。一般的に、近世中期以降、江戸干鰯問屋が浦賀干鰯問屋を凌駕するといわれるが、同家に限っては、その後も一貫して浦賀干鰯問屋、とりわけ宮原屋との取引が主流であった。ところが、大地引網漁業が漸次衰微していく幕末期になると、その販売先は、表36に示すように、「地売」がかなりの比重を占めてくるようになる。無論、開業当初から地払いは行われていたが、幕末段階ではその割合が増大し、町域内の村々だけでも三〇%を占めるようになる。とくに、干鰯代金の相当の部分が、米の購入代金二八両余で相殺されている点は注目される。浦賀干鰯問屋の衰退によって、仕込金の手だてを狭められた網主が、在方の金貸資本と結合することにより、新しい流通組織を形成しようとしたことが、販売先の変化となってあらわれているといえよう。しかし、大網主といえども、その経営基盤は極めて不安定で、そうした在方の金主との関係が創り出せない場合は、資金難のために没落してしまう網主もいた。
村 名 | 人数 | 干鰯 販売 俵数 | 干鰯販売代金 | % | 米 購入 俵数 | 米購入代金 | |
町 域 内 | 人 | 俵 | 両 文 | 俵 | 両 文 | ||
赤荻村 | 8 | 38 | 25.33 | 13 | 18.01ト3400 | ||
柳橋村 | 3 | 39 | 22.23ト1000 | 4 | 5.20 | ||
清名幸谷村 | 5 | 24 | 12.00 | 4 | 4.20 | ||
四天木村 | 2 | 9 | 4.30ト 300 | ||||
南今泉村 | 1 | 4 | 2.20 | ||||
上貝塚村 | 1 | 4 | 2.10 | ||||
経田村 | 1 | 3 | 2.01 | ||||
小計 | 7か村 | 21 | 121 | 72.03ト1300 | 30 | 21 | 28.01ト3873 |
町 域 外 | 横須賀村 | 22 | 101 | 67.12ト 600 | |||
砂古瀬村 | 2 | 84 | 47.20 | ||||
橋 場 | 1 | 50 | 34.12 | ||||
八日市場村 | 1 | 28 | 26.02 | ||||
和田村 | 1 | 41 | 23.23ト 900 | ||||
押堀村 | 1 | 14 | 8.21ト 600 | 4 | 5.20ト 761 | ||
生実村 | 3 | 12 | 6.13 | ||||
大沼田村 | 2 | 7 | 4.10ト 600 | ||||
求名村 | 1 | 4 | 2.10 | ||||
五木田村 | 1 | 4 | 2.00 | ||||
滝沢村 | 1 | 1 | 0.20 | ||||
不 明 | 4 | 40 | 19.22 | ||||
小計 | 11か村 | 40 | 386 | 242.23ト2700 | 70 | 4 | 5.20ト 761 |
合計 | 18か村 | 61 | 507 | 314.32ト4000 | 100 | 25 | 33.21ト4634 |
幕末・維新期を迎えると、諸職人の余業の発展、それに伴う労働力市場の拡大、水主への貸付金の不足とその回収の停滞、さらには、安価な蝦夷の鰊魚肥の全国的な流通との競合と、その結果としての生産過剰、そして共同体的な結びつきの弛緩(しかん)といった諸事情によって、それまで商業的農業の展開とともに、肥効の高い魚肥生産を背景に九十九里一帯で興隆をみた鰯大地引網漁業は次第に廃頽していく。そこでは、大地引網経営は、その経営規模を縮小することを余儀なくされ、地引網と併行して操業される刺網・建網・コロ網などの各種網漁業の発達、そしてなによりも、明治二十三年(一八九〇)に考案使用され始めた改良揚繰網の出現によって、地引網漁業は一大転換を迫られることになる。