(1) 農間余業

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 近世農民は、各自が所持する田畑を耕作するため、鍬や鎌などの各種農具類、あるいは耕地から生産できない生活必需品の塩や魚貝類を購入しなければならなかった。したがって、村々には農業を営むかたわら、それらの諸商品を取り扱う商人が数人存在した。
 文政十一年(一八二八)の永田村では、表37で掲示するように、一六戸が「農間渡世」を営んでいる。永田村は、村高一五八八石の七給支配の村で、その年、家数は寺院二か寺を除いて一五〇戸であった。農家一五〇戸のうち、約一割の一六戸が同表のような商売を営んでいたのである。なかでも、居酒屋と棒手(ぼて)商いと質屋稼ぎが重要であり、そのうち棒手商いというのは、九十九里浜で捕獲される生魚を行商する人たちのことである。化政期は、九十九里鰯地引網漁業が最も栄えた時期で、当地域で呼ばれる「棒手(ぼて)振り」商いが多いのは、そのことを反映してのことであろう。
表37 文政11年 永田村の農間余業
居酒屋太郎兵衛文政2年より
清 蔵
市左衛門
与左衛門文政3年より
文右衛門文政5年より
藤右衛門文政9年より
棒手商い嘉 七文政5年より
庄五郎
三之助文政6年より
徳右衛門文政5年より
質 屋文化13年より
利右衛門文化11年より
長右衛門文政11年より
小間物商市三郎文化元年より
勘兵衛文化14年より
髪結惣兵衛文政元年より
恒三郎文政8年より
注1)  文政11年「農間商渡世之者名前取調書」(永田区有文書)より作成。
注2)  質屋の長右衛門は,享和年中に質屋を行っていたのを中断し,文政11年から再開した。
注3)  質屋の文政8,9年両年の1か年平均商い額は徳右衛門が70両2分2朱と銭180貫700文,利右衛門が53両2分と銭49貫文である。