先の永田村でも三人の質屋が存在したように、各村では、年貢納入に差し支えたり、商売の資金に不足が生じたりしたときは、この質屋をはじめさまざまな金融方法によって当座の貨幣を調達した。一般的にみられたのが、家族の一員を年季奉公に出して、その給金を前借りしたり、自己が所持する耕宅地を質地に入れて現金を工面する方法であった。貨幣を所有する村人から融通をうけるこれらの方法は、村役人と小前(こまい)百姓、あるいは本百姓と水呑といった階層・身分の対立や規制を伴いながらも、村落内で各層の村民が相互に依存しあって日々の生活を営み、村請制による年貢を皆納していくというように、近世の在地における生活に適応した融通の形態であった。先述した南飯塚村の富塚家の場合でも、多額の現金貸付にかかわらず、必ずしも返済を督促しておらず、村落構成員の生活・生産が破綻しないよう、返金のあてがなくても貨幣を貸し与えているのである。
このほか、在方金融には、収穫引当ての金融や質物金融(とくに質屋)があり、一時的に現金を融通する時貸し、さらには、領主、寺社、村民と発起人はさまざまであるが、相互扶助を主目的とする頼母子講や無尽講が広く行われた。また、宗教的色合いの濃い伊勢講や大山講などの信心講や祠堂金もあった。幕府の公金貸付である馬喰町貸付金、あるいは尾州金なども、在方の金融の一種に入れることができよう。