其の方共交易之場所もこれなく、難儀之趣相聞え候故、御上之慈悲を以、此の度交易之場所御定め遣わされ下さるべく間、五か村其の外入合在方迄村高・家数相改め、書き出し申すべし
とあり、さらに忠佐は、西上総市原郡五井村に行って塩浜を見分したのち、塩釜元を二五戸に定めた。その際、釜元は、五井村以外に塩の升売・小売を行うことを禁じられた。続いて忠佐は、君塚・岩之見・松ケ嶋・神崎・八幡・御所・村田・塩田の八か村役人を呼び出し、
其の方村々へ塩中買申し付けるべく候間、茂原・長南之駅へ塩荷物附け出し売買致すべく候、右五井釜本(元)にては、其の方共より外に塩直売は相成らず旨申し付け置き候えは、又其の方共も塩直売相成り申さず、市場升取に世話致させ売り払い申すべく候、尤も世話賃出さるべく候事、何れ之駅場へも市之間に塩弐拾駄づつ附送り置き候様に心掛けすべく候事
と命じた。この主旨は、大網・本納・一宮の三か村にも申し渡された。
後日、忠佐は、本陣のある本納村に帰ると、組市の五か村役人を呼び、開市の日を農家の蔵開に因んで正月十一日とするように申し付け、三月一日から市を開くよう指示した。こうして、本納村は一・六の日、長南村は二・七の日、大網村は三・八の日、茂原村は四・九の日、一宮村は五・十の日にそれぞれ開市することになり、「年々正月十一日市始にて、極月晦日迄一日も市休日これなく候」というように、常設市場に準じた組市が誕生した(図23)。
図23 慶長11年 5か村組市所在地
忠佐は、さらに付け加えて、市場の道幅は六間に拡張し、市場へ持ち込まれる荷物は、どのような品物でも五か村の者が取り扱い、売れ残りの品物については、市場が当日の相場で買い取り、神仏の祭日や人々の群集するところで売買すること、移入塩の赤穂塩は、入用の者は自由に買い入れてもよいが、升売・小売を禁じ、中買八か村の者も在方でせり売り・小売をしてはならないこと、市場の魚商人が浜方で直接に網主から魚を買い求めてはならず、必ず浜方の魚商人から購入すること、ただ、浜方の魚商人は、在方で商いをしても構わないが、組市場へ荷物を出す場合は、市場の魚商人に売却することなど、そのほか数点にわたって市場取り決めを申し渡した。
右の記述は、後年に写されたものであることから、その内容を全面的に信頼することはできないが、近世初頭の在市が、どのような経緯で開設されたのかを知る上で貴重な史料である。この五か村組市は、在地の生産地と消費地とを直接につなぐ結節点としての機能をもち、幕領・旗本領とが錯綜する当地域の統一的な領主的流通機構を整備することを意図に成立したものであった。