近世中期以降、九十九里での鰯地引網漁業が急速に発達すると、魚荷の輸送をめぐって、継場と往還筋の村々との間で出入がたびたび起こった。なかでも土気町と他村との魚荷一件が頻発し、享保度には、本納村・土気町・野田村の三か町村の出入、宝暦期に村田村と土気町、文政度には土気町と八斗村ほか一三か村との間で、それぞれ荷物一件がもち上った。弘化二年には、土気町と八斗村ほか一三か村との間で再燃している。
以上の魚荷出入は、すべて土気町と町域外の村々との出入であったが、嘉永二年(一八四九)四月に発生した〆粕荷物の付け通し一件は、町域の駒込村が関与するものであった。まず、駒込村の幸八が土気町と野田村を無視して荷物を輸送したことに対し、土気町と野田村はその非を責めて出訴した。両町村が、その荷物を差し押えたため、幸八は、この〆粕荷物は真亀村七郎右衛門の魚荷であり、「地浜之分ハ、御裁許以来、勝手ニ附通可申」ことになっていると応酬して、その正当性を主張した(餅木 大野旭家文書)。最終的には、この〆粕荷物出入は、同年十月に、「論内荷物ハ扱人より西浜迄附送り、論外荷物ハ素より土気町・野田村可差綺筋無之」とのことで、駒込村幸八の申し分がほぼ受け入れられた形で決着した。幕府の公認により、以後、浜方魚荷は旧来の公的な継立場を通らずに脇往還を利用して輸送してもよいことになり、九十九里における漁業生産がそれまでの商品流通網に変化を与えていることは重要である。このような魚荷の運送をめぐる争いは、その後も多発し、文久三年(一八六三)には、やはり土気町と長谷村など一三か村との間で海産物の付け通しをめぐる争論が起こっている(金谷郷 地挽勝三郎家文書)。