江戸時代を通じて全国的な寛永・享保・天明の大飢饉をはじめ、大小いくつもの天災が発生した。局地的な病害虫による被害なども入れると、その発生件数はさらに増える。経営基盤の弱さから、自家労働の一員を奉公人に出したり、耕作地を質地に入れたりして生活を辛うじて保ってきた下層農民のなかには、度重なる自然災害のため、経営そのものを破綻させてしまうものもいた。大網白里町域の村々も決して例外ではなく、元禄の大津波をはじめ、天候不順による風水害や旱魃に幾度も見舞われた。
ただ、記録の上では、近世前・中期の災害に関しては詳しいことを把握できず、寛政期以降のものについては、村々の史料のなかでかなり追求することが可能である。町域の自然災害は、寛政十一年(一七九九)の旱魃によってもたらされる凶作、天保七~八年(一八三六~三七)の暴風雨と旱魃、嘉永五年(一八五二)四月より六月までの旱魃、安政三年・六年(一八五六・五九)の暴風、元治元年(一八六四)八月の「稀成」る大風雨、慶応四年(一八六八)閏四月中旬からの異常降雨というように、その件数には枚挙にいとまがない。なかでも、天保の大飢饉と、元治元年の災害状況については、豊富な記録が残っている。