(2) 天保の飢饉

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 天保八年春、前年からの天候不順により各地方は激しい飢饉に見舞われ、多数の餓死者が出た。町域の村々もこの異常天候に襲われ、桂山村では、「稀成旱魃」のため、天保八年八月に領主の旗本小栗氏へ「以之外違作仕」り、場所によっては「無毛同様之場所多分有之」ほどの被害が出たので、定免のうち年貢を半分免除してくれるよう訴願している(桂山 中村明郎家文書)。災害は、単に肉体的苦痛を与えるだけでなく、天候如何によりその生産高が左右される農・漁業従事者にとっては死活問題ともなった。もちろん、被害をうけた人々も、ただ単に手をこまねいて見ているだけでなく、被災からの復旧に最大の努力を払った。
 南飯塚村では、富塚家(惺斎)が中心となって最低限必要な食糧を確保し、窮民に夫食(ふじき)米や金銭を貸し与えてこの苦境を凌いだ。惺斎は、天保飢饉時の窮民の惨状を次のように記している(南飯塚 富塚治郎家文書表39と同史料)。
 去申年(天保七年)時候不順、殊ニ秋ニ相成大風水損ニて田畑無毛同様、世間一統之大難渋、依之米穀高直ニ相成、当酉(天保八年)春ニ至リ米相場両ニ弐斗五升、麦相場両ニ弐斗四升、蕎麦相場両ニ五斗六升、きび相場両ニ四斗、其外食物ニ相成候品平年之倍ニ直段引上、依之小前一同夫食取続ニ難渋、既ニ渇命ニも及程之義故、我等先祖之余計ヲ以て左之通り救方仕候
 右に簡潔に述べられているように、天保八年は、去申年の秋に「大風水損」に見舞われたことから、田畑の作毛がほとんど皆無の状態となり、そのため米麦など主雑穀類の価格が平年の二倍にも跳ね上がって「渇命」者が出るほどであった。文言中の物価は三月十五日の相場であり、表紙には三月十日の物価が付記され、「三月十日頃より麦少し下直ニ相成、大相場両ニ弐斗八升之由、先日中は弐斗三、四升、百文ニ付小売三合五勺と申事ニ候」とある。さらに米の直段や金銭相場などについても「米相場両ニ弐斗四升、白米百文ニ付三合七勺、黍両ニ四斗五升、但シ大相場也、銭壱両ニ付六貫四百文、或は六貫弐百文とも申候」と記しているように、相場が刻一刻と変動し、そのたびに村民の生活が圧迫され、餓死するほどの状態であることを伝えている。そこで、惺斎は、「先祖之余計」、つまり先祖が貯えた蓄財を一時的に流用して、村内の被災人の救済に当たった。米金を貸与するときの条件や理由を借用人一人ひとりについて記述しているので、いまこれを利用して、当時の村内における有力農民が、どのような心情で彼らに米金を貸し付けたのかを窺ってみることにしよう(表39)。
表39 天保8年3月 天保飢饉時の南飯塚村富塚家救済貸付
名 前貸付利足貸付条件及び理由
坊 前○岩八米3斗無利足8月中旬までにこぼれ稲にて返済の議定。此代金3分。
荒 地○源太郎米4斗無利足8月中旬までによどという稲ができ次第返済の約束。此代金1両2分。
松 本○平左衛門去年暮に田地を買入れるほどの状態なので難渋はないと思い貸付けない。もし難渋になれば,岩八・源太郎同様に取計う。
 三次米4斗8升
麦3斗3升
無利足
無利足
家内同様に世話しているので,当年は格別 渋につき月々夫食を貸遣す。来年の給金で引取りの積り。此代金およそ3両。
高 台 権右衛門金3分無利足少人数なので少額を貸遣す。もっとも伯父なので無利足で貸し,当年暮返済の約束。しかし,この上難渋なら又々米にて用立て,時相場にて利付の金を貸す。
中新田▲粂七金3分
麦2斗
2割
 
去年中より麦2斗を貸遣す約束。7月中に新麦で返済の筈。そのため外并より金子は少額となる。〆1両2分。
小新田 重助金3分2割
新 家□孫右衛門金2両2割重立百姓であり,ことに家内大勢なので金高も外并より余計に貸遣す。うち1両は後程でよいとのこと。
あしく 久蔵金3分2割久蔵離別にて女・子供のみで難渋であるが,多分の借財ゆえ身上も立ち難いほどで,当暮の返金に差支えてはこれまで用立てた者に迷惑がかかると思い,少額を貸遣した。しかし,この上渇命にも及ぶほどの仕義ならばそのときは見捨てない。
新屋敷□与右衛門金1両2割
うしろ 利兵衛金1両2割
 左七金1両2割
前 原□長四郎金3分2割少人数ゆえ金高は并より少なくする。この上もし差支えるときは見捨てない。
川 間*乙二郎金1両2割荒地の分家ゆえ我等は大本家ということになるので,無利足にしてもよいのであるが,親藤七の聟養子にて村風,家風を知らず,近来は御新田百姓にて別給の百姓と心得,一向これまで大本家の交りがないため今度も村並に取計うことにする。
注1)  天保8年「去申凶作ニ付当酉年夫食手当貸附仕方」(南飯塚 富塚治郎家文書)より作成。
    2)  名前で○印を付した者は,他史料で富塚家(当時松重郎=惺斎)の分家と確認できる家。以下,□印は,小倉家(当時幸三郎)の分家筋の家の者であり,▲印は重助の分地の者である。また*印は,表中の源太郎の分家で,富塚家は大本家ということになる。

 まず、表中の一四名の者のうち、去年暮に他人の田地を買い入れるほどの経済的余裕があった平左衛門を除く一三人に対して、金一〇両三分、米一石一斗八升、麦五斗三升を救援のため貸し与えた。その貸し付けの基準は、岩八と源太郎は前出史料(391ページ)で富塚家の分家筋に当たることが判明し、また権右衛門も伯父という極めて近い親類筋であり、三次は家内同様の者であるなど、同家と近縁の関係にある者を優先して救済することであった。そのことは、彼らへの貸し付けが、すべて無利足であったことからも明白である。しかし、他の者に対しても、窮迫の程度に応じ、また家族構成を考慮に入れながら、現金や食糧を貸し与えている。そして、当面は春中の貸付高にとどめるが、「難渋ニも相成候節ハ」、あるいは「此上も難渋ニ候ハヽ」、「此上渇命ニも及程之仕義ニ候ハヽ」、そのときは「救方何れとも見捨申間敷候」と明言する。しかも、返済期日の近づいた七月七日には、新たに米五升を十月の返済をメドに無利足で一軒ずつに貸しているのである。恐らく利足二割で借りうけた本家―分家の関係のない者も、最後には利足はおろか元金さへ返済することはなかったものと思われる。このように、村内では村民に生活の維持が困難になるほどの危難が迫ったときは、資産に余力のある富裕層が、先祖からの蓄財を投げ出して、窮迫人の生活の回復、安定化のため尽力したのである。この血縁的・地縁的結合に基づく救済措置によって、経営規模の小さな農・漁業生産者の多くは、たびあるごとに潰れ・退転の危機から脱することができた。
 天保八年(一八三七)の大凶作で打撃を蒙った村々では、翌年閏四月の関東取締出役の囲穀取調べ命令をうけて、有力農民を中心に可能な範囲で貯穀を行うことを取り決めた。同年五月、桂山村では、籾三石、麦一石二斗、黍二石五斗を郷蔵に早速備蓄して、万一の災害に備えた。