(4) 百姓一揆

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 これまで見てきたように、近世後期になると、村落内の諸変化や宿場・在方町の変容に伴って、村方や町方に住む人々のあいだから新しい社会的な動きが起こってくる。現象的には、貢租の減免を訴えて立ち上がる百姓一揆や、旧来の世襲制による村役人を否定して、村民の入札=選挙による村役人の選出などを要求して争われる「村方騒動」、さらには農業生産に重要性を帯びてくる金肥の値下げなどを求める合法的な訴願運動などが各地で繰り広げられるようになる。また、災害や飢饉を契機に極端な経済変動に苦しむ村人が結集して町方や宿場の富裕商人を襲撃する、いわゆる「打ちこわし」も多発するようになる。
 ところで、大網白里町域には、領主に抵抗して一か村ないしは数か村が蜂起し、強訴に出て、自分たちの要求を貫徹しようとする激しい百姓一揆が勃発したという事実は、現在のところ報告されていない。しかし、桂山村では、次の「傘連判状(かされんぱんじょう)」が示すように、元文四年(一七三九)に村民が「一身同心」して、領主の年貢増徴を阻止しようとする動きがあった(桂山 島田幸吉家文書)。
 

写真 元文4年 桂山村傘連判状
 
 一此度御免定御高免ニ付、惣百性一身同心仕候、依之御役人衆様へ御願申上候、為其連判証文仕候
      桂山村傘連判状
         元文四年
             未
               十一月朔日

 この一揆に関する史料は、右の短い傘連判状一点だけであるため、その前後の経緯については知りえないが、年貢減免要求を趣旨としたものであることは間違いない。元文期といえば、「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と豪語したといわれる神尾春央が、勘定奉行に就任していた時期に当たる。神尾春央は、元文二年に勘定奉行に任命されて以来、宝暦三年に没するまで、有毛検見取法の適用や、新田開発による高請地化を通して、強力な年貢増徴政策を打ち出していった。桂山村は、当時、旗本小栗氏の一給支配の村であったが、この幕府の年貢増徴政策に呼応して、年貢増収を意図した旗本小栗氏に対し、知行農民が連名で年貢の高免引き下げを要求したときに作成したのが、この「傘連判状」であったと考えられる。
 このほか、他地域でも一般的にみられたように、当町域においても幕末期にかけて、旗本の用人による年貢不正収取をめぐって、知行農民が駕籠訴や門訴という非常手段に訴える一件がいくつか起こっている。天明三年(一七八三)小西村では、年貢減免要求を掲げて、領主である旗本の屋敷まで門訴するという風聞が流れ、そのため村役人が事実無根であるという詫状を提出する一件がもち上がった。そのほか、幕末期に旗本戸塚氏に分給支配されていた南飯塚村、北横川村、上貝塚村、清名幸谷村、大網村の五か村が、同旗本の御用役吉川伝左衛門の不正を訴えた役込訴や、嘉永六年(一八五三)に同じく戸塚氏の側用人石川市右衛門を糾弾した事件なども、その例である。
 しかし、このような旗本の重臣を追及する訴願形式による駕籠訴や門訴は、町域村々でもしばしば見受けられたが、武装を伴い、しかも村域を越えた大規模な百姓一揆の発生は、いまだ事例がない。それは、町域が江戸周辺にあって、代官領、旗本領、与力給地、大名領などの領地が犬牙錯綜する、いわゆる非領国型の分散分給による支配形態を大きな特徴とする地域であったことに、その主因の一つが求められよう。分散分給形態が支配的であるがゆえに、一村限りないしは数か村が団結して領主に反抗する運動形態をとることが困難であったのである。したがって、旗本知行所の村の場合、いきおい一給あるいは分散知行地の農民が集結した訴願運動が中心となる。
 村落内においては、名主や組頭を勤める村の長(おさ)、あるいは有力農民の年貢・諸役や村入用の割付け・徴収にからむ不正を追及したり、旧来から草分け層や重立層に付与されていた番水・引水、および神仏事や祝事のときの座位・盃順などの特権を排除しようとする農民の闘争=「村方騒動」が展開するようになる。たとえば、町域村々では、餅木村の寛保三年(一七四三)の名主悪徳一件をはじめ、宝暦三年(一七五三)と嘉永五年(一八五二)の南飯塚村、明和四年(一七六七)と文化十三年(一八一六)の清名幸谷村、寛政二年(一七九〇)の柿餅村、文政八年(一八二五)と嘉永三年の南横川村、慶応二年の駒込村などで続発している。これらは、名主・組頭が実際に悪徳であったというより、近世封建社会の胎内に孕(はら)んだ諸矛盾が村々で集約され、それが直接的に村内で吹き出したと把える方が妥当であろう。
 いずれにしても、領主に反抗して激しい闘争を展開する百姓一揆の発生により、領主の権力基盤は動揺させられ、また、村内の草分け農民や重立層の特権を否定し、村役人の不正を糾弾する「村方騒動」の多発により、それまでの村落内の秩序や結びつきは著しく変容した。そのこと自体、領主権力の末期的な様相を呈不するものである。