(1) 旗本財政の窮乏

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 ゆるやかな発展しか示さなかった大網白里町域の村々も、中期以降、飛躍的な進展をみた九十九里漁業の影響をうけて、次第に変化を遂げていった。返済を義務づけない貸金活動に代表されるような村内の有徳な上層農民による困窮者の救済にもかかわらず、商品貨幣経済の農村への浸透によって、土地の質入れ→流地や高価な金肥の購入が不可避となるに及んで、零細農民のなかには、彼らの経営を段々と悪化させていく者もいた。そのことは、結果的には、直接生産者である耕作農民に立脚して存続していた領主経済の基盤を弱体化させることになった。そして、年貢収奪は限界に達し、領主財政の窮乏化は普遍的な問題となってきた。
 町域では多くの村が、近世の初めから旗本の支配をうけた。近世後期における領主財政の窮乏化は、幕府をはじめ、大名、旗本に至るまで共通の現象であったが、領主経済の規模が小さい旗本の場合はとくに激しかった。幕末に近づくにしたがい旗本財政が窮迫してくると、旗本の多くは、知行地の村々から年貢の先納金や御用金を上納させて、財政の回復、維持に努めた。
 旗本財政の窮迫状態は、すでに宝暦・明和期ごろには顕在化し、清名幸谷村・大網村・金谷村などを分割支配する遠山氏は、「御勝手向御差支」えのため、明和六年(一七六九)に、これら三か村に先納金一〇〇両を納入するよう命じた。この先納金とは先述したように、年貢の納入前に領主が知行村々から前貸りするもので、この遠山氏に限らず、ほとんどの旗本が、先納金や、御用金、調達金の名目で、種々の臨時金を納入させた。
 その一例として、木崎村に知行地をもつ旗本服部氏の年貢収納高の推移と、先納金との関係をグラフで示すと図24のようになる。木崎村二〇七石余を代官支配地(三六石余)、与力給地(一〇七石余)とで分給支配する服部氏は、同村で六四石八斗二升三合を知行した。同氏の年貢収納は、享保十二年(一七二七)にそれまでの検見取りを改めて、二三石余の定免となり、翌十三年には破免により二一石余、さらにその後若干の変化があって、宝暦三年(一七五三)からは、二一石五斗七升七合五勺に完全に固定する。他方、先納金額は、史料的な制約から寛保二年(一七四二)以前は不明であるが、その寛保二年に一二両余、以降、天保十四年(一八四三)の五四両を最高に、途中増減はありながらも、多額の先納金が納入されている。同図から、先納金が恒常化するとともに、年代が下るにしたがって上昇傾向を示していることが読み取れる。多額の先納金借り入れのため、固定的な領主の年間年貢量では返済することができず、年々未済分が累積し、領主財政は、帳面上破綻をきたしてしまう。文化十年(一八一三)を例にとると、年貢高二一石五斗余のうち、名主給米・組頭給米・堰扶持米・奉公人給金などの引分合計二石八斗余を控除した残高一八石七斗余は、石代換算して一五両一分余と算定されて、まずその年の年貢高が表示される。それに対し、前年文化九年十二月から当十年にかけて上納した先納金と、累積納金を加えた合計は、六一両三分二朱と非常に多額になっている。年貢量の増収が期待できない以上、この累積借入金を返済する手段は領主にはなく、結局、この年そのうちの二五両が「此度上ケ金」となって切り捨てられ、年貢の石代金一五両一分も返済に向けられ、それらの残金二一両余が、新たな過納金となって次年度へ繰越借入金となる。同図の先納金の額は、年度により納入高にかなりの増減が認められる。これは、先納金の少ない年度に財政的にゆとりがあったからではなく、こうした領主側で借入金を「上ケ金」として整理してしまったためである。年貢収納量の減少ないしは固定化といった現象に加え、近世中・後期の諸物価騰貴のあおりをうけて、領主の日常経費の増大は普遍的なものとなり、領主、ことに旗本の財政は窮乏の一途をたどっていった。

図24 木崎村(服部知行所)年貢量および先納金の推移
 
 もっとも、徐々に膨張していく旗本への先納金・御用金が、すべて知行所の村々から調達されたわけではない。飛躍的な生産力の上昇が見込めない当町域の村々では、多額の上納金を負担する能力はなく、そのため江戸を中心とする都市の大商人からの借入れに依存せざるをえなかった。その場合、当然ながら年貢米がその返済に充当された。早くも安永四年(一七七五)に町域の大網村や上貝塚村などの五か村をはじめ、近辺の旗本戸塚氏知行村々は、五三二両余の先納金上納申し付けに対し、商人三川屋兵蔵より借入れて納入した。そのとき、やはり返済には年貢米を引き当てて年賦返済することが約定されている。その証文を左に掲げると次のようになる(南飯塚 富塚治郎家文書)。
 
      預り申御年貢先納金之事
   合金五百三拾弐両弐分ト 銀拾弐匁弐分五厘   但シ文字金也
 右是ハ、御地頭 戸塚左門様御知行所、当未之御年貢先納金拙者共ヘ被仰付候所、於村方ニ一向才覚出来不仕候ニ付、縁を以貴殿ヘ達て相頼候所、御聞届被成、先納金御差出シ被下、慥ニ受取、直ニ御地頭様ヘ上納仕候処実正也、然所一度ニ返済難成ニ付、無利俵向済ニ相頼候所、御承引被下候上は、御物成米出来次第、当未之年より一ケ年ニ米百俵宛皆済迄年々十一月晦日限、村方直送状を以、貴殿差図之川岸迄積廻し可相渡候間、着船次第米時之相場ニ売払、右金子之内ヘ差引請取可被申候、如此収納以前為先納金差出し申儀ニ御座候得ハ、万一於村方ニ如何様之大変有之候共、拙者共預リ申上ハ、縦[ ](令)役人[ ]様何人分ニ被仰付候共、其儀御請負仕、貴殿ヘ無相違直ニ相渡可申候、毛頭相違申間敷候、為後日村方連判証文仍如件
    安永四未五月十九日                                   知行村々
                                        北横川より参り、写直者也
                三川屋兵蔵殿
 
 三川屋兵蔵なる商人の所在は明らかではないが、知行村々で用立てることのできる先納金には限度があり、村々ではこのように収納米を抵当に都市の商人から多額を借り入れ、その元金・利足の返済を請け負うことになるのである。