(2) 旗本の勝手賄い

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 こうした旗本財政の逼迫の状況下で、財政の改革仕法、すなわち窮迫状態から脱却することを目的に実施する家政改革が急務な問題となった。多くの旗本が、近世後期、知行村々の有力農民に旗本の財産管理・運用を任せる「御手賄い」を採用して、財政の再建を図った。
 天保十四年(一八四三)には、清名幸谷村を相給支配する旗本杉田氏が、「御屋敷様御勝手向御不如意御仕法替」にて、「勝手元改革」のため、同村の上層農民大原与重郎を「給人格」に登用し、「御知行所勘定取締役」に取り立てている。他の旗本の場合でも、知行村々の重立ったものが「勝手賄」に任命され、旗本の年貢収納をはじめ、財政全般を担当して家政改革に尽力した。木崎村に知行地をもつ旗本服部氏は、天保八年に、小名木村庄左衛門を「勝手賄」に任命し、そののち、年代は定かではないが、木崎村の富塚家がやはり服部氏の「勝手掛り」に取り立てられた。
 その服部氏の勝手賄いの内容については、項目を分類して表41でも掲出した。上総国山辺・長柄、下総国海上三郡で一〇〇〇石を知行する服部氏は、窮乏する家政を立て直すため、天保八年から改革仕法に着手した。町域でも萱野村と木崎村を分給支配する同氏の嘉永三年(一八五〇)の勝手賄いは、同表で示すように、殿様・奥様・若殿様など九名の小遣料、および味噌・醬油・酒などの食糧費、蠟燭・水油・薪炭などの光熱費、客用の臨時入用からなる合計一八両が「月並」の定式とされる。もっとも、食糧費は、九月から十二月までは例月より三両少なくなり、また四月から九月までの半年間は、暖季中からか光熱費が金一分ほど安く見積られている。そのほか、「月並」以外では、雇入給金・衣服代・幟立代・盆入用などの諸入用が特別に加算されて、出費が増大する月もある。そして、一年間全部で二六二両一分二朱という金額が、服部氏の賄料となる。

写真 「勝手賄」任命書(清名幸谷 大原豊家文書)
 
表41 嘉永3年 旗本服部氏の勝手方賄金明細表
殿様・
奥様ほ
か小遣
味噌・醬
油・酒・
飯米・菜
蠟燭・
水油・
薪炭代
臨時
入用
雇人
給金
衣服代諸入用
両 両 両 両 両 両 両 両 
1月2.1212.023.000.2018.00
2月2.1212.023.000.200.1218.10
3月2.1212.023.000.2020.020.2038.22
4月2.1212.022.300.204.0021.30
5月2.1212.022.300.200.2018.10
6月2.1212.022.300.2017.30
7月2.1212.022.300.204.2322.13
8月2.1212.022.300.2017.30
9月2.129.022.300.2010.0134.31
10月2.129.023.000.2015.00
11月2.129.023.000.2015.00
12月2.129.023.000.2010.015.004.2334.30
28.20133.2034.206.0040.109.0010.22262.12
注1)  嘉永3年「御暮方御仕法帳」(木崎 富塚勝男家文書)より作成。
    2)  単位:両.分.朱。

 これにより、旗本服部氏は、家政を維持する資金二六二両余が毎年確保されることになり、知行村々の方でも家政規模を年間二六二両の範囲内に抑える同氏の検約実施への期待感をもつことができた。ところが、その後も貸入金は増え続け、その元金に加えて厖大な利足を返済しなければならなかったので、同氏の家政改革は決して成功したとはいえなかった。