(3) 旗本の借入金

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 旗本は、知行村々からの年貢増徴が見込まれない以上、その家政賄いの資金は、幕府公金および商人や有力農民からの借財に頼るよりほか方法がなかった。先の服部氏の安政二年(一八五五)の借り入れ状況をみると、表42のように、一か年分の「勝手賄」料をはるかに超過する一五〇六両もの借金を抱えていることが分かる。主な借入先は、幕府の馬喰町御用屋敷貸付役所や紀州貸付方などの公金貸付(三七・三%)、また在地の裕福な有力農民や武家など個人による貸付け(三一・三%)、さらに町方の商人たちによる貸付け(二三・三%)であった。なお、表中の貸付人欄の個人というのは、人名の前に村名があって明らかに有力農民と判断できる者と、武家、農民のいずれか判定できない姓名だけ記載のある者とを一括して表示したものである。その個人の貸付けで最も多額なのは、小名木村庄左衛門の三五四両で、同人が、天保八年(一八三七)に服部氏の「勝手陏」に就任したことは既に述べた通りである。また商人では、下野屋重右衛門が一六一両の大金を貸付け、豊島屋裕八、大和屋長次郎がそれぞれ四〇両で、それに続く。
 
表42 安政2年 旗本服部氏への貸付金内訳
貸付人人数・
口数
貸付額比率
両分朱%
商 人14人350.1223.3
職 人5人51.223.4
個 人8人472.0031.3
寺 院2人71.004.7
幕府公金7口561.0037.3
1,506.00100
注)  安政2年「辰年御先納金控帳」(木崎 富塚勝男家文書)より作成。

 小名木村庄左衛門に代表される知行村の有力農民は、旗本財政を補塡するため多額の上納金を納入しているが、彼らはいつも余力があって大金を納めていたわけではなかった。文化八年(一八一一)、旗本仙石氏が分割支配する北吉田村の名主正作は、同氏へ納入する調達金四〇両を工面するのに、正作の所持地のうち、九〇筆の上田一町七反二畝二三歩を幕府の貸付役所へ質地に入れて、御用金をつくり出している(北吉田 十枝澄子家文書)。窮迫する旗本財政を支えるため、このように知行村々の有力農民が、自己の所持地を質入れして多額の現金を算段することが多かった。
 さて、前に戻って旗本服部氏の借財の内訳をみると、その最大の比率を占めたのは、幕府公金の借り入れであった。この幕府公金貸付けは、当初財政難に悩む旗本の当座の救済手段として機能したのが、それが完全に旗本の財政建て直し対策としての性格をもつようになると、知行村々の村民にとっては田畑を抵当にした利付き借用となり、結果的に知行村々の負担の増大を助長させた。そのことはまた、もはや財政管理能力の欠落する旗本に代わって、知行村々の農民が債権者として、旗本の財政を管理、運営するに至った事実を示している。
 こうして、他借、公金借り入れ、先納金に頼る財政操作は、一見旗本財政を回復、維持させるように思えたが、それらが、いずれも利付きの借用である限り、利足が利足を生み、ついには、旗本財政の完全な行き詰りに帰結してしまうことは必定であった。服部氏の知行村々でも、「風雨出水にて違作之見込」みゆえ、例年通り定式金上納が不可能なため、村々から宥免願いが提出されているにもかかわらず、領主側は、飯米代金にも不足し、公務はもちろん、家臣の扶持米さへ覚束ない状態なので、これまでのように定式金を納入するよう申し渡すなど、旗本の財政は完全に機能を失っていた。
 このような状況下で、旗本は、先納金、調達金、御用金などの名目で、知行村々へ上納を督促し、その上納に尽した者、あるいは知行地の役務に功績のあった者へは、官命を与えた。安政四年(一八五七)に清名幸谷村の大原家が、旗本杉田氏から改めて「老臣席」を命じられたり、富田村の佐久間家が、幕末期に御用金三〇両を上納した功績により、旗本榊原金之丞から「御用途」に取り立てられたり(富田 佐久間孝三家文書)、また慶応元年(一八六五)に、大網村の富塚新左衛門が「地代官」に任命されたり(大網 長谷川和雄家文書)したのは、いずれも旗本の知行上ないしに財政面で功績があり、その褒賞として任官されたものである。