(4) 関東取締出役の設置

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 領主財政の窮乏化に伴う知行農民の経済的負担増に加え、頻発する自然災害、百姓一揆の高揚、奉公人の放出、退転・潰百姓の出現、そしてそれに付随する農村離村といったような近世社会の根底を揺るがす社会変革の兆しは、まず風俗の紊乱、無法人による犯罪の過多として表面化してくる。土地を手放し、在村での生活を断たれた村人は、都市や宿場町へ流入し、生業に就けない者は、無宿人となって各地を徘徊するようになる。そうした浮浪の徒のなかには、一時の遊興に身をゆだねて博奕に耽ったり、村人から金品を奪ったりするなどの無法行為を繰り返す者もいた。
 そこで幕府は、明和四年に、関東筋と甲州辺の不穏な気運や風俗の悪弊を取り締るよう代官に命じた。それ以前にも、風俗取締り令はしばしば発布されたが、この触書がそれまでのものと性格を異にする点は、従来の法令がたとえ不行跡者がいたとしても捕縛されることはあまりなかったのが、今後は容赦なく召し捕ってよいと命じていることである。つまり、「風聞」だけを根拠に召し捕ってもよいとし、仮に間違えて捕えても責任は追及しないとしているのである。
 しかしながら、風俗取締りの画期となったこの明和四年の取締り令をはじめ、その後も幾度となく風俗の乱れを取り締まる幕府法令は布令されたが、いずれも大きな成果をあげるまでには至らなかった。とりわけ関東においては、所領配置上、天領、旗本領、大名領が入り組んでいたため、領地が変わると取り締りが行き届かないという弊害があった。また代官や旗本に、これら無頼人や浮浪人を直接に捕縛する権限が与えられていなかったことも、その取り締りが徹底しなかった要因の一つにあげられよう。
 不法行為が蔓延するこのような世情不安を憂慮した幕府は、文化二年(一八〇五)に関東取締出役を設置し、御料・私領の区別なく、犯罪者が逃亡を企てたときは、関東一円(水戸領は除く)のいかなる場所でも追跡できる警察権を与えた。関東取締出役は、設置当初、江戸周辺を統治する四手代官(品川、板橋、大宮、藤沢)の手付・手代のなかから二人ずつ計八人が任命された。文化二年時点では、まだ「関東取締出役」の名称は出てこないが、彼らは、「無宿・悪党」をみつけ次第、御領はいうに及ばず、「私領・寺社領」にも踏み込むことが許された。出張の節は、出役二人が組になり、小者・雇足軽・案内人を二人ずつ、つまり総勢八人が一組となって巡廻した。
 文化十三年には、これまでの四手一代官から選ばれた手付・手代二人ずつの計八人の出役が、三人ずつ計一二人に増員された。彼らは、在村の人々の協力をえて、浮浪人・悪党の摘発のため各地を巡検しただけでなく、村民の不穏な行動についても監視の眼を光らせたので、八州取締りとして、極悪人はもとより村民からも恐れられた。また、設置当初は、純粋に治安警察として出発したものが、次に述べる改革組合の編成とともに、次第にその性質を変え、商業や教諭面をはじめ民政一般にまで介入するようになっていく。そして、出役には、悪党を召し捕えるという警察権が付与されていたに過ぎなかったものが、予審的なことを行う裁判権をも与えられるようになった。
 たとえば、下総国香取郡長部村(現干潟町)に定住して農村復興に取り組んでいた大原幽学の活動を怪しんだ出役は、嘉永四年(一八五一)四月、幽学とその周辺を探索し、翌五年には彼と門人を捕えて取り調べた。この取り調べは、明らかに検察官の立場から行われたものであり、出役がこの追求を見合わせていれば、幽学は勘定奉行所で裁かれることはなかった。このように、有能な農村指導者を保護しないばかりか、反対に過重な弾圧を加えるなど、関東取締出役による農村統制・指導には一貫した理念がなく、時局を見極める能力が欠けていたといわざるをえない。出役の設置は、幕府にとって一応警察権の強化につながったが、無宿人・悪党の方でも情報網を整備するなど、出役の探索に対抗したため、彼らの横行は跡絶えることはなかった。村々でも出役の際には、応待の用意をしなければならず、しかも捕縛された犯罪人は村預けされることになっていたため、村民の負担は増大し、この出役の設置自体が、かえって村々を疲弊させることになった。