ほかにも、その鷹場組合とは明らかに異なる組合が、安永七年(一七七八)に存在していたことが在地の史料で分かる。砂田村、萱野村、神房村(以上、現大網白里町)、高田村、法目村、小茅場村、渋谷村、腰当村、下大田村、上大田村、柴名村、大沢村、桂村、榎神房村、上吉井村、下吉井村、本納村(以上、現茂原市)の一七か村で構成する組合村が実在し、次のような一〇か条の「定」を取り決めている(萱野 横田栄彦家文書)。それを要約して示すと以下のようになる。
一日光社参の人馬を差し出す節は、一同で相談のうえ差し出すこと。
一巡検使が通行の際は、宿継人馬を差し出し、陣屋諸色入用は、相談のうえ割合で勤めること。
一公用先触のときは、触出刻限の通り割合の人馬を差し出すこと。
一盗賊方役人がいずれの村へ巡廻しても、陣屋等の賄入用は、組合高割で助け合うこと。
一いずれの村方も、盗賊があらわれるようなら早速一六か村に通達すること。訴えに要する入用は、高割で差し出すこと。
一一六か村組合のうち、公儀より召し出しの節は、組合で高割にて入用を差し出すこと。
一盗賊・無宿が多数徘徊しているのを見かけたならすぐに召し捕え、村継で差し出すこと。入用は高割で差し出すこと。
一怪敷しき者が徘徊しているようなら親村へ順達し、立会吟味のうえ訴え出ること。
一組合村々で山守、猪追等を決して抱え置かないこと。
一組合村々で訴えがある場合、または囚人差し添えの者については、その村の役人はいうに及ばず、親村の役人を一人付き添わせること。
近世初期に鷹場の五郷組合に組み込まれていた町域の砂田村・萱野村・神房村の三か村は、幕末の慶応二年(一八六六)には、三か村ともその村名が見当らない。宝暦十一年(一七六一)には、この三か村を含む他市町域の村々九か村について、「左之村々之儀、前々より御捉飼場ニては無御座」(萱野 横田栄彦家文書)。と断っていることから、これら町域の三か村が、宝暦十一年より以前に御捉飼場の村から除外されていたことは明白である。この九か村組合を基礎にして、安永七年のような一七か村(九か村はすべて一七か村のうちに含まれる)による地縁的な組合が結成されたものと想像される。
以上のように、文政十年の改革組合村の編成以前にも、地縁的、政策的、自然発生的な組合村は、いくつか存在した。この改革組合村の設置についても、文政十年になって突如あらわれたものではなく、すでに関東取締出役の指示に基づいて、文化十二年(一八一五)から編成され始めていたとする見解もある(川村優「上総国における改革組合村の始源」『日本歴史』二三八号)。おそらく、砂田・萱野・神房の三か村を含む一七か村組合のような、関東取締出役の設置以前から存在する地縁的な組合村や、試験的に編成した改革組合の動向を考慮しながら、文政十年に体制的に組織化していったものと思われる。
ところで、文政十年八月の組合村結成の幕府法令は、次のようなものを主たる内容としていた。第一に、農間商いおよび諸職人の調査を義務づけ、その数を把握することであった。それは、余業を営む者が増加した結果、手余り地が増えて農業に支障をきたす地域も出てきたことから、商人や諸職人の増加は、農業に障害を与えるという認識が生じ、この事態に統制を加えるため調査を行ったものである。第二は、関東取締出役が逮捕した無宿者や悪人などの囚人は、村で預かることになっていたが、一村でそれを負担することは困難であったため、四〇~五〇か村を目安として組合をつくり、諸入用負担の軽減を図ることであった。そのため組合村を組織し、組合村のなかで大高で、しかも取り締りが行き届いている村を親村とし、諸入用の勘定などを引きうけさせた。第三に、農村取締り令ともいうべき四〇か条の取締り規定を守ることを決めた組合議定を取り交すことであった。この四〇か条の条文の前書部分に、村役人が指導すべき教諭書が記されている。そこでは、近年、各地で浪人体の者が長脇差や鑓や鉄炮などを携えて、徒党を組むような不穏な動きがあり、また、神仏祭礼や家の諸行事に華美な振舞いをして無駄な金品を消費しているといったような村内でのさまざまな悪弊を指摘して、それを改めさせるよう村役人に諭している。
改革組合の結成に当たっては、地理的に近接した四〇~五〇か村を一つのまとまりとして、大組合=改革組合を組織した。また、一つの大組合は、数か村を組み合わせた小組合がいくつか集まって構成された。その大組合の中心となる村を寄場と称し、そこに寄場名主を置いた。そのほか、大組合には大惣代を別に定め、小組合には小惣代を選定した。
山辺郡には、土気町二六か村組合、大網村一九か村組合、極楽寺村八か村組合、片貝村四四か村組合、それに山辺郡と武射郡の村々が入り組んで大組合を編成する東金町三〇か村組合が設定された。町域の村々が属する組合村は、表43で示した通りである。村数では、町域の村が皆無の極楽寺村組合が八か村、町域の村だけで構成する大網村組合が一九か村というように、かなり少ない村数で組織された組合もある。
寄 場 | 村数 | 村 名 | 組合村高 |
土気町 (山辺郡) | 26 | 土気 山田 池田 大竹 金谷 名 長谷 小沼 小西 南玉 餅木 真行 赤荻 門谷 駒込 小中 宮崎 平沢 小食土 高津戸 上大和田 下大和田 越知 大木戸 小山 大椎 | 8,868石 |
大網村 (山辺郡) | 19 | 大網 南富田 永田 北富田 仏島 経田 星谷 荻福田 南横川 北横川 南飯塚 北飯塚 上貝塚 北吉田 柳橋 長国 木崎 柿餅 桂山 | 7,320石 |
片貝村 (山辺郡) | 44 | 片貝 貝塚 藤ノ下 田中新生 中野 西野 荒生 殿廻 関ノ下 大沼 不動堂 宿 宮 武射田 三門 中 三浦名 薄島 高倉 細屋敷 粟生 小関 堀之内 関内 嶋 富田幸谷 四天木 今泉 家徳 広瀬 真亀 真亀村新田 九十根 一ノ袋 二ノ袋 大沼田 下ケ傍示 依古島 小沼田 白幡 小関村新田 作田 砂古瀬 細草 | 14,486石 |
東金町 (山辺・武射郡) | 30 | 東金 田間 二又 道庭 家ノ子 菱沼 前之内 北野幸谷 堀上 川場 押掘 幸田 北幸谷 中 下谷 中島 上谷 上谷新田 福俵 養安寺 山口 田中 大豆谷 台方 清名幸谷 松ノ郷 油井 小野 姫島 求名 | 18,996石 |
ここで注目されるのは、町域の村では、砂田村・萱野村・神房村の三か村は山辺郡内であるにもかかわらず、山辺郡の組合村に含まれていないということである。先に示したようにこれら三か村は、すでに安永九年時点で近隣一七か村で組合村を結成しており、山辺郡の組合村にこの三か村が属していないということから、文政改革組合は、文政十年以前に組合が存在していたものについては、それを分解して新たに組合を編成し直すという方法はとらず、既存の組合村をそのまま活用するという方針であったことが裏付けられる。先の一七か村組合の一〇か条からなる定書は、文政改革組合編成のときの教諭書と内容的に類似した箇所もあり、とくに諸入用を組合村々で負担したり、盗賊など悪人の取り締りの徹底化を図るといったことは、両者に共通する条項である。そのことから、一七か村組合のような旧来からあるいくつもの組合村の議定書のなかに織り込まれた内容が、文政改革組合を編成するときの教諭書の基準となったとも考えられる。また、鷹場の五郷組合との併存も認められるので、この改革組合村の結成と同時に既存の組合、たとえば鷹場五郷組合などが直ちに解消されたわけではなく、その後も重層的な組合村として存在したのである。
以上、関東取締出役の設置、ならびに改革組合の編成は、治安維持、警察権の強化と、その行使に主要な目標が置かれていたが、次第に商人や諸職人の実態、給金や物価の調査を通じて経済的統制の手段としての性格を帯びるようになった。それは、農村への商品貨幣経済の浸透の阻止、自給自足経済への回帰という狙いが、これらの施策の底流にあったからであると考えられる。この文政改革と、その当初から経済統制を主目的とする天保改革の断行にもかかわらず、治安の面でも経済統制の面でも、目論見通りの成果をあげることはできなかった。そのため幕府の威信は大きく失墜し、とりわけ安政開港以後、幕府の支配体制は急速に弱体化していく。