(7) 真忠組騒動

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 開港を契機に、各地で士族の反乱や不満分子による騒動が続発したが、房総地方でもいくつかの騒動が起こっている。その代表的なものは、大網白里地域を含む九十九里一帯を喧騒の渦中に投げ込んだ真忠組騒動である。
 真忠組騒動の経過や顚末を伝える格好の書物としては、明治三十二年(一八九九)に記述された東金住人杉谷直道の「真忠組浪士騒動実録」と口語調で記された「真忠組浪士騒動実話」が挙げられよう(『東金市史』史料篇一所収)。その両書を中心にこの騒動の経緯を追うと、まず文久三年(一八六三)十一月十二日、山辺郡小関村新開(現九十九里町)作田川の川岸にある大村屋旅館に「報国救民館真忠組当分住所」と書かれた表札が掲げられた。そこを本拠として野州浪人楠音次郎正光を首領に約二〇〇名の浪人が屯集し、真忠組を名乗って攘夷運動を展開した。さらに、茂原村妙光寺(藻源寺)塔頭東光院と八日市場村福善寺には、それぞれ分営を設置した。本拠小関館の大将は楠音次郎、茂原館大将は別将の三浦帯刀有国、八日市場館大将は山内額太郎正直であった。真忠組は、攘夷決行の準備として在地の富裕な農民や商人たちから金穀や武具を徴発しては、その金穀を貧民に施したり、また村民の訴状を取り上げて独自の裁判を開いたりした。
 この騒動の波紋は、大網白里町域の村々にも広がり、元治元年(一八六四)正月十二日に、四天木村の窮民七五人へ、真忠組浪士より村役人を介して五両が割り渡されている。同十四日にも浪人井関喜十郎が「今泉村ノ豪農年寄」である徳三郎の家へ押し入り、強談にて馬一頭を奪い取ったことが記されている。貧民への施金については、四天木村役人金兵衛と清兵衛が、三浦帯刀より預かった金子を貧民に割り渡したのを騒動終末後に巡検役人から咎められたとき、彼らからの施金は、「所々ニて奪取又は押借致候金子とは不存候とも、難及断候迚貰請」けたものであると申し述べて許しを乞うている点に、その間の情景がよく示されている。
 さらに、浪士たちが本拠を定めた大村屋旅館についても、当町域の大網村と非常に関係が深かったことが、「大村屋女中伊八厄介」であったさつの「申口」(『九十九里町誌』史料篇上巻所収)の内容から知られる。その冒頭の文言を読み下し文で掲げると、
 右のもの(さつ)義は、上総国山辺郡大網村百姓三左衛門娘にて、幼年より小関村農間旅人宿中村屋周次方に十ケ年余奉公致し罷り在り、其の後本須賀村五右衛門、さつの父三左衛門方より貰い請け、小関村新田百姓政吉はさつの縁者に付き、右政吉宅へ同居致し、五右衛門万事世話いたし罷り在り候処、去る四ケ年前酉年中(文久元年)、右五右衛門、三男武次郎を養子にいたし、小関村新田に屋敷地を買い取り、新規家作いたし、名主伊八へ相頼み、新百姓に取り立て貰い候へども、三ケ年相立ち候までは、厄介人別に致し置き候事当村の仕来りの趣にて、伊八厄介人別に入れ置き候処、伊八旅人宿渡世相休みおり候につき、去る戌年十二月より五右衛門借り請け候て、さつを右旅人宿渡世致させ、五右衛門世話致し罷り在り (後略)
とあるように、本須賀村五右衛門は、真忠組騒動の前年から、休業状態であった大村屋旅館を借り請けて旅籠屋を営み、その経営は、養女である「さつ」(三十二才)が女将として切り盛りした。小関村新開の名主でもある旅館所有者の伊八が、当時その営業から離れていたことは、他の史料で伊八が陳述している内容からも証明できる(同前掲書)。さつは、幼少のときから小関村新開の旅籠屋中村屋で十年余も奉公勤めをしたのち、五右衛門の養女となって、大網の生家と縁続きであった小関村百姓政吉のところに五右衛門とともに居住した。五右衛門は、さつと添わせるためか、政吉の三男武次郎を養子に迎え、一家で新百姓に取り立ててくれるよう名主伊八に頼んだ。しかし、村の仕きたりで三か年が過ぎるまでは新百姓に取り立てられないということを聞かされ、結局伊八の「厄介人別」に加えられた。このように真忠組の中心的な舞台となった大村屋旅館の女将が、大網村出身の者であったなど、真忠組と町域との関係はまことに深い。
 真忠組の行動とその趣旨を伝える触書は、楠音次郎と三浦帯刀の連署で九十九里周辺村に廻達されたが、町域の村々でもその写しが現存している村もある。次頁写真の「上総国山辺郡片貝村新開浪人一代記」(桂山 中村明郎家文書)のなかでも、「抑も我等儀は、報国赤心同盟の義士にて、国家の為め身命を投じ、万民困窮を免れしめんの外他事なし」で始まる触書の全文が書き留められている。触書には、幕府が欧米諸国と条約を結んだことを非難し、やがて攘夷決行の日が来ることを確信して真忠組を結成したことが述べられている。とくに、「夷賊」が「愚民姦商を惑はし、利を以て誘ひ、皇州日々有用の財を奪ひ、夷国無用の品を高価に売り、国民の困窮内患の生ずる」ため、攘夷を決行すると主張しており、開港の弊害を専ら経済的側面から把えているところに大きな特色がある。真忠組の声明文ともいえるこの触書は、小関村新開の大村屋旅館から出され、各改革組合村の布達経路を利用して廻送された。文久三年十二月十八日付で発送されたこの触書は、大網村組合の一小組合を構成する北吉田村にも、その日の「昼午の刻」(午前十一時~午後一時)にすでに廻送されており、その伝達の迅速さには驚かされる。

写真 真忠組騒動記
 
 触書に記されているように、幕府が欧米と条約を締結して開港に踏み切った点については幕府を強く非難するが、その結党の主旨からしても決して倒幕までの意図はなかった。ところが、真忠組に対する幕府の対応は厳しく、早くも文久三年十二月には、真忠組討伐の命令が出された。小関村を所領支配していた岩代国福島城主板倉勝顕(三万石)の軍勢約一〇〇人と、関東取締出役馬場俊哉・渡辺慎太郎両人の手勢約一〇〇人は、多古藩兵約一六〇人、一宮藩兵約一五〇人の応援と、さらに佐倉藩兵約一〇〇〇人の後詰めの加勢をうけ、文久四年(元治元)一月十七日と十八日の両日に、小関村新開の本営と、茂原村・八日市場村の各分営を急襲した。この攻撃により、真忠組の主導者のほとんどが斬殺ないしは捕縄された。なかには命からがら逃亡を企だてた浪士もおり、町域の今泉村出身とされる今泉茂七は、逃亡に成功した一人である。
 この真忠組の思想をどのように評価するかについては、単なる尊王攘夷運動に過ぎないとする見解と、貧民救済と鎖国攘夷の要求を掲げる世直し一揆という観点から再考しようとする見解があり、いまだ定説をみるに至っていない。ともかく、この騒動が、九十九里沿岸の村々のみならず、大網村など内陸の村々にも多大な影響を与えたことだけは間違いない。