(1) 戊辰戦争と江戸開城

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 開国の影響は、真忠組騒動にみられるように、各地で尊王攘夷運動を高揚させた。尊王攘夷運動は、直接倒幕に結びつくものではなかったが、文久二年(一八六二)の生麦事件、同三年の下関における長州藩の外国船砲撃など、度重なる外国との武力衝突に何ら対処できない幕府の無能ぶりがさらけ出されるに及んで、西国諸藩の下級武士や西国の下級貴族の間では、倒幕の意識が高まっていった。この時期においても、藩主層や上級貴族の大部分は、公武合体の立場を堅持し、朝廷の権威が徐々に強まることを予感しながらも、全面的に倒幕へ傾くことはなかった。しかしながら、慶応元年(一八六五)から翌二年にかけて、幕府による二度の征伐をはね返した長州藩で倒幕の気運が一挙に高まると、諸藩、とくに西国諸藩もそれに呼応し、長州藩と薩摩藩とが同盟するに至って、倒幕の方向は決定的なものとなった。薩長二藩とも外国艦隊と砲火を交え、その惨敗によって到底勝利の見込みがないことを察知したことが、いち早く攘夷に見切りをつけさせた。
 尊王攘夷が、攘夷から一転して尊王倒幕へと大旋回するなかで、十五代将軍慶喜は、公武合体派の前土佐藩主山内容堂の助言を聞き入れ、慶応三年十月十四日大政奉還を決定した。これをうけて、朝廷では、同年十二月九日に王政復古の大号令を発した。こうして、江戸幕府は、約二七〇年の長きにわたって君臨してきた政権の座を明け渡し、代わって明治新政府が樹立された。
 大政奉還のときに公武合体派が企図した明治天皇の下に諸藩合議を設置し、将軍慶喜が議長に就任して、事実上政治の実権をそのまま保持するという構想がうけ入れられなかったばかりか、将軍の官位を奪われたうえに、徳川氏の所領も返上させられることになったため、幕府方はこの措置に激しく反発し、ついに新政府と戦端を開くことになった。新政府もまた、徳川慶喜征伐令を発したので、戦争は次第に拡大していった。
 慶応四年(明治元)一月、鳥羽・伏見戦争で旧幕府軍を打ち破った新政府軍は、東海道・中山道・北陸道の三派に分かれて東進し、三月初めにその主力部隊が東海道と中山道の両方からは江戸へ迫った。この戊辰の年の一月から翌明治二年にかけて、東日本を中心に戦いが繰り広げられた旧幕府軍と新政府軍との戦争を、戊辰戦争という。戦局は圧倒的に新政府の方が優位で、旧幕府軍の敗色は濃厚となった。江戸周辺に進攻した新政府軍は、三月十五日を江戸総攻撃の日と定めた。それより先、三月九日、陸軍総裁勝安房(海舟)の命をうけて、旧幕府精鋭隊頭山岡鉄太郎(鉄舟)は、駿府(静岡)の東征大総督府に赴き、徳川氏の処遇について新政府軍の総参謀西郷隆盛と会談した。この交渉の結果をうけて、三月十三、十四日の両日、将軍の処罰や江戸開城の方法などについて、江戸の薩摩藩邸で西郷と勝の会談がもたれた。そして、新政府による十五日の江戸総攻撃は中止され、四月十一日に江戸城は無血開城された。
 町域の村々は、直接には戦火に巻き込まれることはなかったが、江戸開城後、最後まで佐幕派を貫き通した会津藩を攻めるため、新政府軍が北上を開始した際、兵士の兵糧米や荷物輸送の人馬が徴発され、町域村々でもそれらを負担した。四月十五日には、東海道先鋒総督府会計方から、「官軍兵食賄」いとして、関東の組合村に高一〇〇石当り白米三俵(四斗入)と金三両を、十六日から十九日までの間に納入するよう触れ出されている。この触に基づき、大網村組合の寄場では、四月二十日に大惣代と年番名主との連名で、富田村・永田村・南横川村・北吉田村の各名主に宛てて、村高一〇〇石につき白米三俵と金三両を各村が提供して、品川宿官軍賄所まで持参するよう申し伝えている。これは、後日朝廷から利足をつけて村へ返済されることになっていたが、村々にとっては、当面は出費の強制負担となった。