(2) 領主支配の廃止と旗本の帰郷

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 王政復古の大号令で幕府が倒壊すると、明治新政府は、旧幕府直轄領を接収し、新政府が直接管轄する県を置いた。次に、所定の期日までに帰順の意を申し出なかった旧旗本の知行地も没収して、県の管轄とした。しかし、恭順の意を表明した旧旗本の知行地も、結局は明治二年(一八六九)十二月にすべて上知させ、県の管轄下に置いたため、名実ともに旗本領は消滅した。
 大名についても、明治二年の版籍奉還、同四年四月の廃藩置県の実施過程で、その領知を全部上知させた。同二年一月には、寺社領上知の布令を出して、将軍・大名・旗本が寄進した寺社領は、境内地を除いてすべて上知させた。
 旗本領を中心に、この上知の経緯についてもう少し詳しく見ていこう。明治元年閏四月二十四日、田安亀之助が、徳川家達(いえさと)と名乗って徳川氏を相続した。新政府は、五月二十四日、徳川氏に駿河・遠江・三河三国で七〇万石を与え、駿河府中(静岡)に封じた。五月末には、元御三卿であった一橋茂栄・田安慶頼らは、新政府の大総督府に対し、これまでの旧旗本や御家人を朝臣に加え、旧旗本の知行所は従来どおり安堵してくれるよう嘆願書を提出した。一方、徳川氏は六月の初め、旧御家人へ徳川氏の所領地が減封された以上、これまでのように家臣として召し抱えておくことはできないので、一切の給与を停止することを伝えた。そして、今後は朝臣になるか、徳川氏から離れるか身の振り方を決めるよう申し渡した。さらに旗本に対しても、同様の処置を行うように命じた。徳川氏にはもはや旧旗本・旧御家人を扶養する余力はなく、すべてを新政府にゆだねるよりほかなかったのである。
 旗本のなかには、栄達のために朝臣になることを拒絶する者もおり、また、たとえ朝臣に加わって本領を安堵してもらおうと願っても、「旗本ノ内ニモ稀ニ本領安堵ノ方モアリ、是ハ最初より朝臣トナリテ功ヲ取タル物計リノ様子也、追々本領安堵ニ成度、雑費ヲ遣ひ色々と願立致候殿方モ有之様子ニ候得共、本領安堵ニは不成様子ナリ」(柿餅 小川公延家文書)とあるように、戊辰戦争の段階で朝廷に加担して戦功を立てた旗本を除いては、旧来のまま本領を安堵されることはほとんどなかった。大網白里町域の村々を知行していた旧旗本が、本領安堵を認められたかどうかは明らかでないが、その多くが旧知行地を召し上げられ、当町域は旧幕府直轄領と旧旗本領が上知されるのと同時に設置された房総知県事の管轄下に置かれた。
 たとえ本領安堵を許された旗本であっても、明治二年十二月二日には、知行取りの旗本は、知行地返上となり、禄制を定めてすべて現米支給に改められた。したがって、知行地を失い、領主でなくなった旗本は、その身の処し方をみつけ出さなければならなかった。それより先、明治元年二月四日に、将軍慶喜は、旗本たちの随身の自由を認め、六日には、旗本・御家人の知行地などへの土着を許可していた。旗本の場合、その去就については、既述したように、第一に徳川氏から離れ、知行地に土着すること、第二に朝廷に帰順して朝臣となること、そして最後に徳川氏の転封により駿河へ随身すること、の三つの方法があった。しかし、これまでもみたように、第二の朝臣に加えられることと、第三の徳川氏へ随身して駿府に赴くことは、条件的に極めてむずかしく、結局は、徳川氏から完全に離れ、旧知行地の村々に土着するか、あるいは新政府から支給される禄米を頼りに、東京で新生活を始めるかのいずれかを選択しなければならなかった。
 旗本の間では、戊辰戦争の最中に、江戸が戦火に包まれるのを予測して、明治元年から旗本の家族や、その家臣を知行所の村々へ避難させようという動きがすでにあった。たとえば、清名幸谷村に知行地をもつ旗本杉田氏は、同年十二月に、息女を同村へ下向させる準備として、長持一棹、簞笥五つ、渋紙包箱一つ、葛籠一荷の家財道具を送り付けている。最終的には、杉田氏自身は清名幸谷村に土着しなかったが、息女はその後も長く同村で生活した。
 また、旗本の没落後、主君を失った家臣たちも旧旗本の知行村々へ帰農することが多く、北吉田村では、明治三年九月に、旗本仙石鉄治郎家臣の太田八郎が、母・妻・娘の家族四人で土着したのをはじめ、ほかの村にも旧旗本家臣が移り住んだ例がいくつかある。