慶応三年(一八六七)十月、十五代将軍徳川慶喜は上表して政権を朝廷に返上した。これを「大政奉還」という。朝廷は十二月九日「王政復古」の大号令を発した。京都二条城にいた徳川慶喜は、不満をもつ家臣が暴発するのを避けるため家臣を率いて京都を去り大坂城に入った。
一方、徳川三百年代々の将軍に仕えた家臣団の不満はたかまった。彼等は、今回のできごとは薩摩藩の策謀であると信じていた。そこへ、江戸における薩摩藩邸襲撃の報が伝わりついに実力行動に出た。慶応四年(一八六八)正月三日、大坂を発した徳川勢は京都表へ出動し、途中で薩・長・土三藩の兵と対戦し徳川方は敗退した。このため慶喜は「朝敵」の汚名をきせられた。彼は正月六日幕艦「開陽」に乗り大坂を出て十二日に江戸に帰り、二月十二日から上野大慈院に退隠してひたすら恭順の意をあらわした。
鳥羽・伏見の戦いは、数の上からいえば徳川方が圧倒的に多数であったのに、意外な敗退の憂き目をみたのは、薩・長側の武器の優位と戦略の勝利といってよいであろう。また慶応四年閏四月二十八日付の『日々新聞』の記事は「大事をなす者は衆に謀らずと、実にこれ英傑の語也。今大君賢明にして下問を尽したもう事、実に微臣等に於てありがたき儀に存じ奉り候。ただその英断の薄く在らせらるを深く嘆息仕り候。(下略)」と記し鳥羽・伏見の敗因は将軍慶喜の決断力の欠如と指摘している。
維新の争乱はこうして開始された。朝廷では徳川慶喜を「朝敵」とみなし、東征大総督有栖川宮熾仁親王を明治元年(一八六八)二月江戸に進発せしめた。
房総の大名も次々に上京して朝廷に忠誠を誓ったが、関宿藩は藩主久世広文が幼年で藩内が二つに分かれ、後に佐幕派とみなされるに至った。
また東征軍の江戸総攻撃は、幕府側の勝海舟と薩摩の西郷隆盛が江戸の薩摩藩邸での会見により中止になり、江戸城の無血開城となり危機は去った。しかし幕臣の中には、これでおさまらぬ者も多く、海軍副総裁榎本武揚は、幕府の軍艦を率いて安房の館山に、歩兵奉行大鳥(おおとり)圭介は幕兵約千六百人を率いて下総の市川に、撒兵(さっぺい)頭福田道直は千五百人を率いて上総の木更津に赴いた。このため房総各地は官軍と旧幕府軍の戦場となった。木更津に赴いた撒兵頭福田八郎右衛門道直は木更津に徳川義軍府を設け、周辺の諸藩に兵器や金穀の拠出を求めた。上総請西藩主林忠崇は福田道直の徳川家恢復の意見に賛同したが、結果的には忠崇は遊撃隊の人見らと合体して行動を起し官軍に対抗した。
大網白里町北今泉上代家は当時九十九里浜の有名な網元であったが、江戸をのがれ東北に行く旧幕臣がたよって来て、ここから船に乗って、目的地に赴いたという。上代家には従前その武士たちが置いていった刀剣類がいくつか残されていたと伝えられている。
房総を中心とした徳川家脱走兵による騒乱も明治元年(一八六八)九月ごろまでに大体鎮定され、房総三国におかれた大小十六藩は無事に存続したが、上総請西藩のみが例外とされた。
こうして、旧徳川幕府家臣団の新政に対する抗争も、日本を二分しての大争乱になることもなく鎮定され、天皇を中心とする維新の新体制が発足する。
明治維新はすすんだ西欧の文物に対して、当時の日本が遅れているという認識のもとに、こうしたものをとり入れ近代化をはかることが目的の中に包含されていたため、維新が成功すると国をあげて西欧化ともいうべき、西欧文物の導入がはかられた。しかし他方で旧来の政治体制を一挙に百八十度変換させることはできず、新政府のリーダーたちは苦心した。政治体制の例でみるならば、律令官制にならって太政官や神祇官を中央に設置し、その下に各省がおかれ、太政大臣、左右大臣、大納言、参議が国政に参与する者のポストの呼称であった。また四民平等をたてまえとしても、旧大名は華族に列し爵位を与え、旧武士(藩士)階級には士族の称号が与えられた。後者は時代がすすむとあまり重大な意味をもたなくなるが、それでも地方に於ては士族がはばをきかせ、「戸籍」にまで士族、平民の呼称が付記されていた。
明治維新といえば現代の私たちは、簡単に改革がすすめられたように思いがちであるが、ひとつひとつの事例を通してわかることは、国政にかかわる人びとが旧体制にかなり細心の注意をはらいながら、新政策を推進しているということであろう。
また西欧化のスローガンとなった「文明開化」の進展ぶりをみても、下からのもりあがりではなく、上からの指導が主体であったためいろいろ矛盾点もあらわれている。しかし総体的にみるならば、この国策により多くの国民が、さまざまな文明の恩恵を受けたこともたしかである。明治七年八月二十八日付の『新聞雑誌』の記事中に「英人某云う、日本国開化の速やかなる、実に驚くべし、西洋にて二百年を閲て行うことを、わずか七、八年にて施せり(下略)」(『明治ニュース』、事典第一巻)ということがみられ、西洋に追いつき、追い越せ、という国をあげての方針の効果に英人もびっくりしている様子がわかる。しかし一方では、『同誌』の明治四年五月の記事には「近日里俗ノ歌ニハ半髪頭ヲタヽイテミレバ因循姑息ノ音ガスル、総髪頭ヲタヽイテミレバ王政復古ノ音ガスル、ジャンギリ頭ヲタヽイテミレバ文明開化ノ音ガスル」。とあり、次々と出される新政府の改革プランにいささか食傷気味の自嘲めいたムードも感じられる。
しかし、個人的にはどのように感じようとも、徳川幕藩体制に代って発足した明治新政府は、西欧化の政策(欧化政策)をとることにより「殖産興業」、「富国強兵」という国策をもち、その実現をとおして、天皇を頂点とした近代的中央集権国家をつくりあげていこうというのが最終目的であったといってよいであろう。