地方においては、府・藩・県の三種に区分され、府・県には知事、藩は従来のまま藩主が統治する形態をとったのでこれを「三治の制」と称している。
房総における藩は明治元年九月現在で二十三藩、明治二年末で三十三藩・二県であった。
大網白里町関係では、明治二年(一八六九)大網藩が羽前長瀞(ながとろ)から移って来た。藩知事は米津政敏であった。
政敏は慶応元年(一八六五)十二月家督を継ぐが、出羽・武蔵・上総・下総・常陸と所領は分散しており、表高は一万一千石の大名であった。明治維新の争乱(戊辰戦争)でしかも出羽庄内藩兵と官軍のいくさのため長瀞陣屋が焼失したり、武蔵・上総・下総・常陸の所領には旧幕府脱走兵が入り込み金品を強要したり食料を要求するため、藩政は大いに混乱した。
明治二年(一八六九)六月版籍を奉還した米津政敏は長瀞藩知事に任命されたが、この年八月に、太政官の事務局でもある弁官へ大網移住の許可を次の通り求めている。
史料 『茨城県史料』維新編
公文録 長瀞藩之部
(四)
当藩ノ儀従前定府ニ付、昨春東京引払ノ節一藩不残上総国大網村ヘ引移申候、且支配地ノ儀モ武・総・常・房ノ内ニ多分御座候間、旁私儀ハ大網村ニ暫時罷在、長瀞表ヘハ執政ノ者差遣諸般為取扱、御一新ノ御趣意支配所一般行届候様指揮仕度奉存候、此段御許容被成下候様奉願上候、以上、
八月八日
長瀞藩知事
弁官御中
(朱書)「願之趣聴届候事」
私儀願済ニテ上総国大網村ヘ(明治二年八月)明十五日出立仕候、此段御届申上候、以上、
八月十四日
長瀞藩知事
弁官御中
こうして、米津長瀞藩知事は大網へ移住したが、やがて大網藩知事にしてほしいと弁官へ歎願書を差し出すことになる。
史料 『茨城県史料』維新編
公文録 長瀞藩之部
(八) 奉歎願候口上覚
当藩支配・武・常・房・両総・羽前六ケ国ニ散布候処・武・総ノ内多分ニ付昨春東京引払ノ節、一藩不残上総国大網支配地ヘ引移申候ニ付、旁先般奉願羽前長瀞表ヘハ執政ノ者差遣、私儀ハ当時大網表ニ罷在、四散ノ支配地、御一新ノ御趣意一般行届候様尽力罷在候得共、何分行程数百里ニ相隔、実以不得止事情態被為訳 聞食、可相成儀ニ候ハヽ大網藩知事ト被仰付被下置候様偏ニ奉仰願候、以上、
十月廿二日
長瀞藩知事
弁官御中
(朱書)「願之通被聞食届候事
十一月二日」
米津政敏の希望は聞き届けられ、大網藩知事に任ぜられた。やがて大網藩の公印が下付された。
写真 大網藩の印
『府・藩県印影』明治4年
(国立公文書館所蔵)
当時の府・藩・県印は国が下付したものであることは、米津政敏大網藩知事及び公用人が提出した次の史料でわかる。
史料 『茨城県史料』維新編
公文録
(廿六)
(1)今般藩印御渡被成下難有、正ニ奉拝受候、此段御請申上候、以上、
明治三庚午年四月十二日
大網藩知事 米津政敏
(2)先般当藩印影御渡下ニ付、去々月十九日於西京御留守官、藩印御渡御座候、依之支配地大網表へ差送リ、知事正ニ奉拝受候、此段御届申上候、以上、
四月廿五日
大網藩公用人 岡崎鼎
弁官御役所
こうしてみると大網藩設立の経過は、羽前長瀞から米津政敏が転封されてきたというよりも、明治維新の争乱がおさまると、米津政敏自身が大網に移住していて、この地に藩の設置を歎願して承認されたということがわかる。政敏は当地の日蓮宗の寺院、蓮照寺を仮藩庁とした。しかし一方では大網に同年宮谷県の仮庁舎が本国寺に置かれている。
明治四年(一八七一)二月米津政敏は現在の茨城県竜ケ崎に藩庁を移し、大網藩は一年三か月で姿を消した。
なお、明治三年大網藩が弁官役所宛に提出した職員姓名をみると次のようになっている。
上総国 | 大網藩 | 高三千三百二拾七石九斗四升四合五タ三才 | 藩邸 | 芝愛宕下 |
知 事 | 米津従五位藤原朝臣政敏 | |||
正権大 参事 | 正石原利兵衛橘弘毅 | 権人見秀雄源頼桓 | ||
少参事 | 町田鋳兵衛源定長 | 福岡左大夫源定宣 | 岡崎鼎藤原芳寛 | |
村山弥右衛門源忠恪 | 渡辺真彦源綱理 | |||
正 権 大 属 | 権浦上豊紀景耀 | |||
同小原傅平清鋥 | ||||
小 藩 | <庚午十二月 | |||
正 権 少 属 | 正岸雄波藤原正道 | 同嶋田新兵衛源由賢 | 同浦上勇紀景徳 | 同渡辺衛守源泰綱 |
同佐々木熊雄源爛如 | 同関権七郎平道治 | 同奥瀬半三郎藤原為議 | 同小堀小源太源一議 | |
権木村弥兵衛源重光 | 同浦濱渡藤原清一 | 同宮井吟平藤原宗吉 | 同柴田機一郎源義道 | |
同鈴木和太郎藤原正森 | ||||
史 生 | 本間宗俊源貞輝 | 岸順三郎藤原正富 | 宮井順次郎藤原宗寿 | 枝川極平長恒 |
国藤小平太源広胖 | 嶋田新四郎源由長 | 木崎良太郎源貞長 | ||
庁 掌 | 真嶋真三郎藤原輔徳 | 三浦徳兵衛平勝宗 | ||