『房総通史』(房総叢書・別巻)は、こうして、一定の庁舎をもたずに移転したのは、兇徒鎮定の便宜からということを記している。しかし、年月を経て世の中が安定すれば、一定の場所で行政事務的なしごとをする必要があるので、本国寺のような大きな寺を借りうけて庁舎としたのであろう。
宮谷県と公称した日付に関しては、明治二年二月九日付の布告で、上総国に宮谷県が置かれたという通達があるが、二月二十日説もある(『千葉県の歴史』小笠原長和・川村優共著・山川出版社)。これ以前のことに関しては、明治二年正月七日ごろまでの文書には「房総知県事役所」となっていて、正月十四日以後の文書は宮谷県役所となっている。
また『長南町史』には「極めて短期間であったが房総県と公称したようである…」と記され、当町萱野の横田栄彦氏所蔵の文書に明治元年十一月二日付のものとして写真のようなものがある。
写真 房総県よりの達(萱野 横田栄彦家所蔵)
一村
御料相成候上ハ旧旗下
知行分界を廃し
役人共一同立会ノ上
取立方其外都而差支
無之様可取斗もの也
房総県
役所 [印]
辰十一月二日
上総国山辺郡
萱野村
役人
明治元年から二年にいたる間の維新の混乱期における地方統治の状況は、混乱していてよくわかっていない点も多いが、房総では旧幕府領・旗本領に県が設置され、庁舎の所在地の名称を県名(宮谷県の場合)とした。
宮谷県設置経過概要 | ||
明治元年(一八六八) | 7・2 | 柴山典(文平)安房上総知県事に任ぜられ市原八幡に、(『房総通史』) |
9・5 | 遠州浜松城主井上正直上総へ転封を命ぜられる、(『房総諸藩録』) | |
11・2 | 房総県役所の文書(当町横田家)あり、(当町記録) | |
柴山典この頃長南町浄徳寺を仮庁舎とする、(『房総通史』) | ||
12・16 | 柴山典当町宮谷本国寺へ移りここを仮庁舎とする(『房総通史』) | |
明治二年(一八六九) | 1・27 | 井上正直浜松城を出発し上総へむかう(『房総諸藩録』) |
1・30 | 柴山典知県事に任ぜられる、(『西海忠士小伝』) | |
2・9 | 宮谷県設置の布告出る、(『房総通史』) | |
7・ | 柴山典宮谷県権知事に任ぜられる、(『西海忠士小伝』) |
柴山典(文平)は初代の宮谷県権知事であり、その下に大参事中村清風、小参事に中山勝が任ぜられた。
また宮谷県の管轄地は表1のとおりである。
石高 区分 | 石 高 | 備 考 |
安 房 | 5万6000石余 | 四郡のうち藩領を除いた分 |
上 総 | 8万7800石余 | 国内中の藩領を除いた分 |
下 総 | 12万2000石余 | 匝瑳,香取,海上三郡のうち藩領を除いた分 |
常 陸 | 10万4700石余 | 河内,信太,行方,鹿島四郡のうち藩領を除いた分 |
計 | 37万1700石余 | |
このような広大な管轄地をもつ、宮谷県の職員構成はどのようなものであったのであろうか。明治三年六月現在の職員録があるので、次に引用する。
史料 清名幸谷 中村昭家所蔵 | ||
宮谷県職員録 | ||
久留米藩 高三百四十石 | 権知事 | 柴山文平様 |
笠間藩 高二百石 | 大参事 | 中林清風様 |
佐賀藩 高二百石 | 大参事 | 荒木権六様 |
久留米藩 高八十五石 | 小参事 | 赤司萬蔵様 |
土州藩 高八十五石 | 小参事 | 中山勝様 |
大属 六十七石 | ||
前橋藩 聴訟 | 新荘止様 | |
久留米藩 同断 | 鹿子嶋喜久治様 | |
前橋藩 同断 | 鈴木金也様 | |
笠間藩 租税 | 本郷省三様 | |
久留米藩 監察会計 | 野村正心様 | |
報国 社寺 | 佐藤信様 | |
久留米藩 監察会計 | 伊藤幹様 | |
右同断 社寺 | 辻湊様 | |
権大属 高五十石 | ||
帰臣 租税 | 藤曲徳三郎様 | |
同断 | 本荘喜久太郎様 | |
草莽 聴訟断獄 | 内藤行蔵様 | |
少属 高三十三石 | ||
帰臣 租税 | 八木銀平様 | |
同断 | 多留井麟治郎様 | |
草莽 聴訟断獄 | 海瀬光太郎様 | |
同断 | 板倉精一郎様 | |
東京監 聴訟 | 安藤卓爾様 | |
権少属 高二十六石 | ||
水野藩 聴訟会計 | 窒勘作様 | |
高嶌藩 聴訟 | 岡本正人様 | |
帰臣 租税 | 原靱負様 | |
同断 | 小嶌厳作様 | |
同断 | 中邑勇三様 | |
久留米藩 筆生 | 高木隆様 | |
帰臣 租税 | 大須賀廉平様 | |
草莽 租税 | 鎌田嘉三様 | |
帰臣 租税 | 栗原與一郎様 | |
同断 | 藤山基一郎様 | |
草莽 租税 | 武内武雄様 | |
帰臣 租税 | 山嵜三治郎様 | |
同断 | 三嵜量平様 | |
久留米藩 聴訟 | 辻鎖様 | |
史生 高二十石 | ||
帰臣 聴訟 | 堀鎌三郎様 | |
同開門 | 渡辺和三郎様 | |
旧幕 学□ | 倉橋鋭三郎様 | |
幕草 土木開コン | 塙六郎様 | |
学□ 書記 | 田信忠平様 | |
高島藩 聴訟 | 稲葉恩朔様 | |
神主 学□ | 山口題様 | |
静岡藩 書記 | 武村静雄様 | |
草莽 戸籍 | 糟谷忠誠様 | |
高鳴藩 聴訟 | 田沼曻様 | |
史部 高十五石 | ||
高嶋藩 筆生 | 三芳新様 | |
同断 | 服部清様 | |
同 | 吉沢肇様 | |
社寺誠補 捕亡 | 吉沢寛治様 | |
捕亡 | 磯野市兵衛様 | |
同断 | 松田岩治様 | |
草庵 筆生 | 滝波極様 | |
同開門 | 森三郎兵衛様 | |
同新所 | 中邨孫平様 | |
同断 | 小野量様 | |
同断 | 栗原武助様 | |
帰臣 戸籍 | 角田使斉様 | |
笠間藩 士木誠 | 横川佐一郎様 | |
同断 | 宇賀小足様 | |
仕丁 高十三石 | ||
草莽 会計出納 | 小川芳蔵様 | |
同断 | 三ッ橋三蔵様 | |
同訴所 | 池田団治郎様 | |
帰臣 租税 | 中邨岩治郎様 | |
同訴所 | 佐々木勇也様 | |
同捕亡 | 木村喜太郎様 | |
同捕亡 | 飯泉誠一郎様 | |
帰臣 租税 | 田村孫四郎様 | |
明治三庚午年 | ||
六月改之 | ||
同四年 | ||
未 正月写之者也、 |
この名簿をみると、宮谷県の職員は柴山文平を入れて六十六名であったことがわかる。
なお、この名簿を活用するために更に検討が必要とされる。一例をあげるならば、井桁三郎著『巨星 春峰 板倉中小伝』の中に、明治三年板倉中が少年時代大網町に移住し宮谷県の給仕になり、当県庁の書記官藤井氏に望まれて養子になったことが記され、藤井氏が土佐の出身であることが記されている。当時宮谷県の職員で土佐の出身者は小参事中山勝だけであり、またこの名簿中に藤井姓の職員はいない。したがって記述上のつけおちがある場合も考えられるので更に検討が必要である。しかし他に同類のものがないので、多少の参考になるかとも考えここに引用した。
なお柴山典のことに関しては、昭和十三年に筑後史談会が刊行した『西海忠士小伝』の中に「柴山富典、通称文平、後ニ典ト改ム屛山ト号ス……(下略)」とかなりくわしく記され、「本伝」も作られたが、現在は所在不明になっている、とのことである。
宮谷県は千葉・茨城にまたがる広大な管轄地を支配するため、太政官の弁官宛に、その不便を訴え、県庁を佐原へ移転希望の伺いを出している。
史料 『茨城県史料』維新編
公文録 各県之部 宮谷県
(四十三)
当県支配所ノ儀、上総下総常陸三箇国ニ跨リ、常陸国河内、行方、鹿島三郡村々迄ハ本県庁ヨリ道法廿里、或ハ廿四五里モ有之、掛隔ノ地ニ付出張所取建諸事取扱不申候テハ、博奕ハ勿論附火盗賊其他悪党共立廻リ候テモ、遠路注進可行届様無之、隔遠ノ処ヨリ兼々下民ノ苦情不少、専取締向行届不申候ニ付、昨巳年中河内郡龍ケ崎町ヘ仮出張所相設候処、同所ニテハ余リ片寄リ、鹿島行方郡ノ方手遠相成不弁利ニ付、当春地理中央ヲ見立下総国香取郡津ノ宮村ヘ引移候ヘトモ、是又不都合ニ付当時香取山中寺院借受仮出張、諸向取扱罷在候得トモ、近傍人家モ無之処ヨリ、村々休泊ニモ差支候程ニ有之、猶又転庁致候外無之処、何分ニモ相応ノ場所無之当惑仕候、然ル処佐倉藩支配同郡佐原村ノ儀ハ、当藩支配所諸郡村々東京其外諸方ヘノ往還ニ有之、別テ船便自在ノ場所柄、利根川附第一ノ商法ノ地ニテ、同所ヘ出張庁相設候ハヽ取締向ハ勿論、村方金穀ニ相掛リ候儀等諸事便利ニ相違無之、年来ノ見込ニ有之、且佐倉藩ヨリハ掛隔リ候壱箇村飛地ニテ、幸ヒ右藩陣屋等モ無之ニ付、村替被仰付候テモ同藩ノ故障モ有之間敷候間、当支配ニ御組入相成度奉存候、且又右佐原村ニハ前後左右トモ当県支配所ニテ、只壱箇村他ノ支配相挾リ候ニ付、何角ニ付村々差支多ク取締筋モ自他区々相成、取扱方差支候ノミナラス、諸郡村々貢米ノ儀、是非トモ佐原村ヘ津出不致候テハ、運送不相成候処、他支配ノ訳ニテ毎度勝手ノ取計等被致、及難渋候儀儘有之候得共、支配違故手込ノ取締致候儀モ不相成、上下ノ差支此上モ無之候間、前文通当支配ヘ組入出張所相立候ヘは、彼是ノ患モ無之貢米廻漕取締モ相届万端都合宜ク、村々ニテモ安堵可仕候、尤モ佐原村ノ内葛飾県支配モ有之候得共、利根川ヲ隔テ新田ノミニ御座候間、右村高取調書、且最寄当県支配所村々略絵図相添此段奉願候也、
庚午(明治三年)十一月
宮谷県
弁官御伝達所
(絵図幷指令共闕)
これは宮谷県庁の出張所をそれまで度々移転させたがうまくいかず、佐倉藩領の飛地となっている佐原村に移転させたいということを、宮谷県が新政府に申し出ている文書である。以上にみられるように、県庁の所在地である大網から遠い距離にあり、行政と治安維持を目的とした当時の県庁の仕事からみれば、大変なことはたしかであった。しかし中央の政府からみれば藩の領地を勝手にとりあげれば面倒がおこることは十分推察できる。そこで弁官伝達所は宮谷県のこの申請に対し許可を与えず、当年十二月に、別に適切な土地をさがすようにとの指令を与えた。
明治四年(一八七一)七月十四日廃藩置県が実施され、明治初年以来存続していた前時代の名残りである藩も、「とのさま」といわれた支配者も姿を消して、府県に改められた中央政府から任命された知事が県政を担当するようになった。
宮谷県では、これに先立って同年五月十四日権知事柴山典が、ついで知事に任命され、その後七月二十五日宮谷県知事の職を去った。代って岩鼻(いわはな)県(現・群馬県)の大参事であった柴原和が宮谷県権知事に任命され赴任してきた。柴原和は播州・竜野藩の出身で、明治四年七月廿七日宮谷権知事となりその後木更津県権令・兼印旛県権令、千葉県権令、ついで千葉県令として県政上にすぐれた業績をのこしている。その経歴はいろいろと誤りもあるので、山形県庁所蔵の柴原和の履歴書を次に史料として掲載しておく(筑波大学教授渡辺一郎氏提供)。
位勲爵 博士 | 氏 名 | 柴原和 | |||
府県族籍 | 兵庫県士族 | 旧 藩 | 龍野 | 旧氏名 | 順次 |
生年月日 | 天保三年二月七日 | 出生地 | 播磨国揖西郡龍野霞城町ニ於テ | ||
原 籍 | |||||
現住所 | |||||
年 号 | 月 日 | 任 免 賞 罰 事 故 | 官 衙 | ||
明治二年 | 十月十三日 | 待詔下院出仕被仰付候事 | 太政官 | ||
十月十七日 | 藩制改革取調係被仰付候事 | 仝 | |||
十一月廿四日 | 任甲府県大参事 | 仝 | |||
四年 | 五月 八日 | 任岩鼻県大参事 | 仝 | ||
七月廿七日 | 任宮谷県権知事 | 仝 | |||
仝 日 | 叙正六位 | 仝 | |||
十一月十三日 | 廃宮谷県合木更津県 | ||||
仝 日 | 任木更津県権令 | 仝 | |||
六年 | 二月 七日 | 兼任印旛県権令 | 仝 | ||
六月十五日 | 廃印旛木更津両県置千葉県 | ||||
仝 日 | 任千葉県権令 | 仝 | |||
六月廿九日 | 任千葉県令 | 仝 | |||
十一月十五日 | 叙従五位 | 仝 | |||
八年 | 三月 四日 | 玉前神社御霊遷御祭典ニ付参向被仰付候事 | 仝 | ||
六月廿一日 | 地方官会議幹事被仰付候事 | 仝 | |||
七月十八日 | 御用有之滞京被仰付候事 | 仝 | |||
七月 卅日 | 御用有之滞京被仰付置候処、地方事務差閊候義可有之ニ付滞京被免候事 | 仝 | |||
八月 四日 | 地方官会議幹事被免候事 | 仝 | |||
十一年 | 五月 廿日 | 多年奉職格別勉励候ニ付 | |||
自今月俸金五拾円増給候事 | 仝 | ||||
十三年 | 三月 八日 | 任議官 | 仝 | ||
年俸三千五百円下賜候事 | |||||
三月十三日 | 千葉県奉職中ノ事務引継トシテ仝県出張被仰付候事 | 仝 | |||
三月 廿日 | 帰京 | ||||
五月廿四日 | 叙従四位 | 仝 | |||
十四年 | 八月 六日 | 千葉県令奉職中地租改正事務勉励候ニ付、為其賞別紙目録ノ通下賜候事 | 仝 | ||
目録 白縮緬三匹 | |||||
十五年 | 十二月廿九日 | 叙勲三等賜旭日中綬章 | 仝 | ||
十七年 | 七月十七日 | 自今年俸四千円下賜候事 | 仝 | ||
十八年 | 一月廿七日 | 高等法院陪席裁判官被仰付候事 | 仝 | ||
三月 二日 | 定議官々等 | ||||
仝 日 | 一等官相当年俸四千円下賜候事 | 仝 | |||
十月 一日 | 叙正四位 | 仝 | |||
十九年 | 三月廿九日 | 元老院議官々等年俸改正 | |||
三月 卅日 | 叙勅任官一等 | 内 閣 | |||
七月 廿日 | 任山形県知事 | 仝 | |||
叙勅任官二等 | |||||
賜下級俸 | |||||
廿二年 | 二月 四日 | 今般憲法発布並皇室典範御治定ニ付、奉告ノ為其県管内官国幣社、勅使トシテ参向被仰付 | 宮内省 | ||
十一月廿五日 | 明治二十二年八月三日勅令第百三号ノ旨ニ依リ大日本帝国憲法発布記念章ヲ授与ス | 賞勲局 | |||
十二月廿六日 | 任香川県知事 | 内 閣 | |||
叙勅任官二等 | |||||
賜下級俸 | |||||
廿四年 | 四月 八日 | 陞叙勅任一等 | 仝 | ||
四月 九日 | 非職被仰付 | 仝 | |||
廿五年 | 三月廿二日 | 叙従三位 | 宮内省 | ||
特旨ヲ以テ位一級被進 | 仝 | ||||
仝 日 | 依願免本官 諭旨 | 内 閣 |
この履歴書によれば、柴原和は天保三年(一八三二)二月七日生れであるので、宮谷県権知事として房総に赴任した明治四年には四十歳の若さであった。
宮谷県では当時の中央の方針に従い、従来村々に於て村治の中心となっていた名主・組頭・百姓惣代等の名称を廃し、五人組の制を新たに設け五戸に伍長、十戸に什長、三十戸に組頭、村に荘(庄)屋を設け村政を担当させた。
このことに関しては、当町柿餅の小川嘉治家の文書、『村庄屋心得條々』の中に次のようにみられる。
史料 『村庄屋心得條々』(抄出)
柿餅 小川嘉治家所蔵
一、庄屋役之儀ハ一村之長トシテ、百姓共エ伝達之事件ヲ始メ、平生諸世話駈引等其役務タリ、時ニヨリ村中之惣代ニ可相立事ニ付、謹而御仁政之御趣意ヲ奉リ可遂精勤事、
一、役威ニ傲リ尊大驕奢之職業堅ク誡之、村内百姓共申出ル義ヲ是非をもわかたす差押、情実ヲ上達せす、或ハ公事訴訟等ニ付賄賂ヲ請、依怙之取斗等致し間敷、方正廉直を旨とし條理明らかニ可取斗事、
(中略)
一、百姓離散せさるやう相心掛、貧窮之者あらば、難渋いまた行詰さる内、扶助の手立をなすべし、自然下々おゐて心に不任程の事ハ速ニ可申出、常々花(華)美の奢を警め、無益之費ヲ省き農業を勧め諸人成立之心遣可為肝要事、
(中略)
一、常に戸籍の取調怠たらす、村内ニ不審之もの留置へからす、
一、凶年飢歳の手当無怠可遂心配事、
右之通可相心得もの也、
明治二年己巳三月
これをみると当時の庄屋の任務が具体的に示されており、特に明治の初年から新政府が戸籍を重視していること、村を存立させていくために庄屋が心得ておくべきことなどがよくわかる。
また、このことに関して宮谷県役所が村々役人に宛て明治三年八月庄屋設置の指示として「村々之大小ニ不拘、一村ニ組頭之内壱人兼村庄屋と唱、一村之総括いたし、租税向正路ニ取揃期限不後様、屹度上納可致候、且是迄之名主之謂称ハ相廃し候事、」と通達を出している。
こうして明治維新以来の新しい制度がうち出されていくなかで、前述の如く廃藩置県が実施され、宮谷県は明治四年木更津県に統合され、柴原和がひきつづき木更津県権令に就任する。