柴原和は東京におもむき、十一月十五日以来新しく発足する木更津県の役人の任命や諸事務の処理を行ない、十二月十三日に東京を出発して木更津に赴任した。同十七日に県庁を上総国望陀郡貝淵村(現木更津市)に仮設し、旧桜井県庁跡を仮庁舎とした。後に明治五年六月木更津県庁庁舎新築のことを中央に要請するが、経費がかかるという理由で許可されなかった。
こうして、房総と常陸の一部は、図1にみられるように、木更津県・印旛県・新治県の三県が設置されたのである。
図1 木更津,印旛,新治三県位置図
(『千葉県教育史』)
この図をみるとそれまで、宮谷県ほか管轄下にあった香取・海上・匝瑳の三郡は土浦に県庁をおいた新治(にいはり)県の管轄に編入されていたことがわかる。
また、府・藩・県三治制の下での藩領がどのように新しい県に編入されていったかということは、次に示した表2「藩・県の編成」に見られるとおりである。
表2 房総における藩県の変遷(『千葉県史明治編』)
しかし、木更津県が設置されたからといって、直ちに新しい県名を用いて、村々にいろいろな通達を出したわけではなかったようである。当町柿餅の小川嘉治家の「明治五壬申年御達書―正月ヨリ四月迄之写」をみると次のような、経過をたどっている。
史料 柿餅 小川嘉治家所蔵
①先般其区内大網神社、郷社ニ相定置候処、明細執調之儀其筋より御達ニ相成候条、依之更ニ御沙汰有之候迄、郷社之名義暫ク相止候、尚申付置祠官、祠掌之義者、元神官之名目ヲ以神勤為致候間、此段可相心得者也、
壬申(明治五年)正月廿三日
元
宮谷県
②其区内郡中惣代、戸長、副戸長、庄屋、組頭、什長、伍長、印鑑姓名之上江相押させ、触元村々ニ而取集、来ル十日迄ニ戸籍掛江屹度可差出者也
触元始
壬申二月四日 附属村々
元宮谷県 役人
③以廻状申達候
当正月中盗難有無届可差出段過日相達置候処、今以不差出村々も有之如何之事ニ候、未不差出村々早々執調、来月廿五日限り無遅滞可差出、右日限ニ不差出村々者(ハ)役人共厳重前置可申付者也。
木更津県庁(聴カ)訟課
申二月廿三日
(後文略ス)
こうしてみると、明治五年二月下旬には、木更津県として通達を出しているが、一月から二月はじめにかけての通達は元宮谷県として通達を出している。これは一般の人々に対し、いきなり木更津県として通達を出したのではわからないということへの配慮であろうか。こうした配慮らしきものは、同じ小川家文書中に次のようにみられる。
史料 柿餅 小川嘉治家所蔵
今般山辺郡大網駅、元宮谷県江出張所相設(ヲキ)、武射・山辺両郡一円幷長柄郡之内七十二ケ村之事務為取扱、称呼之義大網出張ト(所・脱カ)相唱候、此旨為心得相達候事、
申ノ三月七日 木更津県
長柄郡之内
(以下に順達回覧すべき長柄郡中七十二か村名略す)
やがて、廻状の文面にはっきりと宮谷県を改めて木更津県と出てくる。
史料 (同前)
以回状得貴意候、然者去ル五日、元宮谷県管下郷村御引渡ニ付、管内人民惣代トして郡中惣代之内可罷出旨御申聞ニ付、四天木村斎藤四郎右衛門殿罷出候処、取締向猶又村々制札元宮谷県相改、木更津県と可致旨御申聞ニ付、雛形壱枚相添申候間、村々ニ而早々御改可被成候様仕度、此段及御通達ニ候、以上、
申 郡中惣代
三月十六日 三木平兵衛
前書之通り御座候間廻達仕候、其村々早々御改書替可被成候、尚廻状留村より御返却可被下候、以上、
北吉田村
申 庄屋
三月十七日 佐久間伊左衛門
前掲の『千葉県史料』中の「木更津県史」によれば、明治五年三月五日の条に「上総国山辺郡大網ニ出張所ヲ置キ、此日ヲ以テ開庁ス、大網ハ旧宮谷県ノ治所ニ接シ、本日廃県ノ事務ヲ交収スルニ依テ、更ニ一衙ヲ設ケ大網出張所ト称ス」と記され、更ニ同年七月朔日の条に「大網・大多喜・北条の三出張所を廃し、取締所幷に分局を大網・松尾・勝浦・一宮本郷・北条・横渚(よこすか)(鴨川市)に設け大属以下を派駐し、専ら人民保護匪徒収捕の事を掌り、其の地方の訴訟を裁判せしむ」とあり、同年八月には木更津裁判所が設置されて、従来県庁の聴訟課が担当していたしごとが、裁判所へ移管された。十月には北条(現・館山市)・大網・勝浦(現・勝浦市)に裁判所支庁が設置された。なお明治六年一月大網取締所は現在の成東町に移された。
柴原和の県政のユニークな面を示したものとしては、明治五年七月に県下を九区に分け、一区から二名の代議人を選出させ、現在の県議会の前身ともみるべきものを設けたことである。これは明治六年三月七日に第一回の会議が開催された。
また房総では堕胎・洗児の悪習があり、これを歎いた柴原和は県の指導で、悪習をやめさせようと尽力した。
柴原和が当時の悪習とも見なした堕胎・洗児の風習を県の指示でやめるようにしむけたことは、彼の県政上の大きな理想の一つであった。ところが多くの親は生まれた子を殺すようなことを決して望んでいたわけではなく、生活の問題からこうした事態が存在したものであったろう。事情は全く別であるが、柴原和は宮谷県権知事として大網に赴任して来たとき、ここで出生間もない(九か月の)自分の娘を失っている。その墓所は当町新宿の稲荷神社参道の中腹(東金線の線路際)にある。可愛い子を失った親の悲しみの理解が、こうした施策の根底の一つに存在したのではないかと考えられる。
写真 柴原千代野墓
こうして、当時としてはかなり斬新な理想的ともいえる県政を推進させているなかで、明治六年(一八七三)六月十五日、柴原和が権令を兼任していた印旛県と木更津県が合併し、ここに千葉県が誕生した。同年七月二日事務引継が終了し、県庁は千葉郡千葉町に開設された。当初、千葉神社神官千葉良胤の居宅を庁舎にあて執務したが、明治七年火災により焼失、仮に来迎(らいごう)寺に移転、同年九月に新庁舎が完成して九月三十日に開庁式を挙行した。
千葉県の管轄は安房・上総と下総のうち印旛・千葉・埴生・葛飾・結城・岡田・豊田・猿島・相馬の九郡で面積は四、六二六平方キロ、郡数は二十二、村数は二、六四〇、町数一四五、人口は約百三万八千人ほどであった。
この時点でも銚子を含む海上郡・香取郡・匝瑳郡は新治県の管轄のままであった。この後明治八年五月七日、新治県の廃止に伴い右の三郡は千葉県に入り、同時に千葉県管轄の下総国猿島・結城・岡田・豊田の四郡および葛飾郡の一部、相馬郡の一部が茨城県管轄替えとなった。これよりさき葛飾郡の一部は埼玉県へ編入され、この時点で今日われわれが千葉県としてみている房総半島イコール千葉県という県域が確定した。