明治維新は、一般的には尾佐竹猛・藤井甚太郎などが述べているペリー来航の嘉永六年(一八五三)から明治十八年(一八八五)前後までを含むという考え方が多い。これは明治維新を単なる倒幕による政権交代という視点からみるものではなく、「維新」という歴史事象を変化のプロセスからみていこうという考え方に立っているものである。したがってこの中に「前期の時代」(初期)「後期の時代」(末期)を包含し、グローバルな視点から明治維新をみていこうというものである。
この一連の過程の中に新政府が目指したところの「文明開化」・「富国強兵」・「殖産興業」などの諸施策が含まれているのであるが、なかでもこうした施策を現実のものにするためには「教育」による「民度の向上」が重要であることはいうまでもなかった。
したがって、明治五年(一八七二)八月二日太政官第二百十四号として出された「学制の布告」(前文)に、目的がよくあらわれているので次にその一部を引用する。
史料
学制布告(前文)
太政官第二百十四号
人々自ら其身を立て、其産を治めて其業を昌(さかん)にして以て其生を遂(とぐ)るゆゑんのものは、他なし身を脩(おさ)めて智を開き才芸を長ずるによるなり、而て其身を脩め知を開き、才芸を長ずるは学にあらざれば能はず、是れ学校の設あるゆゑんにして、日用常行言語書算を初め、士官農商百工技芸及法律政治天文医療等に至る迄、凡人の営むところの事学あらざるはなし、人能く其才あるところに応じ、勉励して之に従事し、しかして後初めて生を治め、産を興し業を昌にするを得べし、されば学問は身を立るの財本ともいうべきものにして、人たるもの誰か学ばずして可ならんや、
(中略)
従来学校の設ありてより年を歴ること久しいといへども、或は其道を得ざるよりして、人其方向を誤り、学問は士人以上の事とし、農工商及婦女子に至っては之を度外におき、学問の何物たるを弁(べん)ぜず、又士人以上の稀に学ぶものも、動(やや)もすれば国家の為にすと唱へ、身を立るの基たるを知らずして、或は詞章記誦の末に趨(はし)り、空理虚談の途に陥り、其論高尚に似たりといへとも、之を身に行い、事に施(ほどこ)すこと能(あたは)ざるもの少からず、
(中略)
今般文部省に於て学制を定め、追々教則をも改正し、布告に及ぶべきにつき、自今以後一般の人民、華士族農工商及婦女子、必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す、人の父兄たるもの宜しく此意を体認し、其愛育の情を厚くし、其子弟をして必ず学に従事せしめざるべからざるなり、(高上の学に至りては、其人の材能に任かすといへとも、幼童の子弟は男女の別なく小学に従事せしめざるものは、其父兄の越度たるべき事)
(中略)
右之通被仰出候条、地方官ニ於テ辺隅小民ニ至ル迄、不洩様便宜解釈ヲ加ヘ精細申諭、文部省規則ニ随ヒ、学問普及致候様、方法ヲ設可施行事、
明治五年壬申七月
太政官
以下は省略したが、「学制」として文部省布達第十三号別冊、全百九章からなる大部のものである。
この布告に示されているように、この学制は明治新政府が教育の機会均等を図り、従来一部特定階級のものであった教育を、大衆全体に普遍化すると同時に、その体系を整える必要から内外の教育制度の調査を実施し、集大成したものである。一般的に、学制の大綱はフランスの制度を範例とし、学科の分類は欧米のものを参考としたといわれている。
『文部省第一年報』の千葉県のところをみると、次のようなことが記されている。
史料
文部省第一年報(明治六年版)
千葉県
学区
明治六年六月印旛、木更津ノ二県ヲ廃シテ本県ヲ置ク、人口百三万七千五百三十七、之ヲ八中学区 従第二十至第二十七ニ分チ、第二十中学区ヲ二百六小学区ニ、第二十一中学区ヲ百六十八小学区ニ、第二十二中学区ヲ二百四十二小学区ニ、第二十三中学区ヲ二百四十二小学区ニ、第二十四中学区ヲ二百十三小学区ニ、第二十五中学区ヲ百四十九小学区ニ、第二十六中学区ヲ三百十五小学区ニ、第二十七中学区ヲ百七十三小学区ニ分チ、共ニ千七百十八小学区トス、然リト雖モ、辺隅僻邑等里程ノ遠近其当ヲ得ス、子女ノ通学便ナラサルモノアルヲ以テ、他日実況ヲ巡検シ更ニ小学区分を改定スル所アラントス、
学校
現今既ニ設立スル所ノモノ中学一校、夜学一校、公立小学四百六校ニシテ、千葉小学校ノ如キハ各小区内ヨリ年令十八歳以上ニシテ、小学教員タルヘキ者三名ヲ選ヒ、自費或ハ其区ノ貸費ヲ以テ之ニ入学セシメ、小学ノ教則教授ノ方法及稍高尚ナル学科ヲ授ケ、凡六ケ月ヲ期シ其業ヲ卒ヘシメ小学訓導トナシ、之ヲシテ各小区ニ派出セシムルノ法ヲ設ルト雖モ、毎小学ニ被及スルハ数月ヲ経ルニ能ハサルヲ以テ、亦別ニ一法ヲ設ケ、毎中学本部ニ於テ已ニ設立セル小学校ニ教員ヲ出シ、凡十日ヲ期シテ近傍ノ小学校教員ヲ入校セシメ、教授ノ方法ヲ伝ヘ教則ノ改正ヲ図ラシメント欲スルノ企アリ……(以下略)
大網白里町は明治五年の学制では、木更津県管下第二十中学区に入っていたが、明治六年千葉県の成立で千葉県管下第二十三中学区(長柄・山辺・武射)に入っている。具体的な内容については次の項を参照されたい。
また、明治五年学制頒布以来、千葉県に統合されるまでの木更津県、印旛県の対応策をみると、柴原和が権令を兼務(印旛県)してもなおかつ、両県ではちがうところがある。
さらに当時房総にあった三県(木更津県・印旛県・新治県)の学制実施状況を対比してみても、いろいろな相違がみられる。その主たる理由は各県の実情によるものであろうが、たとえば私塾・寺子屋の例でみると木更津県は廃止の方向へ、印旛県は即時禁止、新治県は当分存続を認める方向へとすすんでいる。各項目に関しては、表3「明治五年八月から六年六月までの房総三県の教育状況概要」(『千葉県教育百年史』第一巻)に整理してある。
県 事項 | 木 更 津 県 | 印 旛 県 | 新 治 県 |
学制の趣旨説明 | 五年十一月戸長・副戸長あてに被仰出書や学制の趣旨を説明し学校設立を指示する。 | 五年九月管内一般に、学制の御趣意に基いて幼童教育を勧誘するよう通達する。 | 五年十一月学制の趣旨を体し子弟を就学させるよう、正・副戸長あてに通達を出す。 |
学校設立の計画 | 四中学区、八四〇小学区に区分、三~四小学区が連合して小学校を設立し計二七九小学校を設立する計画をたてた。 | 五年十一月、三中学区六三〇小学区に対し、六年一月に四中学区七八二小学区を設定、三~五、六小学区が合併して小学校を設立するように指示する。 | 管内を四中学区八一一小学区に分画し、その内二十カ所をえらんで小学校を設立、そこを中心に周辺に学校設立をひろげていく計画をたてる。 |
教則校則の制定 | 小学校則・小学規則を制定する。 | 印旛県管内小学教則、同小学校掟書を制定、 | ― |
教員養成 | ― | 葛飾郡流山村常与寺に「印旛官員共立学舎」を創立、教員養成をはかる。 | ― |
行政組織 | 県庁庶務課中に学務兼教務掛をおいて学務を担当させ、また明治五年十月には各中学区担当の学区取締十八名を配置した。 | 県庁庶務課で学務をあつかう、明治六年一月に十四名の学区取締を選任した。 | 県庁内に学務専任官を置く、明治六年当初四名の学区取締を撰任、後にさらに四名増員する。 |
私学に対する対策 | 明治五年八月年番戸長に命じて家塾調査、同年十月願出制とする。同六年三月開業を禁止した。 | 明治五年九月私塾・寺子屋等一切禁止を布達する。 | 家塾の存置を認め、教則は下等小学科をふまえるように指示した。 |
なお、当時の行政区分と学区の関係をみると、次の図2・3のようになる。
これをみると、中・小学区は原則的には、一般行政区画とは別の体系をとっている。しかしその編成の上では、『学制』(文部省布達第十三号別冊・明治五年八月三日)の第七章に「中学区以下の区分ハ、地方官其土地ノ広狭人口ノ疎密ヲ計リ、便宜ヲ以テ郡区村市等ニヨリ之ヲ区分スヘシ」とあることからもわかるように、両者は密接な関係をもつものであった。
学制施行当初(房総三県時代)から、千葉県がまとまるまでの学区の変遷をみると、次の表4のようになる。
明 治 6 年 | 明 治 6 年 7 月 | ||||||||
中学区番号 | 区 域 | 小学区数 | 中学区番号 | 区 域 | 小学区数 | ||||
木 更 津 県 | 17 | 上総国 | 望陀、周准 天羽 | 165 | 千 葉 県 | 20 | 安房、平、朝夷、長狭 | 206 | |
18 | 安房国 | 安房、平、朝夷、長狭 | 226 | 21 | 天羽、周准 望陀 | 168 | |||
19 | 上総国 | 夷隅、市原 埴生 | 226 | 22 | 夷隅、市原 埴生 | 242 | |||
20 | 上総国 | 長柄、山辺 武射 | 223 | 23 | 長柄、山辺 武射 | 242 | |||
印 旛 県 | 24 | 下総国 | 千葉、埴生 印旛 | 213 | 24 | 千葉、埴生 印旛 | 213 | ||
25 | 下総国 | 相馬、印旛 | 149 | 25 | 相馬、印旛 | 149 | |||
26 | 下総国 | 葛飾 | 247 | 26 | 葛飾 | 325 | |||
27 | 下総国 | 猿島、結城 | 173 | 27 | 猿島、結城 岡田、豊田 | 173 | |||
新 治 県 | 28 | 下総国 | 香取 | 新 治 県 | 28 | 香取 | |||
30 | 下総国 | 匝瑳、海上 | 30 | 匝瑳、海上 | |||||
31 | 下総国 | 香取 | 31 | 香取 | |||||
明 治 8 年 5 月 | 明 治 12 年 1 月 | ||||||||
千 葉 県 | 20 | 安房、平、朝夷、長狭 | 247 | 千 葉 県 | 20 | 安房、平、朝夷、長狭 | 247 | ||
21 | 天羽、周准 望陀 | 168 | 21 | 天羽、周准 望陀 | 168 | ||||
22 | 夷隅、市原 埴生 | 242 | 22 | 夷隅、長柄 上埴生 | |||||
23 | 長柄、山辺 武射 | 242 | 23 | 山辺、武射 | |||||
24 | 千葉、印旛 下埴生 | 214 | 24 | 千葉、市原 | |||||
25 | 葛飾、印旛 相馬 | 256 | 25 | 東葛飾 | |||||
26 | 香取 | 151 | 26 | 印旛、南相馬、下埴生 | |||||
27 | 匝瑳、海上 | 127 | 27 | 匝瑳、海上 香取 | |||||
『千葉県史料近代篇』明治初期二の中におさめられている木更津県関係「学校」の部をみると、当大網白里町を含む第一大学区・二十番中学区上総国長柄郡、山辺郡、武射郡は当時総計人員十五万二千九百三十三人で「此小学区二百二十三ニ分ツ」とあり、「但当分ノ内差向三小区ニ一校、又ハ四小区ニ一校ツヽ地理ノ便宜ニヨリ七十四小学ヲ設」と記され、現在の木更津市を中心に君津郡一帯で五十五校、安房郡で七十五校、夷隅・市原郡一帯で七十五校、当町を含む山武郡一帯で七十四校で、前表中にあるように二百七十九校になるわけである。なお学校設置の経費は、その土地に住む人々の負担としたが、これは住民の大きな負担になった。木更津県は文部省督学局へ「小学校設立之儀ニ付」と伺書を出している。その文中に「壬申十一月申上置候通、御規則ニ基キ当県管内ヘ四中学八百四十小学校建設可致旨、夫々説諭ヲ加ヘ候得共、元来僻陬ノ貧民今日之生計ニ困苦致シ居候仕合ニテ、一時ニ建設運ヒ兼候ニ付、先以テ中小学ノ区分ヲ立テ三小区、或ハ四小区合併ニテ、差向一校ツヽ相設漸ヲ逐ヒ御規則ノ数ニ充候様致度(以下略)」と当時の県の実情を述べ、文部省の承認を求めている。文中にある小学校八百四十校という数は、現在千葉県の人口約五百二十万でも公立小学校は約八百二十校であるので、推定人口約百万でこれだけの学校を設立することが、如何に実情に合わないものであったかがわかる。しかし、教育の重要性を認識してとにかく学校を設置しようと努力した先人の苦心は大いに評価しなければならないことである。