これは、「大網小学校沿革誌」に記された記述の一部である。このように当町には「学制頒布」以来、次第に学校が建設されていくが、これは経費の関係で一挙につくりあげるというわけにはいかなかったためである。
このあたりの具体的な内容について当時の「文部省第一年報」(明治六年)をみてみよう。この中の千葉県公立小学校表に次表5のようにあげられている。
名 称 | 地 名 | 設立年 | 新居 旧屋 | 公有 借用 | 教 員 | 生 徒 | 受業料 | 扶助金配付額 | ||
男 | 女 | 男 | 女 | |||||||
四天木学校 | 上総国山辺郡四天木村 | 明治六年 | 寺院 | 借用 | 一 | ― | 九二 | 二 | 有 | |
南今泉学校 | 同 南今泉村 | 同 七年 | 旧民家 | 同 | 一 | ― | 四五 | 三 | 有 | |
北今泉学校 | 同 北今泉村 | 同 七年 | 寺院 | 同 | 一 | ― | 五〇 | 二 | 有 | |
細草学校 | 同 細草村 | 同 七年 | 寺院 | 同 | 一 | ― | 五一 | ― | 有 | |
九十根学校 | 同 九十根村 | 同 七年 | 寺院 | 同 | 一 | ― | 四一 | 一 | 有 | |
清谷学校 | 同 清名幸谷村 | 同 六年 | 寺院 | 同 | 一 | ― | 三六 | 五 | 有 | |
南横川学校 | 同 南横川村 | 同 七年 | 旧民家 | 同 | 一 | ― | 四三 | 五 | 有 | |
大網学校 | 同 大網宿 | 同 七年 | 寺院 | 同 | 一 | ― | 九九 | 十一 | 無 | |
富田学校 | 同 富田村 | 同 七年 | 旧民家 | 同 | 一 | ― | 二〇 | ― | 有 | |
門谷学校 | 同 小中村 | 同 七年 | 寺院 | 同 | 一 | ― | 七六 | 二 | 無 | |
池田学校 | 同 池田村 | 同 七年 | 寺院 | 同 | 一 | ― | 三四 | 八 | 有 | |
養安学校 | 同 養安寺村 | 同 七年 | 寺院 | 同 | 一 | ― | 三四 | 四 | 有 | |
永田学校 | 同 永田村 | 同 七年 | 旧民家 | 同 | 一 | ― | 四〇 | 四 | 無 | |
柳橋学校 | 同 柳橋村 | 同 七年 | 寺院 | 同 | 一 | ― | 四一 | 有 |
名 称 | 学科 | 位 置 | 設 立 | 教員 | 生 徒 | 一月毎授業料 | 扶助金配当高 | 主 者 | ||||
男 | 女 | 男 | 女 | 円 | 銭厘 | 円 | 銭厘 | |||||
四天木 | 小学 | 上総国山辺郡四天木村 | 明治六年 | 一 | ― | 一〇二 | 五 | 四 | 〇八、〇 | 四 | 五三、八 | 赤坂鳳洲 |
南今泉 | 同 | 同 南今泉村 | 同 七年 | 一 | ― | 四〇 | 五 | 二 | 四〇、〇 | 四 | 五三、八 | 内山範平 |
北今泉 | 同 | 同 北今泉村 | 同 七年 | 一 | ― | 四四 | 二 | 二 | 四六、〇 | 四 | 五三、八 | 上代圭一郎 |
柳 橋 | 同 | 同 柳橋村 | 同 七年 | 一 | ― | 三五 | ― | 二 | 一〇、〇 | 四 | 五三、八 | 斎藤文六 |
九十根 | 同 | 同 九十根村 | 同 七年 | 一 | ― | 二九 | 一 | ― | 七五、〇 | 四 | 五三、八 | 行木岩吉 |
細 草 | 同 | 同 細草村 | 同 七年 | 二 | ― | 五六 | ― | 一 | 六八、〇 | 四 | 五三、八 | 戸田貞照 |
門 谷 | 同 | 同 小中村 | 同 七年 | 一 | ― | 五七 | 二 | ― | ― | 四 | 五三、八 | 黒沢周穏 |
上 谷 | 同 | 同 上谷村 | 同 七年 | 一 | ― | 六一 | 三 | 二 | 五〇、〇 | 四 | 五三、八 | 大野徳太郎 |
清 谷 | 同 | 同 清名幸谷村 | 同 六年 | 二 | ― | 五〇 | 四 | 二 | 四三、〇 | 四 | 五三、八 | 鵜沢七右衛門 |
南横川 | 同 | 同 南横川村 | 同 七年 | 一 | ― | 四四 | 五 | ― | ― | 四 | 五三、八 | 佐久間熊次郎 |
大網北 | 同 | 同 大網宿 | 同 七年 | 二 | ― | 四二 | 五 | ― | ― | 四 | 五三、八 | 今井勘左衛門 |
大網南 | 同 | 同 大網宿 | 同 七年 | 二 | ― | 四〇 | 一 | ― | ― | 四 | 五三、八 | 門倉郁郎 |
富 田 | 同 | 同 富田村 | 同 七年 | 一 | ― | 二二 | 二 | 一 | 二五、〇 | 四 | 五三、八 | 今井喜十郎 |
永 田 | 同 | 同 永田村 | 同 七年 | 二 | ― | 四〇 | 四 | 一 | 五〇、〇 | 四 | 五三、八 | 大村理之助 |
池 田 | 同 | 同 池田村 | 同 七年 | 一 | ― | 二〇 | ― | ― | ― | 四 | 五三、八 | 斎藤良恭 |
表5と表6は、木更津県から千葉県の発足当初の郷土における小学校の設置状況である。「学制頒布」から二~三年の間に小学校が各地に創設された様子がよくわかると同時に、前時代以来女子に対する教育の必要性の認識はかなり低かったことが、この二つの表からもわかる。生徒数の項をみると女子の就学率は男子のそれに比して一割そこそこというところであろう。
現在、町内各地の小学校にのこされている学校沿革誌(史)をみると、当時の学校の状況、地域(学区)の実態がよくわかる。
大網小学校の沿革誌は当初(大網南小と北小に分かれていた頃)大網南小は生徒数六十九名(男五十九名、女十名)、大網北小は生徒数二十九名(男二十三名、女六名)と記している。前掲の文部省年報よりも在籍数が多いことから、三~四年たってからの数字ではないかと思われる。年報に大網南小には男子教員二名があげられ、大網北小には男子教員二名と『文部省年報』にあるが、沿革誌には、大網南小学校に、句読兼習字教員斎藤土佐太、算術教員には積田英四郎、大網北小学校には句読兼習字教員今井勘左衛門(後に透と改名)、算術教員には積田英四郎兼任せりとある。合計三名で大網北小は主者(校長職カ)今井勘左衛門であるが、大網南小は門倉郁郎となっている。
また「増穂小学校沿革誌」上巻をみると前身の富田尋常小学校のスケッチ画が入っている(図4)。沿革誌によると富田小は、明治七年富田村、経田村、福田を学区と定め、同村今井喜十郎宅を仮校舎とし、同氏を授業生(教師)として学習を開始した。しかし今井氏が准訓導として南横川小学校へ転任してしまったため、今井氏宅を仮校舎としていた富田小はせっかくできて一年ほどで廃校となり、児童達は当時公然とは認められなかったお寺や個人の私塾に通うことになってしまった。
図4 富田尋常小学校全景
明治二十一年富田村、北横川村、福田を学区とし、福田寺を仮校舎とする戊子尋常小学校を開校した。当時の訓導は真行寺一蔵で児童数は三十一名と記されている。
明治二十五年教場がせまく、設備不足を案じた父母の協力により富田字仲谷に二二五円を以って二六・二五坪の校舎が建設され、富田尋常小学校として正式に発足した。完成と同時に戊子小学校は廃止された。
富田小学校をめぐる一連の問題は、現在ではとても考えられないことであるが、初期学制のころは、こうした思いがけない事態の発生により、教育活動が停滞することも決してめずらしいことではなかった。
また当時、そうした学校教育上の諸問題を指導監督する任務として設けられた職務に、学区取締というものがある。
明治六年七月県令柴原和より学区取締に任命されたのは県下で二十一名で、当町を含む山辺、武射、埴生(第二十三番中学区)の学区取締は鎌田治兵衛、太田資達、塚本正典の三名であった(『千葉県教育史』巻二・千葉県教育会編)。また「大網小学校沿革誌」によれば当町域を担当した学区取締は鎌田治兵衛で、学校には事務掛を置き大網南小学校では板倉官次郎、三木孫四郎、八木利左衛門、大網北小学校では岩佐太右衛門、武内治右衛門、竹内祐助がこれに当たったと記している。この事務掛は現在の小・中学校の事務職員とは異なり、学区取締の任務を助ける人びとであった。また学区取締は年中数回巡視(学校を)して、学童の就学状況や学校教育を督励してまわったと「同沿革誌」は記している。
さらにこの頃、私塾のようなものを設けて教授した三木ひでという人があり、国語家兼書を能くするとあり、他のひとりは大村蕉雨といっていつのころか記していないが、明治期に郡立工芸学校を設立した。しかしそれがうまくいかず廃校となり、さらに後年私立大網実業補修学校を設立し、爾来益々機運揚り、女子裁縫学校を付設するまでに至ったという。
なお明治のはじめ頃の学校がどのように運営されていたのか、当町域では大網南小と北小の記録がのこっているので、これを参考としてあげておくことにした(表7)。
校名 項目 | 大網南小学校 | 大網北小学校 | |
1 | 教員給料 | 円 114 | 円 78 |
2 | 旅 費 | 4 | 4 |
3 | 器械費 | 24 | 15 |
4 | 書籍費 | 10 | 10 |
5 | 修繕費 | 6 | 6 |
6 | 雑 費 | 3 | 4 |
7 | 合 計 | 円 161 | 円 117 |
わずか五十名に足らない学童のために年間これだけの経費を充当することは、国から援助されるわけではないので、地域によっては大変な負担であったことが推察される。
また当時生徒の進級は総て試験であった。それは、自分の学校で実施されるものもあり、或いは近隣数校が集まって実施するものもあった。「大網小学校沿革誌」によれば次のように記されている。
「生徒ノ学力ヲ試験スルニハ四隣小学校生徒ヲ本校ニ集合シ、ソノ成績ヲ検閲ス、本県ヨリ官吏派出シコレニ立合フ特ニ優等生ニハ本県ヨリ行賞アリタリ。」
これは現在でいえば学力の地域差が生じてはならないという行政面からの配慮と、併せて前時代の後半以来の試験至上主義が加わったものであろう。未発達の義務教育制度下で実施されたこの方式は、教授方式の一斉教授法と結びつき結構成果をあげたと評価してよいであろう。
したがって、当時もよい先生について指導を受けたいという親の願望は、強かったようである。
これは、かなり後のことでもあるが、「増穂小学校沿革誌」上巻の明治二十四年の項に「高安卯太郎訓導着任篤学博識の名声高く、明治二十五年には入学者激増するに至る。」と記されている。
高安卯太郎氏は、これまで度々史料として引用した「大網尋常小学校沿革誌」の実質上の著者であり、明治三十三年に同校に訓導兼校長として赴任して以来、在任中にこれをまとめたとされている。まさに後世にのこる仕事をしたわけであるが、そのような識見は、むしろ教師生活の中で特に指導面で発揮され、「増穂小学校沿革誌」に特記されるような父母の信任を得たものであろう。
こうして、明治五年の「被仰出書」にあるように、「必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す……。」という目的は次第に達成されていった。