(1) 町村制施行前後

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 明治六年六月十五日千葉県が発足し県内を十六大区に分けて(表8)、一大区中を三ないし七小区に分けた。一大区は戸数約一万、一小区は戸数千三百戸から七百戸で構成された。
 こうした町村行政上の区画は地方自治行政上の基礎でもあるため、明治維新以来いろいろと複雑に変化をしてきたが、ここでひとつのまとまった形をなした。これを「大小区制」といい、その概要は、次の表8に示したとおりである。
表8 明治六年の千葉県における大区小区
大 区同 上 扱 所郡     名小区数
第一大区安房郡、平郡一円
安房郡北条
安房郡 一小区ヨリ三小区マデ
平 郡 四小区ヨリ七小区マデ
七小区
第二大区朝夷郡、長狭郡一円
朝夷郡和田
朝夷郡 一小区ヨリ三小区マデ
長狭郡 四小区ヨリ七小区マデ
七小区
第三大区天羽郡、周准郡一円
天羽郡佐貫
天羽郡 一小区ヨリ三小区マデ
周准郡 四小区ヨリ六小区マデ
六小区
第四大区望陀郡一円
望陀郡木更津
望陀郡 一小区ヨリ六小区マデ 六小区
第五大区市原郡一円
市原郡鶴舞
市原郡 一小区ヨリ六小区マデ六小区
第六大区夷隅郡一円
夷隅郡勝浦
夷隅郡 一小区ヨリ五小区マデ五小区
第七大区埴生郡、長柄郡一円
長柄郡一宮本郷
埴生郡 一小区ヨリ二小区マデ
長柄郡 三小区ヨリ六小区マデ
六小区
第八大区山辺郡一円
山辺郡東金
山辺郡 一小区ヨリ四小区マデ四小区
第九大区武射郡一円
武射郡松尾
武射郡 一小区ヨリ三小区マデ三小区
第十大区印旛沼以東及埴生郡一円
印旛郡佐倉
印旛郡 一小区ヨリ四小区マデ
埴生郡 五小区ヨリ六小区マデ
六小区
第十一大区千葉郡一円
千葉郡千葉
千葉郡 一小区ヨリ五小区マデ五小区
第十二大区葛飾郡山崎駅以南
葛飾郡松戸
葛飾郡 一小区ヨリ六小区マデ六小区
第十三大区葛飾郡山崎駅以北
東葛飾郡花野井
葛飾郡 一小区ヨリ四小区マデ四小区
第十四大区印旛沼以西及相馬郡一円
相馬郡布佐
相馬郡 一小区
印旛郡 二小区ヨリ三小区マデ
相馬郡 四小区ヨリ七小区マデ
七小区
第十五大区猿島郡、結城郡一円
猿島郡境町
猿島郡 一小区ヨリ三小区マデ
結城郡 四小区ヨリ五小区マデ
五小区
第十六大区豊田郡、岡田郡一円
豊田郡石下
岡田郡 一小区ヨリ二小区マデ
豊田郡 三小区ヨリ五小区マデ
五小区
(『千葉県教育史』巻二)

 この後、明治八年(一八七五)五月新治県が廃止され、香取・海上・匝瑳の三郡が千葉県に編入され、葛飾郡・相馬郡・猿島郡・結城郡・岡田郡・豊田郡などが茨城県や埼玉県へとそれぞれ編入された。
 こうして、千葉県の範囲は現在の形に整えられた。明治九年六月千葉県は管内大小区扱所を表9のとおり定めた。
表9 千葉県管内大小区扱所位置町村表


大区
扱所
小   区   扱   所
一〇一一一二一三一四一五一六一七一八一九二〇


安房平安房
北条
安房
滝口

犬石

見物

館山楠見浦

南条

北条

竹原

千代

正木

船形

岡本

市部

平久里下

下佐久間

本郷
朝夷
長狭
朝夷
前原
朝夷
白浜

千田

北朝夷

瀬戸

沓見

石堂

中三原

西真門
長狭
代野

大幡

仲村

打墨

貝渚

横渚

東村

天 津








天羽
周准
天羽
佐貫
天羽
荻生

和合

岩本

大和田

佐貫

小久保
周准
富津

下飯野

中野

六手

平田

大井戸

南子安
望陀木更津貝淵木更津高柳中島奈良輪三ツ作伊豆島横田下郡末吉久留里大戸見
市原八幡姉崎白塚十五沢五井八幡菊間下野磯ケ谷馬立皆吉安久谷鶴舞古敷谷田淵
夷隅長者興津下植野新戸勝浦部原杉戸中野大戸大多喜増田大上桑田苅谷長志上布施小池中魚落郷若山長者
埴生
長柄
長生
茂原
埴生
佐坪

長南

上永吉

豊原
長柄
上市場

綱田

一宮本郷

高根本郷

一ツ松

千町村

茂原

鴇谷

国府里

本納

南吉田

古所
山辺
武射
東金山武
土気

大網

田中

東金

滝沢

二又

広瀬

上貝塚

南今泉

不動堂

片貝

小関

中村
武射
山武
武射
埴谷

柴山

大里

成東

上横地

松ケ谷

蓮沼

借毛本郷

松尾

横芝

新堀








一〇印旛
埴生
印旛
佐倉
印旛
岩富町

大篠塚

臼井田町

上高野

飯重

岩名

鏑木

佐倉本町

酒々井町

高松

大袋
埴生
成田

小菅

荒海

酒直

北辺田
一一千葉
葛飾
千葉
寒川
千葉
曽我野

有吉

川井

辺田

千葉

作草部

検見川

馬加

久々田

大和田新田

行々林
葛飾
上山新田

船橋五日市

船橋九日市

二俣

八幡町

真間

本行徳

湊村

堀江
一二葛飾松戸大町
新田
松戸馬橋金ケ作名戸ケ谷流山桐ケ谷若柴下三ケ尾大殿井野田蕃昌新田木間ケ瀬関宿江戸町
一三印旛
相馬
葛飾
印旛
竹袋
印旛
白井
橋本
相馬
泉村

柴崎

新木
印旛
大森

松崎

萩原

小林
一四香取佐原滑川高岡神崎
本宿
武田伊能大戸八筋川佐原大根津ノ宮下小掘
一五香取多古篠本南中村本三倉東松崎大寺志高白井小見川五郷内万歳石出
(『千葉県教育史』巻二)

 当町柿餅の小川嘉治家所蔵の大区・小区取扱所規則をみると、当時の大区小区制のもとでどのような行政事務が実施されていたかがわかるので、次に引用する。
 
 史料                柿餅  小川嘉治家所蔵
   大区扱所規則
    第一章 区長職之大要
 第一条大区内之事務ヲ担任シ、毎小区戸長以下ヲシテ各自其職ヲ尽サシム、
 第二条官省ノ命令ヲ遵奉シ、県庁ノ達旨ヲ要ス、
 第三条其事務ヲ奉行スルヤ大区内ノ安寧保護ニ□(着カ)目シ、民費ノ奨励タル人知ノ開明タル、其他公益其利之事ニ宜シク注意スヘシ、
 第四条区長ハ主任、副戸長ハ参判スルモノトス、若シ区長闕席スルトキハ副戸長一切之事務ヲ理スヘシ、
 第五条正副戸長ノ進達ハ県庁ニ於テ命スルモノト雖モ、コレヲ黜陟スヘキハ其要旨ヲ具状シテ乞フ権ヲ有ス、
    第二章 区長事務ノ概目
 第一条布令下達ノ公文ヲ各小区へ普及シ、又各小区上進ノ文書ヲ計正シ進達スル事、
 第二条官省ノ命令県庁ノ達旨等ニ依リ、進達ノ文書ハ区長ニ於テ調整、又ハ取纒ムヘキ事務期ヲ愆ル可カラサル事、
 第三条一村一町駅ノ事ニ総関スル条件、又ハ成規アツテ区長ノ保証ヲ要スヘキモノニハ必ス連署スル事、
但人民一身上通常願届等之書ハ、正副戸長ノ内一人連署スルモノトス、
     (中略)
    第三章 大区扱所雑則
 第一条正副区長ハ扱所へ日勤スヘキ事、又各小区ヨリ副戸長名宛交番日勤セシムヘシ、事務繁劇ノ節ハ此限ニ非ラル事、
但一六ノ日休暇ハ県庁ニ同シ、本条ノ日勤ノ副戸長ハ一月、又ハ半月宛ノ交替トスヘシ、尤管掌事務之便宜ニ依リ区長ニ於テ、延縮スル妨ケナシトス、
 第二条出勤簿ヲ製置シ各署名ノ部捺印シ、毎月之ヲ県庁へ差出シ、戸籍掛之検査印ヲ受クヘキ事、
     (中略)
 第六条正副戸長ハ伺ヲ経サレハ、出県スル事ヲ得サル事、
但非常急変ノ事ヲ報告ノ為出県スルハ此限ニ非ラス、
 第七条大区ヨリ正副戸長ニ非ラスシテ御用出県スルトキハ、各小区ノ正副戸長ヲ交番出県セシムヘキ事、
 第八条扱所破損営繕ハ金高五円以下ナレハ直ニ施行シ、消費ハ仕訳明細帳ニ記シ置キ、追而県庁戸籍掛ノ検査印ヲ受クヘキ事、
   小区扱所規則
    第一章 戸長職之大要
 第一条区内人民ノ戸籍職分ヲ明ニシ、上申下達一切ノ文書ヲ修正スル事、
 第二条正租雑税ヲ収納シ、地券反歩ヲ正クスル事ヲ注意スル事、
 第三条区内一歳経費ノ計算ヲ明ニシ、民費一切ノ金員ヲ出納スル事、
 第四条戸長ハ主任タレハ小区長ノ事務ヲ担当ス、副戸長参判スルモノト雖モ、其置員ノ多数ナルヲ以テ、戸籍、租税、出納等ノ事務ヲ分掌シテ其責ニ任ス、若シ戸長闕席スルトキハ、上席ノ副戸長一切其共事務ヲ代理ス、
 第五条用掛ハ人民公同ノ選ヲ以テ、区長之ヲ定ムルモノナレトモ、其能否ヲ具状スルハ戸長ノ任トス、
    第二章 戸長事務之概目
 第一条官省之布令県庁之布達ヲ区内村町駅へ配達シ、其旨趣ヲ遍ク人民ニ暁知セシムル事、
 第二条区内人民ノ請願伺届等ノ文書ニ、正副区長之内壱人連署スル事、
但、一村一町駅ノ事ニ関スルノ条件幷成規アツテ区長ノ保証ヲ要スヘキモノハ、区長ノ連署ヲ竢テ進達スベシ、
 第三条区内土地人民ニ関スル一切ノ図籍ハ、扱所へ領置シ整頓保存スル事、
但人民一身上ノ事ニ付、私有スヘキモノハ此限ニ非ラス、
 第四条区内人民ノ生死出入等之加除ヲ詳細登記シ、牛馬ノ数ヲ計算シ、移住ノ者ヘハ送籍状ヲ与へ、寄留ノ者ヘハ簿録スル等成規ニ照シ取扱事、
     (中略)
    第四章 用掛ノ主務
 第一条用掛ハ一村一町駅ノ用ニ供給スルモノトス、故ニ其村町駅之事ニ総関スルトキハ、其一村町駅ノ代人タルノ権ヲ有ス、
 第二条人民ノ保証タル名儀ヲ有セシメ、以テ喚問ニ応シ、及ヒ拘引セラルル人民ニ差添、又ハ死傷人難破船等検視ノ類ニ立会スルノ務ニ任ス、
 第三条人民ニ差添人タルノ節カ、又ハ検視立会等之時ノミ、上陳申告ノ文書ニ連署スルノ権ヲ有スルモノトス、
  右之通仮定候事、
   明治七年九月一日

 

写真 副戸長辞令
(清名幸谷 石橋洪家所蔵)
 
 明治六年七月、大区小区制のもとでは小区に区長・町村には正、副戸長がおかれ、それぞれの仕事も規程されるが、同年八月大区に正、副区長、小区に正、副戸長、町村に用掛を置き各々行政事務を担当させた。小川嘉治家所蔵の大・小区扱所規則は、この時点におけるそれぞれの職務を定めたものである。
 明治十一年七月前述の大小区制も廃止され、郡区町村編成法が施行された。この要点は次のようなものである。
 
    郡区町村編成法                     明治11年7月22日
 第一条地方ヲ画シテ府県ノ下郡区町村トス、
 第二条郡町村ノ区域名称ハ総テ旧ニ依ル、
 第三条郡ノ区域広濶ニ過ギ、施政ニ不便ナル者ハ一郡ヲ画シテ数郡トス、(東西南北上中下某郡ト云ガ如シ)
 第四条
 第五条毎郡ニ郡長各一員ヲ置キ、毎区ニ区長各一員ヲ置クコトヲ得、
 第六条毎町村ニ戸長各一員ヲ置キ、又数町村ニ一員ヲ置クコトヲ得、

 こうした「郡区町村編成法」にもとづいて千葉県も次のような郡の区分が実施された(表10)。
 
表10 郡区町村編成法による県内の郡の区分
郡 治 分 画郡 役 所 位 置
下総国  千葉郡千葉市原 郡役所千葉郡 千葉町
上総国  市原郡
下総国  東葛飾郡東葛飾 郡役所東葛飾郡 松戸駅
下総国  南相馬郡南相馬
印 旛 郡役所
埴 生
印旛郡 佐倉町
同    国  印旛郡
同    国  埴生郡
上総国  埴生郡埴生 長柄 郡役所長柄郡 茂原町
同    国  長柄郡
上総国  山辺郡山辺 武射 郡役所山辺郡 東金町
同    国  武射郡
下総国  香取郡香取 郡役所香取郡 佐原村
下総国  匝瑳郡匝瑳 海上 郡役所海上郡 銚子
同    国  海上郡
上総国  望陀郡望陀
周准 郡役所
天羽
望陀郡 木更津村
同    国  周准郡
同    国  天羽郡
上総国  夷隅郡夷隅 郡役所夷隅郡 大多喜町
安房国  安房郡安房
  平  郡役所
朝夷
長狭
安房郡 北条村
同    国  平 郡
同    国  朝夷郡
同    国  長狭郡

 この表でわかるように、当時県内に二十一郡があったが、郡役所は一郡一郡役所もあるが、二~三郡をまとめて一郡役所が管轄している場合もあるため、郡役所は十郡役所が設置された。
 また「郡区町村編成法」は大区小区制の複雑さや重複をとり除き、郡役所や郡長の責任を重くし、町村行政の指導的位置におくとともに、「府県会規則」、「地方税規則」とを総称して三新法体制といわれている。この後明治十三年(一八八〇)に「区町村会法」が施行され、当時のわが国の地方自治制度は、ある程度のまとまりをみたといってよいであろう。
 この制度はさらに手なおしを加えられて、明治十七年、明治二十二年と私たちの住む地域は合併したり分離したりして、次第に今日の当町の姿に近づくものになっていった。この変化の過程は次に示した表11のとおりである。
 
表11 三新法体制下以降の当町域旧町村の変遷(印は現在東金市)
郡役所村 名管  轄  区  域戸長役場
所在地
成立年区域の改編備 考





 


大和村田中・山口連合戸長役場
  田中
明治11・12明治17年8月五ヶ村連合戸長役場を田中に設置明治22年大和村となる
福俵戸長役場 同
養安寺・小西連合戸長役場 同
瑞穂村永田・駒込・経田連合戸長役場
  永田
明治11・12明治17年七ヵ村連合して戸長役場を永田に設置明治22年4月瑞穂村となる
小中・萱野・砂田・神房連合戸長役場
  門谷
 同
大網町大網・仏島戸長役場明治11・12明治17年餅木、大竹を編入明治22年4月仏島村を合併
山辺村
(金谷郷村)
金谷・小沼・長谷・名・真行・餅木・大竹・池田・南玉連合戸長役場明治11・12明治17年餅木、大竹、池田、南玉を分離明治22年金谷郷村に餅木、大竹、池田、南玉各村が合併して山辺村
増穂村南飯塚・木崎・柳橋・柿餅連合戸長役場明治12・1明治17年8月上記十一ヵ村合併して戸長役場を設置明治22年3月増穂村となる
上貝塚・清名幸谷・上谷新田連合戸長役場 同
南横川・富田・星谷・北横川連合戸長役場 同
福岡村上谷・下谷・北吉田・砂古瀬・九十根・下ケ傍示・小沼田・西中・桂山・長国上谷・一ノ袋九十根
連合戸長役場
明治11・明治17年合併して下谷に戸長役場設置明治22年福岡村となる
白里村四天木・南今泉・北今泉・細草明治22年四ヶ村を合併して白里村となる

 この変遷の経過をみると明治十一年当時はまだ地域が細かく区分されて村が成立しているが、七か村合併とか十一か村合併という事項が明治十七年にみうけられる。これは連合戸長役場制がおしすすめられた結果であるが、さらに明治二十一年四月「市制町村制」が公布された結果、前述の連合戸長役場は廃止され、新しい町村が発足する。
 新町村には町村長が最高責任者として選ばれ、従来仮庁舎が多かった町村役場も、村や町を代表する公的な場所として新築されるものもあった。
 当時の政府は、こうして地方の行政組織を次第にととのえていく一方で、郡や県をその上部機関に位置づけて体系化していく方針を推進させた。そのあらわれとして明治二十三年五月に府県制・郡制が公布され、千葉県では明治二十九年三月に郡の統廃合が実施された。当町域の例でみると、それまで山辺、武射郡役所であったものが、その区域を山武郡と改称した例などがあげられる。
 当時の郡役所は郡長が任命され、郡会議員が選ばれ、郡内の教育、産業、交通、管内町村行政の指導や統轄などのしごとをした。したがって、本県の場合は明治三十年四月から自治体としての郡制が発足し、これは大正十二年郡制廃止までその機能を果していた。

写真 千葉県山武郡役所(『山武郡郷土誌』)