五 自由民権運動

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 明治維新以来新政府のとった政策に対し、旧武士階級の武力による反発は、明治十年の西南の役を最後に一応の終末をみた。このことは軍隊を保有する近代国家としての当時の明治政府を、もはや武力を用いて打倒することは不可能であることを世の中の人びとに知らしめたことをも意味しよう。しかし当時の人びとが、不満をもたなくなったということではない。富国強兵をスローガンとする当時の政府が、国民にかなりの無理を強いていたことは否定できなかった。
 特に、地租改正を通じて農村には不満が多かった。明治維新で幕府が倒れて、これから自分たちも楽な生活ができると信じていた。ところが、あまり前時代とは変わらない現実に失望した。そして彼らは自分たちの手で、自分たちの希望を実現させる活動をしていくという目的で、いわゆる言論を中心とした政治結社を作っていった。やや雑なまとめかたではあるが、これが明治十年以降活発化する「自由民権運動」といわれるものである。
 庶民による政治運動というと、現代的感覚では、貧しいもの、恵まれないものが中心という先入観があるが、「自由民権運動」はむしろ地方豪農層が先頭にたっており、ブルジョア民主主義運動などといわれてもいる。
 山辺郡二川村(現芝山町)出身の桜井静(しずか)は「三新法」(明治十一年)の下での「府県会」権限が狭小であることを主張し、明治十二年六月から国会開設を目指して、全国の府県会議員の結合協力を提唱した。それは「国会開設懇請協議案」と題され、一万部ほど印刷され全国の府県会議員に頒布された。これは、明治十二年十一月七日の愛国社第三回大会における国会開設請願の決議よりも約四か月も早く行なわれたもので、本県の民権運動の出発点とされている。
 桜井静の提案には岩手県・愛知県・茨城県・岡山県等の各地で賛意を表わす反応があり、桜井はこれに励まされ、同年十二月「国会開設認可懇請為、同議者同盟懇望案」、明治十三年一月にかけて「国会開設懇請協議ノ為メ出会規則」および「大日本国会法認可ノ為メ懇請意見編纂ノ草案」などを起草し、全国の有志に配布した。なかでも「大日本国会法」はかなりの反応があり、各地で桜井案をもとに手なおしを加えたものが発表されたりしている。
 一方、自由民権運動をバックアップして、これをひろげる役割を果したのは新聞であった。本県では民権派政論新聞として『総房共立新聞』が刊行されていた。
 この新聞は桜井静が、東京横浜毎日新聞社から西河通徹を招き編集長として出発した。その内容が政論新聞の傾向が強かったため、しばしば発行停止処分を受け、やがて明治十五年十月二十一日に廃刊となり、このあとは「東海新聞」がその役割を引き継ぐような形になった。

写真 総房共立新聞(東京大学法学部明治新聞雑誌文庫蔵)
 
 また民権運動が活発化していくと、民権結社が県内各地にできあがっていった。なかでも夷隅の「以文会(いぶんかい)」は有名であるが、この他にもいろいろなものがあった。
 次に山辺・武射郡関係の民権結社をあげておく(表17)。
表17 山辺・武射地方における民権結社
名 称設立等所在地規模構成員数




愛信会M14・ 7東金町郡 域
測蠡会 14・ 8本須賀村三十人
同進会 14・ 8大里村七十人
開進会 14・10芝山村三百十七人
興愛社 14・12上横地村
共研会 14・12北之幸谷村五十人
自治社 14・12大網宿五十村三百人
法学研究会 15・ 3作田村十 村
益友社 15・ 6東金町
(『千葉県警察史』第一巻)

 本県において、このような結社ができあがったのは、明治十二年ごろ匝瑳郡八日市場村に設立された「協和社」(発起人片岡治躬、役員菅治兵衛外)で、翌十三年三月長柄郡茂原に設立された「海欧社」(発起人・役員等不明)、同年十一月夷隅郡に「以文会」(会幹事中村権左衛門、役員高梨正助、井上幹外)で、以文会がもっとも活躍して、その名を知られている。地域的にみると、千葉・市原両郡を除いて、ほぼ全域にわたりこのような結社が設立され民権活動を行った。
 この活動のさかんな様子は『総房演説集誌』第一号(明治十五年二月十日発行)中に、「今ヤ我県下至ル所トシテ演説ノ集会アラサルナク、志士ノ結社アラサルハナシ……下略」と述べている。
 また明治十六年地方巡察使として来県した元老院議官関口隆吉は、その『復命書』中に当時の千葉県の政治結社の状況について、次のように報告している。
  千葉県下に於テハ現今政党ノ成立セルモノナシ、然レトモ試ミニ孰レノ地方ニ於テ、政事思想ヲ抱クモノ多キカヲ視ルニ、下総国及上総国北部ノ人民ハ伶俐ニシテ、風俗醇厚ナラサルモ、却テ政談演説等ニ熱心スルモノ少ナク、上総国南部及ヒ安房国ハ其俗醇厚、其風着実ナルモ、近時交通ノ道開クルニ随ヒ、漸次奸猾軽佻ノ風ニ染ミ、世ノ所謂演説者流交ニ相往来シ、其質朴ニ乗シ之ヲ煽誘セシニ因リ、少年軽躁ノ輩民権ヲ唱へ、自由ヲ説カントスル者続々輩出スルニ至レリ(下略)、   (『千葉県警察史』第一巻)
 当時の政治運動は地方の豪農を中心に展開され、反政府という姿勢はあまり強くは出ていない。しかし明治十八年十二月に伊藤博文を首班とした第一次伊藤内閣が、安政五年(一八五八)欧米と締結された半植民地的不平等条約を改正するためにとった極端な欧化政策と、井上外相の推進している条約改正案が世の中に伝わると、欧米に対する屈辱外交であるという批判がたかまり、自由民権運動を推進させていた人びとも反政府運動を展開した。こうした情勢の中で中央政府が条約改正交渉を思いとどまった後も、自由民権派は地租軽減、言論集会の自由、外交問題などを中心にした要求を掲げ、建白書を提出するなどの活動をくりひろげ、地方にあっては、町村、郡単位でさまざまな政談演説会や懇親会と称する政治的集会を開催した。
 明治二十年十月、武射・山辺・長柄・上埴生・夷隅の五郡有志による南総大懇親会が開催された。また同年十一月には夷隅以文会の高梨正助、千葉の新庄克巳、山辺郡の吉原次郎らが県下有志者七九三名の総代として県庁へ建白書の差出し方を願い出たり、長柄郡の自由民権派斎藤自治夫は同月に長柄・上埴生・山辺三郡七十五か村二八二名の有志総代として、建白書提出のため元老院に出かけたりしている。
 こうして地方にあって志を共にして懇親会に集まる人びとは、「倶楽部」と称する組織を作っていった。明治二十二年五月に板倉中が提案してできた千葉倶楽部、印旛郡佐倉町を中心に浜野曻らの提唱でできた佐倉倶楽部など、このほかいろいろあり、当地方でも山辺・武射(現山武郡域)両郡を中心に山武倶楽部が設立されている。また同二十三年には武射郡に武射倶楽部ができた。
 一方、明治二十二年桜井静は、地方政社として鳥尾小弥太の保守主義中正派と関係ある、「中正党」設立の認可を受け、武射郡を中心に組織拡大につとめた。このほか山辺・武射の改進党系の有志は山武同好会を組織している。
 当時二大政党としては改進党と自由党があり、こうした中央の動向に千葉県下の状況も、それぞれこれらの傘の下にあったといってよいであろう。両派は国会開設と同時に衆議院にひとりでも多くの自派の代議士をおくり出すことに熱中した。自由党総理の板垣退助などは、明治二十四年から二十七年にかけて数回、自派勢力拡張のため県内各地をまわった。
 人びとの選挙への関心も高く、投票率は九十パーセント前後になることもあった。
 自由民権運動を通して組織化が推進されるとともに、当時の人びとは政治をより身近なものとして感じとっていたと思われる。