また一方では「国会の開設」という課題があり、これに対応し、国内政治、特に地方政治をしっかり把握できるようにしておく必要があった。
そこで中央(国)から県へ、そして町村へという体系づくりが行なわれ、公法上に認められた団体としての町村を規定する制度がつくられた。法の定めるところにより、町村長、町村会議員を中心として住民が共同生活を営む団体を町村と定め、町・村ならびに町村民が、どのような活動をするかを示している。
さらに、こうした町村制を施行するためには、従来のような小規模な町村では、地方自治体として上からの委任事務を遂行する財政的基盤に問題があると考え、政府は町村制施行(明治二十二年)までに、町村合併をおしすすめるように指示した。もっとも当町域でこれ以前でも村が合併した例はある。『千葉県町村合併史』上巻によれば、明治四年に、名・真行・小沼・長谷・金谷が合併し金谷郷となっている。
しかし、町村制施行にあたっての合併は、さらに、大がかりなものであった。このとき示された「町村合併標準」によると、一町村は戸数三百戸を基準とする。これに充たないものは大きな周辺町村と寄相(よりあい)合併する。歴史的背景はある程度考慮し、あまり機械的に寄相合併させるようなことはしない。町や村にも富める町村、貧しい町村があるので、合併にあたっては、ある程度バランスをとるようにするなどの指示が出されている。
こうした基準にしたがって明治二十一年六月から翌二十二年四月まで約九か月の間に、合併を実施するということは、かなり難事業であった。
当時の県知事船越衛は各郡長宛に次のような訓示を発している。
訓示 『千葉県議会史』 第二巻
町村制実施ノ期ニ付テハ同第百三十七条ノ規定アリ、本官将ニ時ニ及ンテ裁酌具申スル所アラントス(中略)
現在ノ町村ニ就テ其状況ヲ察スルニ、概ネ疆土狭隘ニ失シ、戸口稀少資力亦薄弱タルヲ免レス、畢竟今日ノ実際ニ於テ数町聯合シテ一戸長役場管理ノ下ニ属セシメタル所以、亦之ニ職由セスンハアラス、聯合町村ニ在テハ往々観ルヘキ者ナキニ非スト雖モ、之ヲ概括シテ未タ充分ナリト云フヘカラズ、嘗テ試ニ従来町村費協議費ノ支出総額ヲ算出シ、之ヲ以テ県下毎戸長役場ニ平均セシニ、一役場管理内一ケ年金千四拾余円ヲ要スルノ割合ニシテ、又其収入課額ヲ平均スレハ地租割ハ正租六分ノ一強、戸別割ハ一戸四拾銭余、営業割ハ地方税金一円ニ付拾弐銭余ニ相当セリ、今日ノ賦課既ニ如斯、之ニ加フルニ吏員ノ諸給与等ヲ以テセハ、将来町村人民直接負担ノ軽重実ニ思フヘキナリ、今ニ及テ計画準備其宜キヲ制セサレハ、或ハ恐ル将来本制実施ノ後ニ至リ、法律上予期ノ効果ヲ収ムルニ能ハサラン事ヲ、抑モ町村ノ区域ハ従来ノ成立ヲ存シ、之ヲ変更セサルヲ以テ本旨トスト雖モ、町村ハ其自治団体タルト同時ニ又国ノ行区画タリ、故ニ其独立ヲ認ムルノ定度ハ自治上ト官治上トニ照シ、果シテ力能ク是等ノ事務ヲ支持スルニ足ルヤ否ヤヲ観測スルニ在リテ、其区々分立セシ者ヲ適度分合スルハ、公益上止ムヲ得サルニ出テ、兼テ町村ノ利益ナリトス。
今ノ毎町村ハ多クハ以テ独立ヲ為スニ足ラス、而シテ聯合町村中其幾部分ハ相当ノ力ヲ有シ、聯合ノ儘ヲ以テ一町村ト為シ得ル者アルモ、其幾部分ハ適度之ヲ分合スルニ非サレハ、事情不可ナル者アリ、蓋町村ハ歴史上ニ、利害上ニ、交際上ニ、諸種ノ関係アリテ、其分合ヲ議スル固ヨリ容易ノ業ニ非スト雖モ、前挙ノ趣旨ニ因リ本制ヲ実施セント欲セハ、須ラク先ツ有力ノ町村ヲ造成セサル可ラス、之ヲ為ササレハ自治ノ運歩ニ支吾スヘキヲ以テ、今ヤ公益上該分合ヲ挙行スルノ必要ニ迫レリ(以下略)
こうした訓示が示され、早急に町村合併が推進されていくのであるが、『千葉県町村合併史』上巻、第三章「市町村制施行当時における県下の町村合併状況・山辺郡」のところに「本郡自治区に在ては、孰れも関係町村協議成熟の上、本案の如く組織せんと希望する者にして幸い一つも強制を用ふべき所なし、本郡内現在町村数は一二三、戸数一万一三四八戸、地価金二七七万九六三円余りにして、之を一町村に平分すれば戸数九十二戸、地価金二万二五九八円余とす、又現今の戸長役場たる其数十九個にして一所轄区域に平分すれば戸数五九七戸、地価金十四万六二九八円余に係り、今之を分合して三町十四村と為さんとす。但此中一町一村は未だ資力充分ならざるが如しと雖も、大網町と山辺村との関係に付ては、甲(大網)は商業と農業を事とし、乙(山辺)は農業を専らとし、産業を異にするにより合併の協議整はざるを以て、姑く組合制度に依らしむるを以て便宜穏当なるべしと思量す。斯く分合するときは一自治区平均戸数七〇九戸、地価金十七万三七二八円に相当することとなれり。」
ここにも見られる大網と山辺のように、わずか九か月で合併を決めること自体が大変であった。こうしたことは全県下というより全国でおこった問題でもあった。
現・大網白里町域の町村制施行に伴う合併の事例は次の項で別々にとりあげるが、村(小規模な)を合併して町にしたり、新村に再編成したりすることは、この後明治三十~四十年に至っても地方行政上のひとつの課題であった。このことは合併しても新町村名ひとつ決定することでも大変なことであったのである。
前述の『千葉県町村合併史』によると県下の新町村の名称は次のような理由で決定された。
1、従来の町村名を襲用したもの | 一三三 | |
2、郷名を町村名としたもの | 八六 | |
3、地方の通称を用いたもの | 二七 | |
4、合併町村中の名称を折衷したもの | 三〇 | |
5、地形によったもの | 二六 | |
6、山河等土地の名を用いたもの | 二三 | |
7、郡名を町村名としたもの | 四 | |
8、神社の名を用いたもの | 三 | |
9、縁故の命名がないため人民の希望のみによったもの | 五 |
この他学校の位置、用水、道路などさまざまな問題がいりまじったが、合併への努力がみのり、明治二十一年十二月には県内町村数二四五六であったものが、翌二十二年十二月には三五八となり、二〇九八も町村数が減少するという結果がみられた。
明治二十一年公布の町村制は、こうしてみると、国会開設にむけて中央政府がその基盤を固めるべく施行した政策とみることもできるが、マクロな視点からみるとこの町村制は、町村合併ということがらを通して、従来(江戸時代以来)自分の「ムラうち」という狭い区域にかたまって、ともすれば、自己の利益のみにこだわる意識に大きな変革を求めた第一歩であったともいえる。
地方自治は、こうした意識の改革の上になりたつものであり、制度的にはこの後もいろいろと改められながら、現在に至っているのである。