大網町山辺村組合

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 大網宿(星谷村、清名幸谷村への飛地を除く)、仏島村(星谷村への飛地を除く)、及び星谷村飛地を合併して大網町を設置し、一方金谷郷、大竹、餅木、池田、南玉の諸村及び養安寺飛地、土気町飛地を合併して山辺村を設置し、両町村の間に町村組合が組成された。当初の県案はこれらの町村を一括して、一町村を設置するにあったが、協議が整わず本案の如く決定したものであることは、次の関係七か村からなされた答申によって明らかである。
 
  町村分合の儀御諮詢に付き答申(関係七ケ村の村名列記)
  右各宿村之儀は御見込案の通り分合する能はざる事情あるを以て、更に協議を遂げ金谷郷村、大竹村、餅木村、池田村、南玉村の五村を合併一村と為し、大網宿、仏島村の一宿一村を合併一町と為し、各一村一町を以て組合村と為すに確定致候、此段及答申候也、
  但飛地の儀は前条各宿村は勿論、他の町村に交渉するものと雖も、此際各表裏する所の町村に組替候事に是亦決定致候、
 
 これに対し県は「大網町と山辺村との関係に付候は、甲は商業と農業を事とし、乙は農業を専らにして、産業を異にするにより合併の協議整はざるを以て、姑く組合制度に依らしむるを以て便宜、穏当なるべしと思量す。」という態度をとり、本案の通り決定した。
 大網宿は古来山辺郡に属し往時大網郷の地であったと伝えられる。明治六年大小区分割の際第八大区三小区に編入、同八年第八大区二小区に編入された。十一年郡区町村編成法施行の時、仏島村と共に村連合を組成し、十七年戸長役場所轄区域更定の際、両町村は金谷郷村外二か村と共に同一戸長役場の所轄区域に属し、明治二十二年に及んだ。
 金谷郷、大竹、餅木、池田、南玉の諸村も古来山辺郡に属し、往古土気本郷の地であったという。明治六年大小区分画の際第八大区三小区に編入、八年池田、南玉の二村は同大区二小区に編入替、十一年郡区町村編成法施行の際金谷郷、餅木、大竹の三村は村連合を組成し、池田、南玉の二村は小食土村外二か村と共に村連合を組成し、十七年戸長役場所轄区域更定の際池田、南玉の二村は土気本郷町外九か村と共に、金谷郷、大竹、餅木三村は大網宿、仏島村と共にそれぞれ同一戸長役場の所轄区域に属し、明治二十二年に及んだ。
 この頃のことをもう少しくわしく調べてみよう。大網小学校(旧大網尋常高等小学校)の「沿革誌」郷土誌の部分に、次のとおり具体的に記されている。
 
 史料 「大網町郷土誌」            大網白里町立大網小学校所蔵
  (前略)
  明治七年十一月第八大区出張所管轄トナリ、同八年十一月第八大区二小区ニ編入セラレ、同年第七・八大区出張所管轄トナリ、同十一年十一月二日山辺武射郡役所管轄、同年十二月戸長役場ヲ置ク。
  同二十二年四月町村分合ノ際大網町、仏島村ヲ合シ大網町ト改メ、町役場ヲ置キテ之ヲ管理ス行政上ノ便ヲ図リ町内ヲ拾区ニ区画シ、各区ニ組長ヲ置ク、後区長、併ニ(並カ)代理ヲ置ク、而テ町会議員ハ十二人ヲ以テ定員トス、町村制実施ニ当リ町長ノ職ニ就キシハ武内治右衛門氏ナリキ、爾来時運ノ趨勢ニ伴ヒ幾多ノ更迭アリ、歴代町長ノ氏名ヲ挙クレバ左ノ如シ
 ○明治廿三年八月以降仝廿五年四月迄    三木孫四郎氏就職
 ○明治廿五年八月以降仝廿八年三月迄    矢部哲氏就職
 ○明治廿八年五月以降仝三十三年三月迄   再同人
            (以下略)
 
 山辺村のことに関しては、大網白里町立山辺小学校の「沿革誌」付村誌編中に次のように記されている。
  明治九年、金谷、小沼、長谷、名、真行等の各村は聯合して金谷郷村と称し、明治十七年に至り、餅木村、大竹村と共に大網組合に、又池田、南玉の二村は土気組合に聯合するに至れり、其の後明治二十一年町村制の実施されるに及び、翌二十二年嚮に聯合せし各村は大網組合及び土気組合より分離して新に山辺村を組織せり、金坂善九郎、平賀重次郎、橋本専右衛門(以下代々村長を記してあるが略す)。
 また、役場に関しては「五、行政及教育」の項に、イ、山辺村役場として、「山辺村役場は停車場(大網駅)より距る二十五町、大字金谷郷にあり、明治二十二年町村分合と共に設置せられ今日に及べり。」と記されている。
『千葉県町村合併史』には「当地区は戸長役場所轄区域及び学区を二つにしていた(南玉、池田の二村は土気本郷村外九か村と共に、その他の諸村は別に一学区をなしていた。)ばかりでなく、大網町地区と山辺地区は概ね生業を異にし、人情、風俗等もやや異なるものがあり、合併の協議が整わなかったので、その間に村組合を組織することとなった。大網町の新町名は、大網宿が当地区中の大聚落であって、且つ近隣に著聞していた地名であったので、それに由って命名された。山辺村の村名は郡名に因んで選定された。」
 以上『町村合併史』と地域に残る学校の「沿革誌」をみると、この明治二十一年~二十二年にかけての町村制が、かなり大きな影響を及ぼしていることがわかる。
 次に合併時の旧村々の村勢をあげておくことにする(表19、20)。
 
表19 合併時の大網町旧村の村勢
1. 大 網 町 の 部
旧村名人 口戸数面 積国 税地方税町村費町村
協議費
山林
 
大網宿

二、六〇〇    

四九〇    
町        
四三六 ・ 九二

七、一八六    

一、一〇四    

四三四    

一四八    
 
仏島村一〇二    二〇    一八 ・ 三四一八七    四九    一一    一六    
星谷村飛地六    二    三 ・ 九七一〇    一    
二、七〇八    五一二    四五九 ・ 二三七、三八三    一、一五四    四四五    一六四    

表20 合併時の山辺村旧村の村勢
2. 山 辺 村 の 部
旧村名人 口戸数面 積国 税地方税町村費町村
協議費
山 林
 
金谷郷村

八七二    

一六〇    
町        
四〇六 ・ 一九

二、〇六一    

四八九    

二九一    

八    
町        
五 ・ 九三
大竹村二一三    三三    五五 ・ 一〇三六五    八七    四八    八    〇 ・ 七五
餅木村一二九    二四    五三 ・ 五三二六一    六六    三四    六    〇 ・ 五八
池田村二一三    四五    七二 ・ 七〇五五六    一三〇    三七    一六    〇 ・ 一二
南玉村二〇〇    三七    四五 ・ 四五四〇一    九七    二七    一六    
養安寺飛地一 ・ 〇五一    
土気町飛地五 ・ 一四四    
一、六二七    二九九    六三九 ・ 一六三、六四九    八六九    四三七    五四    七 ・ 三八
合 計四、三三五    八一一    一、〇九八 ・ 三九一一、〇三二    二、〇二三    八八二    二一八    七 ・ 三八
(『千葉県町村合併史』)


写真 大網町役場