七 地租改正の動向

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 慶応三年(一八六七)十二月王政復古の大令が発せられ、翌年一月には官軍は鳥羽・伏見の戦争で勝利した。しかし新政府にとって、明治維新後の新しい政策を推進させるためにも、戊辰戦争を勝ち抜くためにも財政上大きな問題が存在した。
 当初は豪商の献金などでカバーしたが、いつまでもこうしたことに依存することは不可能であるし、近代的政治体制を確立するためにも賢明な方法でないことはわかりきったことであった。
 しかし、江戸時代に「百姓とゴマは絞れば絞るほど……」という為政者の考え方から、かなりの重税にあえいでいた農民は、明治維新にあたって、新しい時代の到来とともにらくな生活ができると、明治の新政に大きな期待をかけ、協力もした。もしこれが単なる期待におわったとしたら、どうなるか結果はわかっていた。
 明治新政府内において、租税改革論がもちあがった。明治二年(一八六九)四~五月ごろ、神田孝平が田地売買の自由を認め、売買価格に対する定率金納税を賦課するという提案をした。彼は明治三年にも「田租改革建議」を提出し、「今ノ田地ハ民ノ買得テ有スルモノニテ、官ヨリ之ヲ渡シタルニハアラス……」という、農民の私的土地所有権を全面的に承認する見解を示した(『地租改正と資本主義論争』田村貞雄)。
 明治政府は明治四年から五年にかけて、土地所有者の確証として「地券」を交付した。
 房総に於ては、宮谷県権知事として赴任して来た柴原和はこうした地租改正の熱心な推進者であった。
 木更津県令になった柴原和は、明治五年二月太政官達に応じて、木更津県管下の安房・上総国に対し「地券発行ニ付」布達を出した。当町に残る史料によりこれをみると、次のように記されている。
 
 史料                  柿餅 小川嘉治家所蔵
  地租改正施行規則(要点のみ)
   第一則
 今般地租改正被仰出候ニ付テハ、兼テ相渡置候、券面地価ノ儀、旧来石盛ノ不同ト貢租ノ甘苦ニ寄リ高低有之儀ニ付、更ニ土地一歳収穫ノ作益ヲ見積リ各地ノ慣行ニ因リ何分ノ利ヲ以テ地価何程ト見込相立、更ニ[ ][ ]銘々ヨリ為申立、当否検査ノ上適当可相定事、
   第二則
 最前地券渡済ノ地ハ、地所ノ廉落等無之筈ニ候得共、自然廉落又ハ残歩等ノ懸念之有候分、強(アナガチ)旧帳簿ニ拠ル時ハ、地ノ広狭其ノ実ヲ失ヒ、陰ニ地価ノ昻低(コウテイ)ヲ為シ、其ノ当否ヲ検スルノ準拠無之候ニ付、更ニ精覈(セイカク)ノ反別為申立候様可致事、
   第三則
 郡村宅地等地価難定場所ハ、其村耕地ノ平均又ハ隣村宅地ノ比較ヲ以テ相定候筈、可相心得事、
  地租改正條例
   第二章
 地租改正施行相成候上ハ、土地ノ原価ニ随ヒ賦税致シ候ニ付、以後仮令豊熟ノ年ト雖モ増税不申付ハ勿論、違作年柄有之候共、減租ノ儀一切不相成候事、
   第三章
 天災ニ因リ地所変換致シ候節ハ、実地点検ノ上、損隤(ソンクヮイ)原簿ニヨリ其年限リ免税、又ハ起返(オキカヘ)シ年限ヲ定メ、季中無税タルヘキ事、
   第四章
 地租改正ノ上ハ田畑ノ称(トナヘ)ヲ廃シ、総テ耕地ト牧場(ボクジョウ)山林原野等ノ種類ハ、其名目ニ寄リ何(以下欠除)
   第五章
 家作有之一区ノ地ハ、自今総テ宅地ト可相唱事、
   第六章
 従前地租ノ儀ハ、自物品ノ税、家屋ノ税等、混淆(コンコウ)シ候ニ付、改正ニ当テハ判然区分シ、地租ハ則地価ノ百分之(以下欠除)可相定ノ処、未タ物品等ノ諸税目興ラサルニヨリ、先ツ以テ地価百分ノ三ヲ税額ニ相定候得共、向茶煙草材木其ノ他ノ物品税、追々発行ニ相成歳入相増、其収入額ノ二百万円以上ニ至リ候節ハ、地租改正相成候土地ニ限リ、其地租ニ右新税ノ増額ヲ割合、地租ハ百分之一ニ相成候迄漸次減少可致事、
   第七章
 地租改正ニ相成候迄ハ、固ヨリ旧法据置ノ筈ニ付、従前租税ノ甘苦ニ因リ苦情等申立候トモ、格別偏重偏軽ノ者無之分ハ一切取上無之候條、其旨可相心得、尤検見ノ地ヲ定免ト成シ定免地無余儀願ニ因リ破免等ノ儀ハ、総テ旧貫ノ通リタルヘキ事、
右之通相定候條、猶詳細ノ儀ハ大蔵省ヨリ可相達事、
   明治六年七月
 
 また明治新政府からも次のような布達が出されている。
 
 史料
    第二百七十二号
 今般地租改正ニ付、旧来田畑貢ノ法ハ悉皆相廃シ、更ニ地券調査相済次第、土地ノ代価ニ随ヒ百分ノ三ヲ以テ地租ト相定旨被仰出候条、改正ノ旨趣別條例ノ通可相心得、且従前官庁幷郡村入費等地所[ ]取立来候分ハ、総テ地価ニ賦価致スベシ、尤其金高ハ税金ノ三ケ一ヨリ超過スヘカラス候、此旨布告候事、
   明治六年七月廿八日
                              太政大臣  三條實美
 
 こうして、国や県が力を入れて実施した土地の所有権と高反別を明白に示した地券交付の仕事は、明治五年からはじまり(木更津県の場合)、やがて千葉県へその仕事はひきつがれていったが、木更津県時代に、かなり組織的にその仕事にとりかかっている。
 
 史料         (『千葉県史料』)
   郡中地券掛リ人名
                          望陀郡十日市場村
                                 佐久間帯刀
                          同郡 高柳村
                                 重城保
                          市原郡 宮原村
                                 元吉元平
                          夷隅郡 長志村
                                 丸珠二郎
                          周准郡 久保村
                                 林詔造
                       天羽郡兼山辺郡東金町
                                 稗田勘左衛門
  但長柄、武射両郡掛リ人名不日相達、埴生郡、長柄郡掛リニテ心得候積、但朝夷両郡ハ右弐名ニテ心得候積リ
                          安房郡 北条村
                                 加藤又三郎
                         長狭郡 下小原村
                                 宮崎文治
 
 次にとりあげたのは柿餅小川嘉治家に所蔵されている地租改正関係の史料である。
 ところどころに記されている記述をもとにまとめると、明治五年壬申九月二十八日、木更津県は三嶋権少属を大網の蓮照寺に派遣して地租改正・地券交付に関する説明会を実施した。小川家の史料はこのときに写されたもので、県の通達などがいろいろと含まれている。また最初に、地券発行に付地所取調方規則など県庁の通達として当時の木更津県、いわば中央政府の意向を受けた柴原和の地租改正、壬申地券交付に対する基本姿勢を知ることができるので、次に引用する。
 
 史料                    柿餅 小川嘉治家所蔵
   地券之儀御規則廻達之写
                柿餅村
  地券渡方公布之趣、此程相達候ニ付テハ、取調方別紙規則之通相心得入念可取調事、
 一、諸帳面取調出来候分ハ、期限ニ不拘一区限取纒、当地出張之年番戸長エ差出、夫ヨリ租税課地券掛エ可差出事、
 一、地券取調掛別紙人名之通申付候条、為心得相達候、尤掛リ官員エ附属シ時々廻在致シ候ハツニ付、難決件件(ママ)ハ承合可申事、
 右ノ通相心得、小前未々迄無漏可相達モノ也、
   壬申(明治五年) 九月廿四日
            木更津県庁
                                  年番戸長
  追而此廻章至急剋付ヲ以、順達周尾ヨリ可相返事、
 
   地券発行ニ付地所取調方規則
   第一条
一、地所(券の誤りカ)発行ニ付地所取調方之儀者、検地帳、名寄帳、小拾帳等ヲ台帳エハ可取調儀ニ得候共、漸之切畝歩等モ多少可然有之付、総而現地ノ景況ニ随ヒ、地引色訳絵図ヲ製シ、雛形之振合古田畑其外区分シ、取調可申事、
   第二条
一、地価ハ兼テ相達候通、従前之上中下位限ニ不拘、方今当之代価ヲ可申出、検査之上右ヲ地券ニ相記シ候事、
   第三条
一、総テ人民所持之地、後来御用之節者地券ニ記セル代価ヲ以テ御買上可相成事、
   第四条
一、従前無願シテ切添切開幷其外地エ、其他隠田タリトモ、格別ノ御趣意ヲ以テ此度限一切被差許候条、有体申立地券可申請事、
   第五条
一、地券相渡候後、前条切添、切開、其他隠田等有之ニ於テハ、兼テ相触候地所売買規則中、密売買之例ヲ以テ其地所取上候事、但其村役人ハ地所拂直段之三分通ヲ、罰金可申付事、
   第六条
一、従前高内外ニ不拘、社寺郷蔵之類、或ハ埋葬地等地主定リ無之分ハ、地引絵図中此訳詳細ニ記シ可申、其他小物成場、山林之類、総テ地引図中色訳可致事、
     (中略)
   第十八条
一、士族邸地之儀ハ、従旧藩正授与之分ト借地トノ区別判然ト取調、前書村地引図中エ色訳致シ候外、別ニ士卒邸地図面ヲ製シ可差出事、
   第十九条
一、右邸地之儀高外除地之分ハ、旧藩主ヨリ授与又ハ借地等イタシ候節之坪数ヲ以取調、高内引之地ハ村々ヨリ元上知之反別ニ基キ可調、捴テ原歩ヨリ相減候儀ハ決テ不相成、且貢租地価等ハ現今ノ景況ニ随、近隣比較ヲ以可申出事、
   第二十条
一、従来由緒有之地子免許地ハ、兼テ及布達候通相当之税納可致儀ニ付、反別地価及現在屋敷カ田畑カ之訳、雛形之通可取調事、
   但前々見捨地、或ハ氏神旅所、其他除地等ヲ開立之分ハ切開地ニテ、地子免許地トハ大ニ区別有之儀ニ付、混合致間敷事、
   第二十一条
一、士族受領地並地子免許地共、地税上納申付地券相渡候迄ニテ、地所ハ其侭所有為致候筈、借地之分ハ低価ヲ以払下相成候事、
     (中略)
   第二十五条
一、地券申受候節之證印税ハ、兼テ相達候売買規則之通タルヘク候、尤荒地之地所ハ地価無之ニ付、一筆之地所ヨリ五銭之印税ヲ可納事、
   第二十六条
一、地券相渡候後、変地其外ニテ代価不適当ニ相成候節ハ、願出次第実地検査之上書替可遣條、売買規則第五条之振合ヲ以可願出事、
   右之通相達候事、
 
 こうして実施されたのがいわゆる「壬申地券交付」であった。
 前にあげた史料中の第四条・五条にみられるように、この事業は一方に隠田検出の意図もあったように見られる。しかし実際に着手してみると、なかなか思うように事業は進展せず、やがて木更津県・印旛県がひとつになり千葉県が誕生し、この事業もそのままひきつがれた形となるが、中断し明治八年に再開される。
 明治八年に千葉県が出した「地租改正ニ付実地調査心得書」というものがあり、それに次のとおり記されている。
 
 第一条 地租改正ニ付テハ、区戸長、惣代人、事務掛等一同大区扱所ヘ集会シ、地価収穫等ノ調方ハ姑ク之ヲ置キ、第一ニ実地調査成功ヲ速ニセン事ヲ主トシ、左ノ数条ニ就テ豫メ着手ノ順序ヲ商議スヘシ、
 第二条 区戸長中改正専務ノ者惣代人等申合、各村々ヲ巡廻シ小前末々迄御趣意ヲ奉戴シ、心得違無之様懇意篤差示シ、調方一途ニ従事スヘシ、
 第三条 実地取調方ハ先ツ各村ノ大小ニ仍リ、二手或ハ三手ニ分派スヘシ、一手ノ人員凡九人トス、則人員割左ニ、
    丈量図引方 壱人
    十字縄張ノ者 五人内(一人十字本据ヘ付ノ者、四人前後左右ヘ縄張ノ者)、
    梵天持    二人
    地引野帳方  一人
 第四条 分派以前一同一ト場所ヘ打寄、調査区々ナラサル様申合セ見様ヲ為シ、熟思ノ後字分ケ等ニイタシ、受持ヲ定メ夫々ヘ分派スヘシ、
      (以下三十条迄省略)
 
 これは『千葉県議会史』第一巻より引用したものであるが、ここに掲載したのは実地丈量の具体的な手順である。この後には更に後日丈量不備から問題がおこらないように、公平に実施するようにとの指示も含まれている。それにもかかわらず、地租改正事業を何のために推進するのか理解されず、県外では反対運動が発生したところもあった。県内でも土地丈量用畝杭が引き抜かれ、紛失している程度の妨害はあったようである。
 この地租改正に伴う土地測量は単に田畑の所有権の確認やその広狭の正確な把握のみではなく、さらにその土地の地味の良しあしを判定することも含まれていた。この基準は大体十等級で甲と乙があり二十段階に分けられていた。この点で大変だったことは、何を基準にして一等にしたり三等にしたりするかということで、これは大変むずかしいことでもあった。県でもこの点はかなり細心の注意をもって、結果の処理にあたったようである。
 あまり良く評価されると売るときは好都合であっても、そうでないときは重い税を課せられ大変なことになる。そこで県でも重視し県令柴原和は安房、上総などをめぐり、地位等級調査の教示を与えた。
 こうして千葉県の地租改正に伴う測量事業は、順調とまではいえないが明治十一年十月一応の完了をみることになった。
 明治維新以来、新政府にとっては、重要な大事業であったことは前にも述べたが、土地の等級の判定など実施上の困難もあったが、さらに加えて、これに要する費用も大変であった。『千葉県の歴史』(川村優・小笠原長和氏著 山川出版社)には、「一村平均少なくとも五〇〇円の負担ということになる。」と記されている。
 この金額は、三新法以前の小規模な村の二年から三年間分の年間経費に相当するものであった。
 地租改正がもたらした、農村のその後のことに関しては、いろいろな研究もされてきているが、直接当町に関係するものはないので残念ながら省略する。

写真 地券証券(北吉田 十枝澄子家文書)