(1) 警察

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 徳川幕府が崩壊し、代って政権を掌握した明治新政府にとって重大な課題のひとつが、治安の維持であった。明治のはじめは軍隊も警察も満足に整っていなかった。特に警察の役割を果たす組織は江戸時代に近いものであった。
 当町清名幸谷の中村昭家にのこる明治二年の『見聞録』を見ると、治安関係の記事として次のような記述がみられる。
 
  (三月)廿一日珍敷事有リ、知県事御役所ニ而獄門之人有之、上総国市原郡徳治(氏カ)村○○○○と申モノ、新堀ニテ梟首之上獄門ヲ行者也、
  (五月)廿八日之夜、北の兵部ニ而盗賊忍被入、米六俵幷ニ大豆、小豆合一俵、七俵盗被取候ニ相違無之候由[ ][ ]置也、
 
 三月二十一日の記事は如何なる罪状かはわからないが斬罪、梟首の刑を執行されたこと、五月二十八日の記事は夜泥棒がしのび入って米や大豆、小豆合計七俵を盗んでいったということが記されている。
 こうした事態に対応して、宮谷県は明治三年五月に上総と下総に「両総防捍頭取」を設置し、犯罪者の捕縛の任に当たらせた。現在、香取郡山田町府馬の宇井隆家にのこる『萬集録』第七番(明治三年)のなかに、『両総防捍頭取衆人名帳』があるので次に引用する。
 
 史料  両総防捍頭取衆人名帳
香取郡山田町府馬 宇井隆家所蔵
 上総国長柄郡関村防捍頭取佐十郎
 同国同郡北高根村 同市郎右衛門
 同国同郡椎木村  同(岬町)金右衛門
 同国夷隅郡長者町 同善八
 同国同郡長志村  同(大原町)□次郎
 上総国山辺郡東金町同勘左衛門
 同国同郡極楽寺村 同(東金市)孫左衛門
 同国同郡土気町  同勘蔵
 同国長柄郡本納村 同庄兵衛
 同国山辺郡四天木村同(大網白里町)四郎右衛門
 下総国匝瑳郡宮川村同(光町)源七
 同国同郡八日市場村同信太郎
 同国海上郡成田村 同(旭市)甚右衛門
 同国同郡松岸村  同清右衛門
 同国香取郡津宮村 同縫右衛門
 同国同郡並木村  同(神崎町)七郎右衛門
 同国同郡大戸村  同甚左衛門
 同国同郡府馬村  同(山田町)孝蔵(三)
 同国同郡万歳村  同(干潟町)耕作
 同国同郡大寺村  同(八日市場市)嘉左衛門
 同国同郡篠本村  同(光町)文次郎
 同国同郡牛尾村  同(多古町)治郎右衛門
 (このあとは茨城県南部地方なので略す)
 右両総分頭取衆人名相認御廻達申上候間、為心得附属村々江御通達可被下候、以上、
   (明治三)午 五月
大網宿
 頭取触頭
   平兵衛
下総触元
   村々
     御役人衆中

 

写真 防捍頭取精勤手当証
(大網 三木俊助家所蔵)
 
 図5でみるとすぐわかるように、両総防捍頭取は、宮谷県管下の全町村に配置されていたわけではないことがわかる。
 

図5 宮谷県治下両総防捍頭取配置図(明治3年)
 
 大網は宮谷県管下の県庁所在地であったため大網宿の平兵衛(三木平兵衛)が頭取触頭という重職についている。当町内では四天木の四郎右衛門とあるが、おそらく斎藤四郎右衛門であろう、防捍頭取に任せられている。こうしてみると防捍頭取は半官半民の自警組織にちかいもののようにみられる。
 やがて明治四年十一月木更津県が発足すると捕亡吏(捕亡掛・捕亡手附ともいった)を設けた。明治五年七月木更津県庁は、大網、北条、大多喜の出張所を廃止し、当町や勝浦、北条(現・館山市)へ取締所を、武射郡松尾、長柄郡一宮本郷、長狭郡横渚(現・鴨川市)へ分局を設けて、そこに大属以下三名、捕亡吏六~七名を置き「専ラ人民保護匪徒緝捕之事ヲ掌トリ、其ノ地方ノ訴訟ヲ裁判……」させた。また明治五年六月八日捕亡吏のうち捕亡手附を廃止、この代りに村小役という江戸時代の目明しのようなしごとをする者十五名を任命し、捕亡掛郡村巡羅に同行させた。
 このころ当町に、次のようなできごとがおこった。
 
 史料                柿餅 小川嘉治家所蔵
  (表紙)
  上
                    山辺郡大網宿附属
                        北吉田村
                        外三ケ村
   乍恐以書付奉歎願候
            上総国山辺郡
                桂山村
                   吉野[ ]
                   嶋田[ ]
                   斎藤[ ]
                   猪野[ ]
                   同苗[ ](金重郎カ)
                   佐久間[ ]
  右之者共儀何れも精農罷在候、去十三日村方種蒔、翌十四日村一同休日申合触候処、右面々在宅ニ而前名前之者共飲食いたし候、酩酊之上心得違より不束之所業相催、同夜御召捕之上御吟味中、入牢被御申付奉恐入候、然処右家内之者共悲歎私共え取縋り、御寛典之歎願致呉候様相歎候ニ付、去ル十七日隣村役人共ニ而奉歎願候処、御採用難相成旨被御申渡、御歎願書御下ケニ相成、一同恐懼帰村(中略)何卒格別之以御仁恤寛大之御所置相成候様、幾重ニ茂奉歎願候、以上
                          上総国山辺郡
                             大網宿附属
                              北吉田村
  壬申                           什長
   三月十九日                        斉藤孫右衛門
                               長国村
                               庄屋
                                中村権右衛門
                               柳橋村
                               什長
                                大木茂左衛門
                               柿餅村
                               庄屋
                                小川嘉平次
                               木崎村
                               什長
                                石井惣右衛門
                           山辺郡
                            四天木村附属
    大網                        九十根村
    御役所                        庄屋代
                                野老庄三
 
 この史料は、この前々日三月十七日の日付のある歎願書があり、これは「不束所業相催」とあり、それ故に捕えられた村人に対し寛大な処置を賜わりたいというもので、この十九日付のものは寛大な判決を下されたいという趣旨のものである。「不束所業」は、バクチかなにかをやったためかと思われるが、こうした事件に対応して出動した捕亡手付の者に捕えられたものであろう。
 しかし、書式から文面まで、江戸時代のものと全く変っていないことがわかるが、当初はこの程度であったのであろう。
 明治五年六月木更津県管内五大区の中の一大区毎に、二か所ずつ屯所が設置され邏卒(らそつ)十名ずつが派駐するようになった。
 この翌年明治六年六月十五日千葉県が設置され、県庁の庶務課監察掛にしごとが集約された。
 当時警察官のしごとをする人びとに対する名称は全国的にバラバラであったので、名称を統一するようにとの意見が強くなり、明治六年六月二十四日太政官布告第二百二十五号で「番人」に統一することがきまった。千葉県では明治六年七月に早くも「番人」と表現した文書もあるが、実際の番人が県内に登場し人目にふれるようになったのは明治七年からである。その職務も『千葉県番人心得条件』を入ると、おもしろいので次に引用した。
 
  千葉県番人心得条件 『千葉県警察史』第一巻
   第一条
  一、番人ハ警保掛ノ指揮ヲ奉シ、良民ヲ保護シ非常ヲ警察シ、務メテ其持場内ノ安静ヲ要スヘシ、
   第二条
  一、番人ハ人民ヘ対シ聊タリトモ権威ケ間敷挙動アルヘカラス、
   第三条
  一、常ニ丁寧ト親切トヲ旨トシ、人民、妨ヲナス者アレハ之ヲ除キ、人民ヲシテ其自由ヲ遂ケシメン事ヲ心掛クヘシ、如之自ラ威権ヲ振ヒ人民ヲ圧制セハ、是レ番人輩却テ人民ノ自由ヲ妨ケ、人民ノ害ヲナスモノト謂フヘシ、
   (以下四十五条まで略ス)
 
 この心得条件の最後に「県内番人屯所七ヵ所」とあり、上総国山辺郡は小関(現九十九里町)におかれていたことが記されている。
 しかし、当時から「番人」という用語は喜ばれなかったらしく、常にこれとあわせて、「巡邏」とか「御廻(おまわり)」といわれて警察吏への名称が統一されていく。
 明治十年西南戦役の開始と共に、県内でも警察出張所や屯所といわれていたものが警察署とか分署という名称に変わっていき、その組織体制を強化していった。
『山武郡郷土誌』によれば「明治六年頃山辺郡東金町字新宿に稗田勘左衛門なるものあり、同人宅を邏卒屯所に充、これ警察の創始にして……」とある。前に引用した香取郡山田町府馬の宇井隆家所蔵「萬集録」中の『両総防捍頭取衆人名帳』中の東金のところをみると「上総国山辺郡東金町同勘左衛門」となっている。この勘左衛門は稗田勘左衛門であり、これをみると防捍頭取の組織から警察へと組織名称が変っても両者が密接に関連していたことがわかる。
 警察に変ってから当町には、現在の南今泉に本納警察南今泉分署が置かれ、当町は本納警察署の管下に入っていた。
 明治十年二月山辺、武射両郡の有志の献金により東金町に警察庁舎の建設がすすみ、翌明治十一年本納警察署東金分署から分離独立し東金警察署が発足する。したがって南今泉分署も東金警察署に吸収されその管轄下に入った。
 この後明治二十年四月から成東警察署が分離独立したが、当町はずっと東金警察署の管下にあった。
 また当町旧山辺村では、明治三十九年二月大網町駐在所から分離して山辺村駐在所がおかれるようになり、明治四十三年十月山辺村役場のわきに駐在所を新築した。