(3) 災害

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 私たちの周辺には安全なくらしを妨げるさまざまな災害がつきまとっている。それは自然のもたらすものと、人間の不注意によってひきおこされるものとがあるが、前者を天災、後者を人災とよんで区別してはいるものの、文化がすすみ生活が多様化してくるとともに、この二つのいずれにも区分できかねるようなものも存在するようになっている。
 当町の近・現代の災害を概観すると、この一世紀近くの間、さいわいにも、大地震やそれに伴って発生する大津波などもなかった。そのためか、災害に対する関心度が低下しているのではないかと思われるほど、当町には災害のことに関する記録類がのこっていない。わずかに当町旧町村の学校沿革誌が、校舎破損の記録と台風の襲来を関連づけてのこしている程度である。その他は『千葉県気象災害史』(銚子測候所刊)が『山武郡誌』より引用したものがあるのでこれを参考とした。
 
  明治・大正における当町の災害
 明治6・3月~7月 旱害
    降雨甚だ少なく、特に武射、山辺、長柄三郡は被害が甚大であった。
 明治32・10・7 増穂小学校の前身「清谷尋常小学校沿革史」・地巻によれば、この日西南暴風雨激烈を極め校舎の屋根を破壊したとある。なお『千葉県気象災害史』によると、この日の暴風は県北に大きな損害を与えたことがわかる。
 明治33・10・5 「増穂尋常小学校沿革史」地巻に、この頃当地に流行病蔓延し生徒の健康診断を行ったとある。
 明治35・2・18 「大網尋常小学校沿革誌」(現大網小)によれば、「前夜十七日当町笊田に火災あり、類焼弐拾有余戸、而テ本校生徒の数名はこの悲惨なる災害を蒙りたる者あり……(下略)」
 明治35・9・1 同じく「大網尋常小学校沿革誌」によれば、この年は炎暑烈しきに依り生徒の衛生を考え、日々の授業時数を四時間に短縮すべき旨郡長に届け出たとある。異常気象の事例とみてよいであろう。
 明治35・9・28 「白里尋常高等小学校沿革誌」(現白里小)によると、この日暴風雨のため校舎倒潰と記されている。また「増穂小学校沿革誌」によると、同日の大暴風雨で六合尋常小学校は倒壊、放課後のため児童は不在で事故はなかったが、隣家の老婆と娘が死亡する惨事が発生した。と記され、この日の当地における災害の大きかったことが推察される。『千葉県気象災害史』は各地の被害状況を記し『千葉県誌』の記述として、「九月二十八日大暴風雨あり農作物家屋牆壁の被害甚多く、樹木は至る処に倒れ、一時は交通も途絶の有様なりしも、幸人畜の傷害なし」と記している。
 明治36・7・23 「白里尋常高等小学校沿革誌」の記述によれば、この日旋風ノ為校舎潰倒せられたり……。とある。
 明治36・8・19 『千葉県気象災害史』によればこの日山武郡十三ケ村に降雷旋風の被害があった。負傷者一名、潰家十一棟、漁船の破壊、樹木の倒折被害大……。と記されている。
 明治39・1・26 「清谷尋常小学校沿革史」・地巻(現増穂小)、麻疹流行し出席児童僅少なるを以て本日より向う四日間臨時休業ス。とあり、流行病の内容は麻疹では正確なところは判らないが、「ハシカ」か何かこれに類するものが発生したのであろう。
 明治44・1・6 『瑞穂教育のあゆみ』によると、当時の瑞穂尋常小学校がこの日火災にあい、校舎、机、教材教具数十点を焼失し、永田光昌寺を仮校舎として授業をすすめたことが記されている。
 大正5・5・6月 『千葉県気象災害史』によると、県下全体にかけてこの時期水田が干上り、亀裂をおこし挿秧に従事する能はず、各地に亘り惨状を極むとある。
 大正5・7・29~30日 この日台風が襲来し五~六月の渇水とは逆に、いやというほど雨が降った。当町とその周辺は七月二十九日から八月一日までの間で、四百ミリメートルから五百ミリメートルの総雨量があったというから驚異といわざるを得ない。
 大正6・6~7月 また大旱害に見まわれ、この年の場合当町を含む山武郡や千葉郡・長生郡・夷隅郡などの太平洋岸の各地では例年の当月降水量より百ミリも降水量が少なかった。
 大正12・9・1 午前十一時五十八分突如大地震が発生し、大惨状をひきおこした。当町の場合地震でおどろきはしたものの、心配した津波などの大被害はなく、わずかに十センチ前後地盤が隆起した地域がある程度であった。
 
 ここにとりあげた当町の災害は、これだけが総てというわけでは決してないことを付言しておきたい。たとえば台風などはほとんど毎年、あるいは二年に一回ぐらいの割合いで来襲して、多少なりとも当町の人びとの生活に被害を与えていると思うが、それをこと細かにとりあげているゆとりもないので、当町の記録にのこっているものを主としてとりあげた。「災害は忘れたころにやってくる」といわれるが、当町の記録をみても似たことがいえる。災害の記録こそはいざというときに、「なにを」、「いかに」、備えるべきかということを教えてくれる教科書であるともいえる。