(1) 地域産業の特色

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 大網白里町誕生以前の私たちの郷土を産業構造の上からみると、次の図6に示されるように旧大網町を中心にして次のようにみることができる。

図6 大網白里町周辺図 (『山武郡郷土誌』)
 
 いちばん東側の海辺にあたる白里地区は漁業中心で農業が副業という地域であった。
 旧大網町の東隣りに位置する増穂・福岡地区は、九十九里浜平野の典型的な米作り農業地帯で畑は水田のところどころに見られる島畑である。大網町は街道ぞいの商業地区である。また旧大網町の西隣りに位置する大和・山辺・瑞穂の各地区は、米作りだけではなく林業を営み、杉などの材木・薪・炭の生産を行っていた地域であった。
 当地域の産業を明治・大正時代を通してみると、白里地区の漁業では、九十九里浜の地引網漁業による「まいわし」の漁獲の低落と、それに伴う「干鰯(ほしか)」・「〆粕(しめかす)」など江戸時代以来肥料として生産されていたものが、大豆粕や化学肥料に主役を奪われ販路を変更せざるを得ず、食料品として市場の開拓を求められた。しかもこの地域は広大な砂浜地帯で良港が得られず、人びとはきびしい自然条件を克服しながら工夫をこらし先祖伝来の生業を営み続けた。
 また農業生産面でみると、九十九里浜平野の特色として用水として使用し得る豊富な水量をもつ河川もなく、さらに砂地の特色として、降雨があっても保水能力が低く、よほど適切に雨が降ってくれない限り、水田は広大でも収穫量は少なかった。このことは明治末期以降の千葉県の調査でみても、九十九里浜平野のある匝瑳・山武二郡の米の反当収量はつねに全県平均値を下まわっていたことでもわかる。
 前の災害の項目でも述べたように、田植え時期にほど良く雨が降らず旱害に見まわれたり、台風や大風の被害を受けたりして、米作農家にとって自然はかなりきびしいものであった。しかし、こうしたことが後に両総用排水事業などの実現に地域農民が大きな関心をよせる原因ともなっている。
 しかし、それでも九十九里浜平野の広大な水田地の一部を占める当町周辺に於て、他地域におくり出すものの第一にあげられるものは「米穀」で、大正初期刊行の『大網案内』をみると年間五万俵も他地域におくり出され、この近辺では茂原・東金に次ぐものとされている。
 次に多いのは繭で、大正四年の例でみると大網駅より積み出された繭は二百八十四トン、金額で三十八万三千四百円に当る。
 また鶏卵の生産も多く、上総の丸音(まるおと)、上総の山五(やまご)といへば京浜の市場では名声を博した鶏卵の大問屋で、山武郡の南部から長生郡の北部の鶏卵を集荷し県外におくり出していた。『大網案内』中の大正四年のデータで七万七千二百二十貫と記されている。
 落花生は大正初期では業者数もそう多くはなかったが、当町域の生産物としては第四位を占めている。
 柑橘類の栽培も明治末期より手がけられ、大正初期には生産額も向上し、大正四年には京浜地方から埼玉、長野地方まで市場を拡大しつつあった。
 清酒の醸造も当町域の旧町村で各家々で工夫をこらし、品質の良いものが生産されつつあった。大網町の石野芳氏は自家醸造の清酒「ふさ正宗」に改良工夫を加え、大正三年と四年にかけて千葉県の品評会や、山武郡内の品評会などに出品し高い評価を得ている。

写真 大網町の酒造家石野家『日本博覧図』
(木崎 池辺静家所蔵)
 
 山辺村では中田家の銘酒「正元」、瑞穂村では永田の川島家の銘酒「天馬」、増穂村清名幸谷の中村家の銘酒「総の誉」などの商品が、広く近辺にも知れわたっていた。
 醬油というと当時は各村に一軒ぐらい「醬油屋」という店があり、村単位で醬油は供給されていた。しかし日清、日露の戦役が終ったころから、そのような経営では醸造家は成りたたなくなり、合併をするようになった。
 しかし販路を広く把握していたり、周辺の人びとに信頼されている業者はかなり後までもずっと醸造を続けた。写真にある大網町の醬油、酢醸造元三島家もそうした事例のひとつであった。

写真 大網町の醬油醸造家 三島家『日本博覧図』
(木崎 池辺静家所蔵)
 
 商業面では、明治末期より大正期にかけて、かなり組織化がすすんでいった。大網商業組合は当初(明治中期ごろ)は住吉講を結成していたが、明治三十二年になって、大網商業組合が結成された。大正四年ごろでメンバーは七十名程度であったが、当町商業の振興のためさまざまな研修活動が計画実施された。
 なおこの他、大網米穀商組合、大網糸繭商組合が結成され会員は七十名程度で、品質の向上、改善をめざして努力していた。
 また表24は旧大網町において何らかの営業をなす家数を(大正四年調査)まとめたものである。
表24 旧大網町に於ける営業家数
(大正4年現在)
営業種別実数備 考
呉服商5戸
和洋菓子商5    
荒物雑貨11    
金物商2    
薬 店3    
洋品足袋3    
酒造業1    山六
醬油醸造1    
酒,醬油販売8    
セトモノ漆器3    
銘茶販売2    
小間物商3    
自転車店2    
鶏卵商2    山五
丸音
下駄はきもの2    
書 店2    
綿 商2    
古物商1    
糸類商1    
材木商2    
石材商1    
時計商2    写真店1を含む
旅人宿3    
料理飲食店10    
米穀商13    
製米業3    
繭 商5    
養蜂業1    
公会堂1    
席 亭1    
新聞店1    
運送業4    
銀 行2    
質 業3    
合 計111戸

 この当時(大正四年)『大網案内』によれば、旧大網町の家数は五五五戸で人口三〇九一人(男一五四六人・女一五四五人)となっている。ところで、表23の総数は一一一戸で、全戸数の五分の一の家が何らかの営業を行っていることから、旧大網町の特色は江戸時代当初の六斎市以来、商業的役割はずっと変らずに近代に持続継承されたといってもよいであろう。