(3) 農村のくらしと農業の問題

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 当町の主産業は明治・大正以来、今日に至るまでも農業である。東部の海岸平野と西部の丘陵地との間に展開するなだらかな低平地が水田として利用され、「米作り」の中心となっている。気候も比較的温暖であることが農業や人びとの生活に適した自然環境であるのは、改めていう必要もないことであろう。
 次に明治以来、私たちの先人がどんな苦心をはらって農業を営んできたのか、概要をとりあげて述べておくことにする。
 明治新政府の掲げたスローガンのなかに「殖産興業」というものがあるが、これは明治時代を通して遵守されたもののようである。
 当町、中村昭家所蔵史料の中に「指示事項」という文書がある。これは、千葉県が出したものか、郡が出したものか判然としないが、おそらく文中の町村名の範囲からみて後者ではないかと推察される。
 
   指示事項
 殖産ノ発達ヲ奨励シ、国力ノ充実ヲ期スルノ急務ナルコトハ今更言フヲ俟タザル所ニシテ、各位常ニ留意奮励セラレツツアリト雖モ、今ヤ不幸露国ト開戦ヲ見ルニ至リタルニ付テハ、此戦争ニヨリ我農業ニ及ボス所ノ影響ハ実ニ大ナルモノアリ、即チ第一壮丁従軍ノ結果、実業界ノ要素タル労力ヲ減シ、第二諸費ノ多端ナル結果トシテ資本ヲ減シ、第三近年肥料トシテ最モ大部分ヲ占ムルニ支那産大豆粕ノ輸入ヲ杜絶スル等ハ、最モ顕著ナルモノニシテ、其他大小ノ事項ヲ挙ゲタランニハ尚多々アルベシ、左ナキダニ一方ニ軍費ノ巨額ヲ負担セザルベカラザルニ際シ、尚一方ニ斯ク実業上ニ影響ヲ被ラントス、当業者ハ勿論、我々行政ノ局ニアルモノハ須ラク熟慮討究シテ、善後ノ方策ヲ講ゼサルベカラス、依テ左ノ方法ニ従ヒ、本年稲作改良及ビ害虫ノ駆除、其他必要ノ事項ヲ励行セントス、各位ハ部下吏員及当業者ヲ統率シ、所期ノ目的ヲ達センコトヲ努カセラレンコトヲ望ム、
 第一 稲作改良三要項(塩水撰種、短冊形苗代、定規植)ヲ実施スルコト、
  本件ハ郡内三十二ケ町村中二十ケ町村ハ已ニ三十六年迄ニ九歩以上ヲ実行シ、其表彰ノ賞旗ヲ得タルモ、本年ハ尚一層完全ノ成績ヲ得ンコトヲ期セラルベシ、
  左ノ十二ケ町村ハ本年ニ於テ必ス実行センコトヲ期シ、此春季ニ於テ農事講習会ヲ開キ、一般当業者ノ思想ヲ開発シ、併セテ諸般ノ準備計画ヲ怠ラザルヲ要ス、
 丘山村、大和村、土気本郷町、白里村、豊海村、片貝村、正気村、豊成村、鳴浜村、南郷村、上堺村、福岡村、
 第二 稲作害虫駆除予防ノ事、
  害虫ノ稲作ニ及ボス影響ハ、各位既ニ実験スル所ニシテ、其損害高ハ実ニ驚クベキモノアリ、今試験場ノ成績其他調査ノ結果ニヨレバ、通シテ一割内外ノ損失ヲ免レサルモノノ如シ、仮ニ本郡ノ平年収穫量十七万石トシ之ニ対シ、年々一万七千石ヲ損失シツツアルモノト推定セサルヲ得ス、故ニ害虫駆除ノ結果、此半額ヲ回復シ得ルモノトセハ、其額八千五百石ニシテ、一石ノ値拾円トスレバ八万五千円ノ増収ヲ得ルナリ、之レヲ町村ニ平均セバ二百六十石余、其価二千六百余円ヲ得ラルベキ概算タリ、豈ニ惧レザルベケンヤ、
 右ノ次第ナレバ、単ニ稲作改良方法ヲ実行スルモ、其害虫駆除、予防ヲ怠ルアランカ、到底完全ノ収量ヲ得ル能ハサルノミナラス、稲作改良ヲ行ハサルノ不利不得ナルハ其人一個ニ止マルモ、害虫駆除ノ行否ハ延セテ一村一郡ニ及ボスニ止マラス、其利害ハ全ク社会ノ安危ニ関ハルモノナレバ、戮力以テ之ニ当ラザルベカラズ、此ヲ以テ本年モ前年ト同シク、県庁ハ害虫駆除ノ命令ヲ発セラルベキニ依リ、各町村ハ予メ左ノ要項ニ依リ準備計画ヲナシ、機ヲ失セズ実行セラルルヲ要ス、
 一、害虫駆除予防ニ関スル講話会ノ開催、
 二、前年浮塵子ノ発生シタル土地ハ、作道又ハ畦畔ノ雑草ヲ焼棄スルコト、
  本項ハ二月下旬ヨリ三月上旬ノ間ニ於テ、各大字一定ノ期日ヲ定メ、共同シテ行フモノトシ、当日ハ町村及農会役員立合ヒ監督スルヲ要ス、但シ此期日ヲ定メタルトキハ、予メ郡役所へ通報スルヲ要ス、
    (中略)
 五、苗代及本田ニ於ケル採卵及螟蛾ノ捕獲、枯レ穂ノ抜キ取リ等ハ、前年ノ指示ノ通リ実行スルコト、
 六、学校生徒ノ螟卵、螟蛾ノ採取ハ児童ニ実業志(ママ)想ヲ注入スル点ニ於テ、又駆除ノ目的に於テ利スル所尠ナカラサルニ付キ、成ルヘク之ヲ勧誘実行スルコト、
 第三 肥料ノ不足ヲ補充スルコト
  肥料ハ農家資本ノ欠乏、又ハ大豆粕輸入ノ杜絶等ニ依リ、著シク減少ヲ来タスベキノ虞アルニ付、左ノ事項又其地適応ノ方法ニ従ヒ補充ノ策ヲ講セラルヲ要ス、
 一、堆肥ノ製造ヲ出来得ル限リ奨励スルコト、
 一、田畑周囲ノ余地、又ハ桑畑、麦畑等ノ間作トシテ、此春季ニ於テ蜿豆(ママ)、蚕豆、又ハ大豆ノ類ヲ蒔キ育テ、緑肥ヲ製造スルコト、
 一、堆肥ノ原料又ハ緑肥トシテ左記ノ諸物ヲ採取スルコト、
    山野ノ雑草、萱、小笹、樹木ノ若芽類、河海ノ藻類、
  一、可成溝泥等ヲ蒐集シテ、土肥ヲ製スルコト、
 
 こうしてみると当時の農村では害虫駆除の問題がかなり大きな問題で、現在のように農薬が進歩した時代では想像できないような苦労が多く存在した。
 明治三十七年八月十五日から三十一日にかけての害虫駆除報告(清名幸谷)がある。
 
   (明治)三十七年自八月十五日至同月三十一日害虫駆除報告     増穂村役場宛
 一、八月十五日ヨリ同月三十一日迄清名幸谷南北両区共同シテ誘蛾燈ヲ点火ス、此間捕虫網及ヒ鎌ヲ兼用ス、
 一、八月廿二日ヨリ同月三十一日迄各自便宜ヨリ誘蛾燈ヲ点火及ヒカガリ火ヲナス、此間捕虫網及鎌ヲ併用ス、
    器具  ケ数左ノ如シ
 一、誘蛾燈  百七十ケ
 一、鎌    百丁
 一、捕虫網  百二十ケ
 一、タキ火  二百四十ケ所
    右之通リ、
  追申
 一、八月十日、十一日共同シテ捕虫網ヲ以テ捕虫ヲナス、此延人員二百弐十五人ニ、之ラ捕虫網ヲ用ヒタル初トス、
 一、八月十三日、十四日共同シテ誘蛾燈ヲ点ス、此時新調ノ燈ヲ試ム、十四日夜郡長外四名ノ郡吏来看アリタリ、
 一、九月八日浮塵子捕虫ノ為メ、一種格別ノ趣ヲ以テ誘蛾燈ヲ点ス、此日区民老幼一同ヲ清谷校ニ会シテ戦捷ヲ祝フ(飲酒ヲ禁ス)、提灯行列ニ傚テ燈ヲ点シ、軍歌ヲ唄ツテ耕地ヲ巡行スルコト数回、深更ニ至テ止ム、亦一奇看ナリトス、
   (中略)
 一、本年度已ニ支出シタル費目ハ左ノ如シ
  金十二円六十銭  誘蛾燈ブリツキ製六十ケ代
  金拾円九十六銭  捕虫網用ノカンレイ八反代
  金五円六十銭   トタン製燈廿ケノ代
  金弐十三銭    ランプシン(芯)及ヒ、ハリカ子ノ代
  金弐円八十銭   鎌百丁代
  金壱円六十七銭  石油壱カンノ代
    計金三十三円八十四銭
 右併テ報告ス
   三十七年九月二十二日
                             増穂村清名幸谷
                               害虫駆除予防委員
                                 中村泰助
                                 鵜沢一郎
   増穂村助役
     中村豊三郎殿
 
 当時の農業にとって(米作)害虫は、旱害などと共に最も恐るべきものであった。害虫のために一年間の収穫の約一割以上を失うということは大問題であって、そのため地域の学校もこれに協力して害虫駆除にあたった。
 また、ラジオもテレビも無い時代であるから他の地域でどのような農業をやっているのか知りたいと思っても、なかなか出ていくことは不可能であったらしい。
 中村昭家所蔵の「漫筆」第一(克己堂主記)の山武郡の当町周辺(当町域も含む)の町村の稲作状況の調査紀行は、この当時の農村の様子もわかり面白いので次に引用する。
 
    漫筆        克己堂主記
  明治三十五年九月十七日山辺村、成東、日向、源之各町村縄張植実地調査ノ任ヲ受ケ出張セリ、同日午前山辺村役場ニ至レバ斎藤幹事先ニ在リ、暫時休憩ノ後江沢氏ノ案内ヲ以テ同村各区域ニ入ル、先ツ金谷区ノ一部ヲ経而沓掛ニ至リ見ルニ、(中略)此辺一帯密植ノ弊アリ、有志者奨励ノ為メ七段歩位ノケ所八寸角位ニ植付セシメタリ、其ノ発育他ニ比類ヲ免ズ、将来疎植シテ収利アルヲ好ムノ時、近ニアルベシト思ヘリ、隣リハ丘山村山田ニシテ畦畔一重ニテ境ヲ為シ、沓掛ノ水田ト称スルハ僅ニ此辺ニアル迄ナリ、同谷ノ人家拾壱戸ニシテ農産物ノ重ナルハ畑ニアリ、晩菜、陸稲、繭等ノ収穫尤モ多キヨシ、夫ヨリ本金谷ニ移リ、此辺一面ニ縄張植ヲ為シ、土壌モ大概粘土ニシテ土地尤モ肥沃ナリ、反歩収穫ノ割合大凡七~八俵ノ見込ヲ立タリ、夫ヨリ坂ヲコヘ鞍見坂ヘ出テ、南玉ニ至リ中食ス、午後一時発シ池田ニユキ見ルニ、同区甚タ冷淡ニシテ僅ニ縄張植ヲ見タルノミ、全反別ノ四分位ナランカ、而シテ南玉ハ全反別皆縄張ニシテ尤モ念ヲ入レ、(中略)同区ノ熱心家某ニ合(会カ)ヒ、其ノ普及ノ至難ナルコトヲ述ベ、且ツ丹精家ナルヲ賞シ、大竹区ニ超ヘ此ノ区一般ト見テ可ナランカ、稀ニ乱雑ヲ見ルニ過キス、妙(名)・真行・安楽寺等点ニ見ニ過ズ、是レニテ山辺村ノ調査ヲ終ヘタリ、江沢氏ト別ヲ告ケ各帰宅セリ(下略)
  附言 餅木区ハ総反別中二、三反位ナルベシトテ案内モセザリシ、
    山辺村区域 金谷、餅木、池田、南玉ノ四区ナリ、
    山辺村ハ総反別三百拾余町歩ニ対スル、二百町歩強ト見ラレタリ、
 
  この後、成東、日向、源村等の巡見記があるが、当町のこの記述部分と関連性がないので省略する。
 当時大網白里町に含まれる旧町村に限らず、農村はいろいろな工夫改良を実施している。ここにあげたのは、技術面のことであるが、山辺村を巡視してまわった様子がよく記されている。これは明治三十五年のことであるが、明治時代の雰囲気がよく出ている。
 しかも、どんな技術的に良い方法を奨励しても普及していかないということは、農業のひとつの特色でもあり、特に自然に依存している度合(天水)が強ければ強いほど、先例に依存し、あまりあたらしいことにとびつかない傾向が、この記述にもよくあらわれている。
 明治から大正にかけ当町域の町村が農業面でどんな特色をもっていたか、次にまとめておくことにする。
 旧瑞穂、ここでは農業を主とするも、商業・工業に従事するいわゆる兼業のはしりのようなものが見られている。養蚕が盛んであり、果樹栽培として柑橘類、枇杷が知られていた。林業に従事する家もあり、薪炭の生産も行なわれている。高収入を求めての多角経営、商品作物の栽培という傾向が出はじめている。
 大網、中心は商業地であるがその他は農業地帯である。土地肥沃のため穀類が多く生産され、養蚕が副業として盛んに行なわれている。柑橘の栽培、養鶏が盛んで鶏卵の出荷も多い。
 山辺、この地域は南白亀川と真亀川の源流地域にあたり、低平地の多い当町域の中では比較的丘陵性のある地域である。したがって農業でも、前掲の『漫筆』に記されているとおりである。水田は当町域内でも比較的少なく、繭、鶏卵、薪炭の生産が盛んであった。
 増穂、土地が農業に適するため農業が盛んな地域で、蔬菜果樹の栽培に尽力している。果樹としては柑橘類、梨等を栽培している。蔬菜の栽培、果樹の栽培いずれも山武郡内の最先端をいっていた。
 福岡、当地域の人びとは大部分が農業に従事し、主として米作り中心の農業地帯である。他方では養蚕を行う農家が出てくる一方、木綿機業に従事するものが多くなり漸増の傾向を示している。これは上総木綿といわれ、江戸時代末期から高機(たかばた)という手織機を用いていた。当村はその生産地のひとつであった。
 白里、漁業が中心であるが、戸数からみれば白里でも当時農業は六百三十八戸、商業は百八十七戸、工業百八戸に対し、漁業は十六戸であるから、農業の面でも当地域に関してふれておく必要があろう。ここは土地が砂質で保水力が土地にないため、水不足の影響をすぐに受けるが、その他の条件はよく、米、落花生、さつまいもの栽培を主体としている。副業としては養蚕、上総木綿の機織り、鶏の飼育が盛んで、鶏卵の出荷では七十万四五三〇個で、当時の当町域内町村中では第一で、次は瑞穂の二五万二五八〇個である。ここにあげたのは『山武郡郷土誌』大正五年刊行のものを参考にしたのであるが、すでに大正初期に於て、当町内の旧町村でもさまざまな変化がみられはじめていることがわかる。