(4) 商・工業の問題

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 大網白里町は明治・大正期にかけて、旧町村、及び周辺部の商業の中心地であった。その根源は前時代以来の六斎市にあり、近代に至っては大網宿の南町・本町・新町(所謂大網三宿)の市街地に住するものは大部分商業を営み、明治二十九年鉄道開通以来交通の便の発達とともにその機能はさらにたかまった。
 金融機関としては、東金に本店を持ち大野伝兵衛が経営する「合名会社大野銀行大網支店」が明治四十一年三月当町に支店を出し、大正二年より当町富塚慶三が支店長となり、安定した経営ぶりを示していた。他のひとつは、東京に本店のある株式会社第七銀行大網支店が大正四年より当町に支店を出している。このような金融機関が進出する意味は、それ相応の金銭の流通が当町に存在したということで、その内容を考えるに、養蚕が盛んに行なわれ、東金、横芝、大網が繭の売買の拠点であったことによるものであろう。一例をあげると大正四年大網駅より出荷された繭は貫数で七万六千六百八十貫にも達し、金額で当年相場一貫目五円で、総計三十八万三千四百円になる。
 商業が盛んな町といっても、当時の大網町は『大網案内』によれば、農七・商三の割合になると記されている。したがって当町より出荷されるものも当然農業によって得られた商品作物が主体であり、そのマイナス点は消費地(都市)の景気のよいときは調子がよいが、不景気になると真先にそのあおりを受ける危険性を有していた。事実第一次世界大戦後の不景気あるいは昭和恐慌は当町にもかなりの打撃を与えた。

写真 大網町の商店と店内のようす (『大網案内』大正5刊)
 
 当町を含む山武郡全域が当時は商業がそんなに盛んな地域ではなかったが、次表25にあげた三町村で大網は前時代以来の商業の中心、白里は当時総戸数でもわかるように、東金・片貝につぐ大村であった、という特色をもっていた。
表25 大正4年の当丁域における商・工業
 分類
旧町村
総戸数商 業工 業備 考
大 網648戸182戸117戸
福 岡600    54    14    
白 里1085    187    108    
2333    423    239    
注)  ここにあげない旧村は,統計に計上されていないものである。
『山武郡郷土誌』

 また工業面から当町域をみると、農業や漁業を主体とした地域であるため「地場産業」のひとつとしての工業としてそれをみていくことができよう。この面からみると「上総木綿」が前時代から継承した産業としてあげられる。そのはじまりは『山武郡郷土誌』によると、文化年間茂原の商人等が来て、その丈夫さを特質として売り出し実用的であることが注目されたのが契機であったという。幕末の安政年間には高機と称する手織機を用いて大量に生産することができるようになったが、世の中がぜいたくになりこうした実用的な品物の需要は低下し、ややおとろえたが明治・大正に入り織り方の工夫、染色の工夫を加え再び盛んに利用されるようになった。生産地としては、豊海・白里・福岡・正気・片貝・増穂があり、大正元年の統計では二十三万三千九百六十一反、価格で十九万二千十八円も売りあげたと記述されている。

写真 上総木綿の生産 (『地方資料小鑑』 明治44刊)
 
 またこの他の工業をみると、工業といっても白里地域にみられる魚の加工工業である。この内容については漁業の問題のところでとりあげてあるので、くわしく述べる必要はないと思うが、『山武郡郷土誌』の記述によれば、海産物の加工として「田作」、「煮干し」、「干物」類などがあげてあるので、これらの加工を行った施設が工業の中に入れられる。