十一 徴兵令と日清・日露の戦役

787 ~ 793 / 1367ページ
 明治維新後、日本は幕末外交における西欧の強力な軍事力を手本にして、「富国強兵」のスローガンを掲げ軍事力の強化に力を入れた。
 はじめは江戸時代の士・農・工・商の身分制度を活用し、「士族」による軍隊づくりを考えたようでもあったが、先覚者はこれに反対し、「国民皆兵」の方向にすすんだ。このため「旧武士」クラスは新政府の方針に大いに不満をもった。この提唱者といわれている大村益次郎が暗殺されたのも、こうした背景をもってのことといわれている。しかし、当時の為政者が、アメリカもイギリスも中国も実施していなかった徴兵制の実施にふみきったことは、当時の人びとにとって幕末の諸外国の軍事力を背景にした圧力が、いかに強烈に認識されていたかということと関連があろう。
 明治五年(一八七二)十一月二十八日徴兵制を施行するため「徴兵告諭」が発布された。約一千字近い長文の中に、わかりやすいようにと配慮された文面が逆効果となり、反対論者のいいがかりをつける根拠となってしまうようなことも種々存在した。たとえばこの告諭の文中に「凡そ天地の間一事一物として、税あらざるはなし。以て国用に充つ、然らば即ち人たるもの、心力を尽し国に報ぜざるべからず、西人之を称して血税といふ、其の生血を以て国に報ずるの謂なり……。」というところをとらえて、「政府は徴兵された士卒の血で旗や帽子、毛布を赤く染める……。」とか、農民は徴兵で生血を吸われては生命がないなど、いろいろあり、たまたま同年学制頒布があったことと関連づけて「小学校は徴兵のために人を騙す所である。」とか、現時点からみると全くおかしげなことをまじめにとりあげている。国民の知的水準が低かったための結果、煽動者の思うつぼにはまったということであろう。地方によっては徴兵制や教育令反対の一揆までおこっている。
 しかし、他の一面からみると、このような反対運動を、煽動者に操られた「バカ」げた行為とのみ評価はできない。それは知的水準が低くても、理解力がなくても、生活を守るという観点から働き手を国にとられてしまうということは事実であるので、そうしたことへの不安を感じとったことが反対運動への根底に存在したことは認められるであろう。
 こうした経過とは別に徴兵令は断行され、日本国民は(男子)六歳で小学校に入り、十歳で高等小学校にすすみ十四歳で中学に入り、二十歳から三年間兵役に従事するという制度が確立していった。
 全国に、東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本など六か所の鎮台(後の師団)が設けられ軍備は拡張されたが、中味は不十分なもので、国としては大至急兵卒を徴集する必要があった。しかし集められた兵卒は洋服(軍服)をはじめて着用する者が九十パーセント以上をしめていて、身体に合わない軍服を着ているおかしな様子は、マンガで揶揄(やゆ)されたりした。このことは同時に徴兵制度に反対した士族階級からも白眼視される一因ともなった。
 こうした諸事情を一挙にくつがえしたのは明治十年(一八七七)二月にはじまった西南の役であった。中心人物は明治維新の三傑のひとりであった西郷隆盛であり、率いる兵は勇猛をもって知られた薩摩隼人で、彼らは徴兵令で集められた鎮台兵などを軽視して「おひゃくしょうの弾丸(たま)など当るものか」という意気ごみであった。ところが薩摩方は近代的兵備と軍事訓練できたえられた兵卒の前に苦戦し、ついに敗退したため、世の中の人びとの認識を大いに改めさせる結果となった。
 千葉県からは佐倉の連隊が出動した。当町からは、清名幸谷の中村寅造、四天木の高山仙蔵の両名がこの戦役で戦死している。
 この後日本はさらに軍備を強化していくが、ドイツの兵制をとり入れて、従来の国内の争乱を鎮圧するための軍隊から外征も可能な軍隊へと変質し、陸軍と海軍が互いに強力な装備を整えていくようになった。しかしそれでも西欧の軍隊から比較すれば規模も小さく、どれだけの力を発揮できるかは未知数であった。
 こうしたなかで、中国と日本は朝鮮半島の利権をめぐり対立が表面化した。当時の日本は朝鮮から食料(米・大豆)や金地金(きんじがね)を大量に輸入していた。そのため朝鮮国内の物価があがり日本への反感があった。しかし一方では、日本の明治維新以来の目ざましい近代化を評価する親日派があり、国内で中国をたよりにする一派と対立していた親日派は日本を手本にして、旧習にこだわる朝鮮国内政治を改革しようと考え、明治十七年十二月にクーデターを断行し一時成功したが、親中国派が清国兵の応援を得てもり返し、日本公使館は暴動のために焼打ちされた。この後、朝鮮国内の政治に対する中国(清国)の影響は大きくなり、やがて明治二十七年(一八九四)東学党の乱が発生した。「東学党」とは西洋の文明を否定する運動集団で、一種の国粋運動であったが、これが大規模な反乱となって朝鮮全土に拡大したため、朝鮮政府はこの鎮定を清国に依頼した。当時中国と日本の間には「天津条約」があり、一方が朝鮮に出兵するときはそれを相手国に知照するというとりきめがあり、中国政府は日本に出兵を通知すると同時に、日本の出兵には賛成しない姿勢を示し、この通知の文中に「属邦を保護するの旧例に従い……。」とあったため、日本政府は態度を硬化させた。相互に朝鮮を独立国として認めることの上で成り立っていた約束が無視されたためであった。
 こうして、明治二十七年八月日清戦争がはじまった。「東洋の眠れる獅子」といわれた中国(清朝)は大国である。しかしそれ故に日本を明治維新以来の西洋かぶれの小国民と侮ったことが、日清戦争に至る外交交渉面に多々あらわれている。ところが当時の明治政府の中心にあった人びとも、軍の上層部も明治維新の激動期を生きぬいた人びとであり、外交面でも、幕末に締結された不平等条約で苦労した体験が、政府、軍事の他あらゆる面で総合的に生きてはたらいた。また一面では、こうした大国を相手に戦って大丈夫かという不安が、むしろ用心深さとなり、予想外の戦果をあげる結果となり、この戦争を勝利のうちに、終結させることができた。
写真 日清戦争における旅順の戦いの奉納絵馬(南今泉 稲生神社)
写真 日清戦争における旅順の戦いの奉納絵馬
(南今泉 稲生神社)
写真 下関条約締結の絵馬(南今泉 稲生神社)
写真 下関条約締結の絵馬
(南今泉 稲生神社)

 しかし、この戦後処理問題を協議する「下関講和会議」の結果は、ヨーロッパでの軍事大国ロシア・フランス・ドイツ三国の「干渉」をひきおこし、日本は三国の提言に従った。ところが「東洋平和のため」といって日本から中国に還付させた遼東半島はロシアの手にわたり、北清事変を契機に満州に進出して撤退しないロシアの現況をみて、イギリスのようにヨーロッパ諸国の中でアジアに植民地をもつ国はこれを危険視した。やがて日本はイギリスと「日英同盟」を結び、明治三十七年二月世界の大陸軍国ロシアとの戦争に突入した。物量を誇るロシア軍を前にして陸に海に苦戦は続いた。
 やがて明治三十八年三月の奉天会戦、同年五月の日本海海戦で勝利を得た日本は、アメリカのルーズベルト大統領の仲介によりポーツマスで講和会議を開催して、日露戦争を終結させた。
写真 ポーツマス講和会議の奉納絵馬(南今泉 稲生神社)
写真 ポーツマス講和会議の奉納絵馬
(南今泉 稲生神社)
写真 四天木の凱旋記念奉納額(四天木 稲生神社)
写真 四天木の凱旋記念奉納額
(四天木 稲生神社)

 日露戦争が日本の国力に過ぎた戦争であったことは、当時の指導者も、上級の軍人も十分知っていた。戦闘も有名な旅順二百三高地の激戦にみられるように多くの戦死者を出した。当町の戦歿者名簿をみても日清戦争とは比較にならない数の戦死者数が記されている。
 それだけ為政者も上級の軍人も、早くこの戦争を終結させたいと望んでいた。このことは今時太平洋戦争との大きな相違点でもあった。
 したがって、戦争がおわったことは大きなよろこびでもあった。上の写真にみられるように無事帰還できた人びとは、神様のおかげであるとして、神社に氏名を記した奉納額を掲げた。
 しかし戦争に勝ったということは相手から賠償金を得ることだと、単純に考えている人びともあった。そのためポーツマス会議の内容が伝えられると小村全権大使を非難したり、暴動をおこしたりした一部の国民もあったが、これは戦争の意味するものを知らなかった人びとの軽挙であったといってもよいであろう。現実はそんなに甘いものではなかった。当町富田尋常小学校(現、増穂小)の「沿革誌」には、明治三十七年のこととして、「日露戦争の為本村富田区ヨリ出身従軍者左ノ如シ、第一軍近衛歩兵第四聯隊三枝正三郎、第一軍近衛歩兵第四聯隊第一中隊今関助三郎、後備第二師団第三野戦電信隊横左内良助、第三軍野戦砲兵第二旅団第十七連隊第六中隊三枝重作、(下略)」と十一名の出征者の名が記されている。またここにあげた兵士への戦地に向けて富田尋常小学校ヨリ慰問文を発送したことが「沿革誌」中に記され、明治三十八年七月十九日の調査で発送数二〇四通、戦地の軍人からの返事の手紙数一二八通と記されている。
 また明治三十七年六月八日には増穂村清名幸谷出身の大原治平の戦死による村葬の挙行、以降十月十日南横川地区の北田源之丞、明治三十八年四月二十三日には南飯塚の小倉近芳、同年五月十五日富田の三枝正三郎、同年五月二十一日南横川の中古鑑一、六月十一日には清名幸谷の中村繁、七月十日には田中六三郎などの諸氏の村葬が続いている。「沿革誌」にこうしたことが記されているのは、村葬にあたっては、児童が先生に引率されて参加したためである。
 また当時の大網尋常小学校の「沿革誌」には、「明治三十八年五月三十日、日本海ノ海戦大勝利ヲ祝スル為、生徒ヲ引率シ旗行列ヲ執行ス。」とあり、地方の人びとが如何にこの戦勝を喜んだかが判る。なお同年八月五日の記事には「当町出身ノ兵士ニシテ戦死ヲ遂ゲラレシ加藤広司幷ニ病歿サレシ斎藤峯四郎ノ両氏ノ為メ宮谷本国寺ニ於テ葬儀執行セラルニ依テ、児童ヲ引率シ会葬シ弔意ヲ表ス、」さらに九月二十九日の記事には「教育上参考ノ為児童百五十人ヲ引率シ、習志野ニ至リ俘虜収容所ノ露国兵ヲ参観シ即日帰校ス」とある。
 戦争は多くの尊い人命を犠牲にして、ともかくも日本優位の形で戦争終結をむかえた。しかしその後の日本人には単に同胞の生命の犠牲のみではなく、戦争を勝ち抜くための外国からの借金の利子支払いという問題が大きな影をおとした。戦争に勝って世界の一等国の仲間入りをしたが、国家財政面ではかなりの負担であった。これが解消したのは約十年後におこった第一次世界大戦(大正三年―一九一四)で、ヨーロッパが戦場になり日本がそれまで培った工業力がものをいったため、日本経済が空前の好景気をむかえた結果によってであった。