(1) たかまる教育への関心

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 明治二十年以降の日本の教育は、中央集権的な雰囲気を強くただよわせ、中央政府の政策のひとつとしての教育行政面でも、政府の施策が日本国内のいたるところの町村にもゆき届くような体系化がはかられた。
 県においても、トップは知事で、その下に大書記官がいて、学務課長がおり、その下に属というポストがあり、この一連の組織が中央の意向をうけて地方にあって(県段階)その政策を忠実に実行していった。県より下の郡の段階においては、県下の各郡長が県からの指示をうけて管下の町村へ通達を発し、町村では学事世話掛や学務委員が中心となって、指示、通達を実行していった。後に明治三十年からは郡視学がおかれ、学校教育に関する仕事を一括しておこなうようになる。
 また、この当時の教育上の特記すべきことは、明治二十三年小学校令が改正され、この年十月三十日教育勅語が発布された。これは今次太平洋戦争で日本が敗戦の日をむかえるに至るまで、ながく日本教育の指針であった。当時の教育が、この勅語の内容の具現化を目ざしていたといっても過言ではない。
 この頃の当町の教育の様子はどうであったか。「山武郡大網高等小学校沿革史」がよくこのあたりの事情を記しているので次に引用する。
 
  山武郡大網高等小学校沿革史  校印
                          (現町立大網小学校所蔵)
    創設
  明治二十四年十二月八日其筋ノ認可ヲ得テ本校ヲ創設ス。
  是ヨリ先当学区内ノ有志ハ、夙ニ小学校教育ノ忽ニスベカラザルヲ認知スルト共ニ、尋常小学校ノ教科ヲ子弟ニ履修セシムルノミニテハ、到底社会ノ進運ニ伴ヒ国家ノ義務ヲ負ヒ、個人ノ権利ヲ保証シ独立自営ノ覚束ナキヲ感シ、時運ハ既ニ高等小学ノ設置ヲ促シツツアリトテ、経費ノ予算ヲ立テ檄ヲ学区内ニ発シ、其賛襄ヲ求メタリ、其文ニ曰ク、我等ハ夙ニ地方ノ少年子弟ガ纔(わずか)ニ尋常小学課程ヲ卒ヘ、猶進ンデ修学ノ篤志アルモ適当ノ校舎ナキガ為メ、已ムヲ得ズシテ廃学スルニ至ル者多キヲ見テ、深ク慨嘆に堪ヘザルナリ、今日ノ少年ハ是レ次代ノ国民タリ、其智識ノ如何ハ直ニ町村ノ行政ニ及ボシ国家ノ隆替ニ関ス、其責任ヤ重ク其ノ希望ヤ大ナリ、然ルニ今ヤ此ノ如ク教育ノ進路ヲ妨ゲ、学問ノ前路ヲ塞ギ、而シテ個人ノ発達ヲ望ミ国家ノ隆昌ヲ期ス、豈百年河清ヲ待ツニ異ナランキ。
  今ヤ尋常小学校卒業生年々増加シ、既ニ這回ノ試験ニテ当試験組合中百数十名ヲ出スニ至レリト、其中或ハ実業ニ従事スル者アレドモ、多クハ其方向ニ迷ヒ、終ニ修学ノ順序ヲ誤リ、円満ニ知徳ノ修養ヲ加フルニ能ハザルニ至ル者多カラン、小年子弟ノ不幸焉ヨリ大ナルハナシ、我等座視スルニ忍ビズ、専ラ是等少年子弟ニ便宜ヲ与フル為メ、一高等小学校ヲ此地方ニ設置セント欲シ、先之ヲ大網町内有志者ニ謀リシニ、有志賛同各多少ノ金円ヲ寄附シ、其創設費ノ如キ稍不足ヲ告グルナキニ至レリ、我等ガ熟々考フルニ高等小学校ノ今日ニ必要ナルハ、啻ニ大網一町ノミナラズ、各町村皆之レガ設置ヲ希望スルノ情同一ナラント信ズ、其今日ニ至ルモ未ダ設置スルコト能ハサリシハ、区々孤立ヲ欲シテ終ニ経済ノ許サザルガ為ニ職由スルニアラザルナキカ、果シテ然ラバ五町村相連合シテ、此ニ一校ヲ創立スルハ復止ムヲ得ザルコトニシテ、相互ノ便宜尠カラザルベキナリ、
    (以下略)
 
 この「沿革史」にみられる大網高等小学校設置のいきさつを記した部分をみると、明治二十年代のはじめで、すでに当地の人びとがいかに教育の大切なものであるかを認識していたかということがよくわかる。「偉くなる」ということは即ち「程度の高い教育をうけること」と切りはなしては考えられない明治時代の教育観がよくあらわれている。
 しかし、高等小学校を設置するのは大変費用がかかる。そこで高等小学校はいくつかの町村が連合して設置する。前掲の引用文中にも、従前は自分たちの地域のことだけを考えて、自分たちの地域に高等小学校を設置しようと計画したが、実現しなかったことが記されている。
 この文の後半の省略した部分の中に、大網町、土気本郷町、山辺村、瑞穂村、増穂村五町村組合高等小学校建設の稟請を明治二十四年七月二十五日に県に提出したと記されている。
 自分たちの地域の子どもたちのために高等小学校を建設しようという考え自体、すでに「小学校は徴兵云々……」という初期の考えと大きく変っていることがわかる。次に高等小学校設置のための規約が「沿革史」中にあるので引用する。
 
    高等小学校設置の規約
    組合会議ノ組織
 一、組合会議員ハ各町村会議員ノ互選ヲ以テ、一町村三名ヲ出シ定数十五名トス、
 一、組合会議ノ議長ハ議員ノ互選ヲ以テ定ム、
 一、議長及議員ノ任期ハ町村会議員ノ任期ニ従フ、
 一、前項ノ外組合会議ニ関スル規定ハ、総テ町村会ノ例ニ依ル、
    事務ノ管理法
 一、高等小学校ニ関スル経費ノ出納及事務ノ管理ハ大網町長ニ委任ス、
 一、高等小学校ニ関スル事務ノ為メ、各町村会ノ選任ヲ以テ各町村ニ各一名ノ常設学務委員ヲ置ク、其職務権限ハ組合会議ノ議決ニ依ル、
  (本項ハ明治二十五年九月本組合ニ於テ「設置スヘキ学務委員ニ係ル規程「組合会ノ議ニ依ル」ト改正セリ)
    費用支弁法
 一、経費ノ予算ハ常設学務委員ノ意見ヲ諮ヒ管理者ニ於テ之レヲ調製ス、
 (本項ハ明治二十五年九月削除)
 一、経費ハ之ヲ十一分シ其四分ヲ大網町、其一分ヲ土気本郷町、自余ノ六分ヲ均一ニ山辺村、瑞穂村、増穂村ノ負担トス、其賦課徴収法ハ各町村会ニ於テ議決ス、
 (本項ハ明治二十五年九月「経費」ノ上ニ「本組合ノ」四字ヲ加へ「其賦課徴収法」ヨリ以下ヲ「―シ組合各町村ニ於テ賦課徴収ス」ト改正セリ)
 この規約ができて、町村長を含む協議委員は表32のように決定された。
 
表32 大網高等小学校 設立協議委員氏名
町 村町・村長委  員委  員備  考
大網町三木孫四郎※土屋賢之輔
 小高毅雄
 板倉藤吉
 
山辺村中田徳之助 江口平兵衛
 積田惣吉
 橋本専右衛門
 
瑞穂村北條貞蔵 今井寛司
 足立源之助
※田辺蔵太郎
 
増穂村白石俊夫 三枝六弥
 北田伝左衛門
 長谷川沢吉
 
土気 
本郷町
相模啓次郎※白石権十郎
 吉原忠三郎
 吹野宮司
 
注 ※印は後の常設学務委員となった人

 この経過は同年九月二十六日山辺・武射郡長松崎省吾から許可され、同年十一月六日学校の位置指定等について当時の県知事藤島正健に上申、十二月四日県令第五十九号によって認可のはこびとなった。
 大網高等小学校が開校されると、入学申込者も多く、同年十二月十三日には山辺・武射郡長松崎省吾は書記田中素を随えて当校を巡視した。
 授業料として一人、一カ月二十五銭を徴収した。
 現在の感覚からいうと義務教育で授業料をとるということはピンとこないが、当時は一般に行なわれたことであった。

写真 四天木尋常小学校の授業料領収証
上(表) 下(裏)(四天木 内山裕治家)
 
 大網高等小学校が大網町とその周辺の村々の協力でできてから、十周年記念式典を挙行するまでの十カ年間におこったできごと、児童数(入学・卒業者数)、学校の経理を表にまとめてみた。
 表33をみると、当時この地域では大網高等小学校はかなり注目された存在であったらしく、明治二十七年には文部省普通学務局長が郡長を伴って来校、巡視した。この年同窓会が発足、翌二十八年に通信簿ができ、明治三十一年には運動会、同三十二年には遠足がいろいろ挙行され、中には、有志(希望者のことか)のみを引率して茂原・佐原・佐倉などに出かけていった。
 
表33 大網高等小学校設立後十ヵ年間のできごと
  年次
内容
明治二十五年明治二十六年明治二十七年明治二十八年明治二十九年






4・25
大網尋常小学校校長
鈴木嘉之氏葬儀
7・3
校舎増築

12・19
内務省属
岸本賀昌来校

27・2・17
一週間
修身書
予選会校長東金へ行く
4・
文部省普通学務局長
水場貞長
来校・郡長書記一名随行

11・
郡書記
板倉折枝来校

28・3
生徒心得賞罰規則を定める
同窓会発足
4・
清潔法を定める
4・
通信簿をつくり家庭との連絡を密にする
9・
監護規程を定めた、
日清戦争の戦死者、村葬へ参加
29・3
山武郡長
黒田剛巡視
5・
千葉県属
島田衷来校
6・
千葉教育会会長平山晋来校
日清戦役の記念品として銃一丁下附
9・
高等師範学校附属音楽学校助教授山田源一郎来校
御真影奉置場を新設
水曜会発足
女子部設置


入学50348278123
卒業28362821

収入六三四、〇九九八七六、八三三八八四、五一九八八七、〇一一八六六、二〇〇
支出六二九、八四一八七三、一一四八八四、二五八八七三、九九二八六四、六六〇
 年次
内容
明治三十年明治三十一年明治三十二年明治三十三年






4・
授業料月三十銭となる
5・
県知事柏田盛文巡視
10・
県視学杉山正毅来校
10・
便所一棟増築
11・
県尋常師範学校教諭
山田氏来校
31・1・18
山武郡視学川原知賀夫来校
6・
陸軍予備歩兵大尉笠川修徳
同桂田広忠来校し講演
9・9
山武郡視学川原知賀夫来校
11・4
大網蓮照寺境内で運動会を挙行
11・29
東金警察署長中山弥平氏来校
3・26
卒業証書授与式に山武郡郡長来校
4・11
土気に遠足
5・3
県視学
石井盈来校
5・10
四天木海浜に遠足
6・28
郡視学斎藤覚次郎来校
7・3
郡長檜山信邦来校
10・13
運動会と遠足を行う
32・2・23
汽車で茂原に遠足
4・26
石井校長佐原へ
10・2
土気に遠足兎狩を行う
11・10・11
佐倉に遠足
10・26
大網支会の大運動会を大網尋常小学校校庭で挙行、郡長も臨場
12・7
本校十周年記念式典を挙行


入学10495127150
卒業32325651

収入一、一八八、五〇四一、二八六、三二一一、五五八、四五四一、八五〇、九一五
支出一、一五一、五八三一、二五二、五六七一、四七七、七八九一、七一六、一六二

 また「白里尋常高等小学校沿革誌」をみると、当校は明治四十年三月に新築校舎ができあがり、全生徒を収容したことが記されている。
 明治四十年の「沿革誌」の記述の中には「本校職員、学務委員等主任トナリ、備品購求費トシテ義捐金ヲ募集シ、二五〇円ヲ得タレバ、オルガン一台、鉄銃四十挺及理化学ノ機械、薬品等ヲ注文シタリ、右寄附ノ中上代民信氏ノ二十五円、鎌田沢次郎氏ノ十円等ソノ主ナルモノナリ、二月八日前ニ注文シタル備品全部到着ス。三月十五日明冶四十一年度ニハ各部落ニ在ル仮教場全部ヲ廃シ、新築校舎ニ全生徒ヲ収容スルコトニ決定セリ、三月二十六日午後一時ヨリ新教場ニ於テ第一回学芸大会ヲ開キ、六十有余回生従ノ演芸アリ、終ツテ理化学ノ実験ヲナス。此ノ日来賓トシテハ村長、村会議員、役場員、児童ノ父兄母姉等百有余名ナリキ(下略)」
 この記述ひとつをとってみても、当地の人びとの小学校教育になみなみならぬ関心のたかまりがうかがわれる。
 また、三月廿日の記述には、教育資金、壱千円貸付ノ件が許可されたとある。
 こうして地域の人びとが学校教育へ関心をたかめ、寄附行為をして学校の教材備品が整備されていくと、これを狙う人間も出てきた。
 大正時代に入ってからの記録であるが、県の刑事課がまとめた「県下学校盗難一覧表」の中に、当町白里尋常小学校の盗難被害記事がみえる。すなわち「四月五日自午後八時、至翌前五時、万年筆一本、検温器一、木綿反物二反、価格合計七円位、外ニ現金七十二銭、鍵の不完全ナ硝子戸ヲ開キ忍ヒ入リ、職員室机ノ抽斗ヲ小刀様ノモノニテ破壊シ窃取ス――未検挙」とあり、この年度中に全県下で三十一件の事件があったことが報告されている。
 明治後半期は当町の旧町村で地域の人びとの教育への関心がたかまることを背景にして校舎が新築されたり、増穂小学校のように合併をはたした後に尋常高等小学校になったりして発展期をむかえる。

写真 白里小の増築記念
 

写真 白里小学校
 
 『瑞穂教育のあゆみ』(瑞穂小学校刊行・昭和四十三年十一月)をみると、明治三十八年金坂健蔵が村長に就任すると、役場吏員、村内有力者を瑞穂小に招集し、村政の五大方針を提示した。そのなかの第二が教育をして益々普及ならしむることであった。内容は、「国の盛衰は教育の隆否如何に在る事は吾人の言を俟たず、校舎未だ建築するに至らざるのみならず、学校と家庭との連絡を欠くが故に、子弟の教養及訓練上往々齟齬するの点なき能はず、此の如きは小学校令第一条の趣旨に反するものなれば、同一轍に出でしめん事を講ぜざる可らず」とある。これなど村政の当事者としての教育観がはっきり示されている点が特に注目されよう。村長がこうして教育への関心を説けば、当然村民もこれにならい関心を寄せるのは自然のなりゆきともいえよう。当時、瑞穂小の就学率は八十八パーセントから九十パーセントを超えていた。
 また児童の学力も向上し、学校での学習を日記に記したものものこされている。当町南飯塚富塚治郎家に所蔵されている明治四十二年の富塚敏信の日記は、当時の学校生活を児童の立場から具体的に記録され、当時の子どもの生活、心情がよくあらわれているので、次に部分的に引用しておくことにする。
 
   明治四十二年
     日記帳    富塚敏信
 (日記帳の表紙裏)
 学校ハ八時ニハジマリ、四時間目ニハベン当、(一)
 次ニ九時ニハジマリ、三時間目ニハベン当(二)
 (一)九月十九日、日曜日天気雨此日ヨリ
 (二)十一月一日月曜日天気晴此日ヨリ
 
 (書き出し)
 九月十九日 日曜日 天気 雨
 朝カラ雨ガフッタリヤンダリシテ心モチワルイ日デアリマシタ、朝ハ七時頃ヲキテ雨ノヤンダヒマチヲ見テ水ヲオヨギマシタ、昼後マタ水ヲスコシオヨギマシタ。ソシテ四時二十分頃勉強シ、五時頃日記ヲ書キマシテ、九時頃寝マシタ、
 
 同二十日 月曜日 天気 曇・雨
 朝カラ曇ッテ居リマシタガ、時々雨がフッテイヤナ日デアリマシタ学校カラ帰ッテスズメトビワノ画(え)ト綴方ヲオバサンニ見セタ時、ジョージ(上手カ)タト、ホメラレテウレシューゴザイマシタ。朝六時半頃ニオキテ七時三十分頃学校へ行キ、一時間目ニハ修身ヲ学ビ、二時間目ニハ算術ヲ学ビ、ソノ次ノ時間ニハ読方ノ瓜生岩ガらんじゅほーしょーヲサズカッタ事ヤ、銅像が浅草公園ニアル事ナドヲ学ビマシタ、ソノ次ノ時間ニハ書方ヲ習ヒマシテ、午後二時頃家ニカヘリマシタ、帰ッテカラ義男サント遊ビ七時頃勉強シ、ソレカラ日記ヲ書キ八時頃寝マシタ、
 
 同二十一日(略)
 
 同二十二日 水曜日 天気 晴
 今日ハ早朝ヨリベントー持参ニテ九十九里浜ヘ遠足イタシ、大ソー面白クアリマシタ、
 朝五時頃オキ、六時頃学校ニ行キ、八時頃出発シテ十時頃海岸ニ着キマシタ、ソシテワカレテカラ先生ガ、ハダカデ海ヘハイッテハイケナイトイッタカラ、大ソーガッカリシマシタガ、チョード「カタテマシ」ガアリマシタカラ、ソレヲ見テアキラメテヲリマスト、ズキニ(直にカ)先生ガハダカデ海ヘハイル事ヲユルシタカラ、大イソーウレシューゴザイマシタ、ソシテ二度「カタテマシ」ヲ見テ、午後三時頃海岸ヲ出発シテ、三時半頃白里ノ学校ヘ着キオ湯ヲ御チソーニナリナドシテ、一時間ホド休ミ、五時頃白里ノ学校ヲ出発シテ木崎デワカレ六時頃家ニ帰リマシタ、
 
 同二十三日 木曜日 天気 晴
 今日ハ大イソー朝ネヲシテ心地ガワルクアリマシタ、ソレノミナラズカゼヲヒキマシタカラ、ナホ心地ガヨクアリマセンデシタ、今日ハキノー遠足シタタメニ休ミデシタ、
 朝ハ九時頃オキ、朝顔ノ種子等ヲホシテ居リマシタラ、父ガ手紙ヲ星谷ヘモッテイッテ、帰ッテカラ昼飯ヲ食ス、午後二時頃勉強シマシテ、四時頃カーマヘ遊ビニ行キ、八時頃寝マシタ、
 
 同二十四日 金曜日 天気 時々雨
 朝カラ時々雨ガフッテイヤナ日デアリマシタ、ソシテ夕方大雨ニナリマシタ、「秋キ……(不明)」朝七時頃オキマシタ、今日ハ秋キコーレイ祭デアリマシタカラ、学校ハオ休ミデアリマシタ、十一時頃林デクリヲモイデ、昼飯ヲタベテカラソノクリヲムイテタベマシタ、午後三時頃木崎へ遊ビニ行ッテ金魚ヲ買ッテ来マシタ、ソシテ五時頃勉強シ、八時頃寝マシタ、
 
 同二十五日 土曜日 天気 曇・雨
 今日ハ曇ッテ居リマシタガ夕方大雨ニナリマシタ、今日金魚ヲ二匹ネコニクワレテガッカリシタ(マ)シタ、
 朝六時半頃オキ、学校へ七時十分頃行キマシタ、一時間目ニハ算術ヲ学ビ、二時間目ニハ地理ノ青森県ヲ半分バカリ学ビ、三時間目ニハ六年ト一所ニ体ソーヲシテ、ソノ次ノ時間ニハ唱歌ヲ歌ヒマシタ、今日ハ、唱歌ノ時間ハナカッタガ、月曜日ノ唱歌ノ時間ヲ今日ヤッタノデアリマシタ、ソシテ十二時半頃帰リマシタ、一時頃カラコマシヤッテ(コママワシ)遊ンデ、九時頃寝マシタ、
   (中略)
 
 十月一日 金曜日 天気 晴・曇
 朝カラ晴テオリマシタガ、午後カラ曇リマシタ、学校カラ帰ッて金魚ニボーフラヲヤリマシタ、ウレシガッテ上ヘ出タリ、下ヘムグッタリシテ争ッテッ食ッテヲリマシタ、ソレヲ見テ面白クアリマシタ、
 朝六時頃オキ、七時頃学校ヘ行キマシタ、一時頃(間カ)目ニハ読方ヲ学ビ、二時間目ニハ綴方ヲ綴リ、三時間目ニハ図画ヲ習ヒ、四時間目ニハ算術ヲ学ビ、五時間目ニハ理科ノ「ずいむし」トイフノヲ学ビマシタ、午後二時頃帰リマシタ、ソレカリ(ラか)金魚ニボーフラヲ食ハセ、独楽ヲ廻シ等シテ、六時頃算術ヲ復習シテ八時頃寝マシタ、
   (中略)
 
 同月五日 火曜日 天気 雨・曇
 朝カラ曇ッテ居リマシタガ、時々雨ガフリマシテ、夕方カラヨホド雨ガフリマシタ、学校デ花[ ]先生ガ家ノ仕事ノ都合デ先生ヲ今日限ヤメマシタノデ、式ヲシマシタ、ソレデ今度佐久間先生ガコノ学校ヘキマシタ。朝五時四十分頃オキ、七時頃学校へ行キマシタ、一時間目ニハ伊熱(勢カ)神宮ノ話ヲ聞キマシタ、二時間目ニハ書キ方ヲ習ヒ、三時間目ハ読方ノ時間デアリマシタガ、礼儀作法ヲシナクテハイケナイトイフ事ニツイテ、イロ/\ハナシヲ聞キマシタ、四時間目ニハ地理ヲ学ビ、午後一時間目ニハ、シュー合キョークンヲイタシマシタ、ソシテ午後三時頃ニ帰リ金魚ノ水ヲトリカヘテヤッタリ、クリヲモイタリシテ八時二十分頃寝マシタ、
   (中略)
 
 十月十三日 水曜日 天気 雨・曇
 朝カラ少シズツ雨ガフッテ居リマシタガ、午後一時頃カラヤミマシタ、今日ハ「ボシンショー書(戊申詔書)」ヲオ下ニナッタ記念日デアリマシタカラ、午後二時カラソノ式ヲイタシマシタ、朝六時頃オキ、六時四十分頃学校ヘ行キマシタ、第一時間目ニハ修身ヲ学ビ、二時間目ニハ算術ヲ学ビ、三時間目ニハ歴史ノ綴方ヲ綴ッテアゲマシタ、四時間目ニハ図(図画カ)ヲ習ヒマシテ、午後二時頃カラボシン詔書ノホードク(奉読)式ヲヤッテ、三時半頃帰リマシタ、ソレカラツリガサヲコシラヘテ、七時頃勉強シテ、八時二十分頃寝マシタ、
 同 十四日 略ス
 
 同 十五日 金曜日 天気 晴
 学校デ授業ガオワッテカラ三、四年ノ女ノ裁縫ノ時間ニ女ノ先生ガ居ナクテヤレナイカラ、キノコ取リニ行キマシタ、ソレニ、三、四年ノ男ト、五・六年ゼンタイガ一所(緒カ)ニナッテ行キマシタ、
 朝六時少シ前ニオキ、六時五十分頃学校ニ行キマシタ、一時間目ハ修身ヲ学ビ、二時間目ニハ読方ヲ学ビ、三時間目ニハ図画ヲ習ヒ、四時間目ニハ綴方ヲ学ビ、五時間目ニハ理科ヲ学ビソレカラ授業ガヲワッテカラ、キノコトリニ行キマシテ、午後三時半頃帰リ、ソレカラツリガサヲコシラヘハジメマシタガ、三ツノツリガサガ十三日カラハジメテマダ出来ナイノテ、大イソー残念ニ思ヒマシタ、ソシテ七時頃勉強ヲシテ、八時二十分頃寝マシタ、(注 ツリガサとは落下傘のこと)
   (中略)
 
 十月二十二日 金曜日 天気 晴
 学校カラ帰ッテカラ紙鉄砲ヲコシラヘテ、ウチ相(ママ)ヲシテ遊ンデタイソー面白クアリマシタ、朝六時頃オキ、六時四十分頃学校へ行キマシタ、第一時間ニハ算術ヲ学ビ、二時間目ニハ綴方ヲ学ビ三時間目ニハ読方ヲ学ビ、四時間目ニハ理科ヲ学ビ、五時間目ニハ図画ヲ習ヒ、ソレカラトー番ヲヤッテ三時頃帰リ、一番ハシメニ書イテアルヨーナ事ヲシテ遊ビ、七時勉(勉強カ)シテ、七時五十分頃寝マシタ、
   (中略)
 
 十月三十日 土曜日 天気 晴
 今日ハヨイ天気デ大(ママ)イソー心地ヨイ日デアリマシタ、ソノウエ運動会ガアッテ大イソー面白クアリマシタ、朝六時頃オキ六時四十五分頃学校へ行キマシタ、ソシテ七時半頃学校ヲ出発シテ、九時ヨリ前ニ大網ノ尋常小学校ニ着キマシタ、ソシテ君ガ代ヲ歌ヒチョクゴヲホードクシ、十時頃カラ運動ガハジマリコノ本ニハサンデアル(紛失している)運動会ノ巡ヲ書イタ紙ノヨーニ、巡ニヤッテ行キマシタ、ソレデ私ハ午前ノ七番目ノ束脚(二人三脚カ)デアリマシタガ、カテナクテ大イソークヤシク思ヒマシタ、マタ昼飯ヲ食ベテ休ンデイル時ニ、イロイロナ体ソーヲヤッテタイソー面白クアリマシタ、ソシテ帰リニ万才ヲ唱エ賞品ノアマリヲクレマシタ、ソレカラ四時頃大網ヲ出発シテ五時半頃家ニ着キマシタ、
   (中略)
 
 十一月二日 火曜日 天気 雨・曇
 午前ニハ時々雨ガフッテ居リマシタガ、午後ハ雨ハフリマセンデシタ、今日モ学校カラ帰ッテ御飯ヲ食ベテシバイヲ見ニ行キ、タイソー面白クアリマシタ、朝七時頃オキ七時頃学校へ行キ、(明治天皇の)天長節ノシタクヲシタリ、唱歌ヲレン習シタリシテ午後一時半頃帰リ、五時頃シバイヲ見ニ行キ、十二時頃帰リスグ寝マシタ、
 
 十一月三日 水曜日 天気 晴 天長節
 今日ハ学校カラ帰ルトスグマタシバイヲ見ニ行キ、面白クテタトエヨーガアリマセンデシタ、マタ、大イソーカナシューゴザイマシタ、朝六時半頃オキ七時半頃学校へ行キマシタ、ソシテ九時頃カラ式ガハジマリ、十時少シ前ニヲワリ、ソレカラ五・六年ノ学芸会ガハジマリマシテ、午後二時頃オワリマシタ、帰ッテスグシバイヲ見ニ行キ、十二時頃帰リスグ寝マシタ、
 
 同 四日 木曜日 天気 曇・雨
 昼前ハ曇ッテ居リマシタガ、午後ハ時々雨ガフリマシタ、朝六時半頃オキ七時四十分頃学校へ行キマシタ、此間(このあいだ)、伊藤コーシャク(伊藤博文)が万州(満州)ノハルビンデカン国ノ人ニコロサレマシタカラ、ソノソー式ヲシテ十一時頃帰リ六時頃勉強シテ八時頃寝タ、
   (中略)
 
 同 六日 土曜日 天気 晴
 学校カラ帰ッテ巡回ブンコヲ見テタイソー面白クアリマシタ、朝六時半頃オキ七時五十分頃学校へ行キマシタ、第一時間ニハ算術ヲ学ビ、二時間目ニハ地理ヲ学ビ、三時間目ニハ遊ギ(ゆうぎ)ヲヤッテ面白クアリマシタ、ソシテ当番ヲヤッテ十二時半頃帰り、フナヲツッタリ本ヲ見タリシテ一時頃寝マシタ、
   (以下略)
 
 ここにとりあげた九月・十月・十一月の約三カ月間の子どもの生活、学校行事などが大変よくあらわれている。九十九里浜への遠足、学校でなにを学んだかが大変よく記録されている。当人が五年生であることは文中の学校生活の中で記されている。金魚を買って来たのに二匹も猫にくわれたとか、紙玉鉄砲を作ったとか、何日も続けて芝居を見に行ったり、ふな釣りをしたり、運動会に二人三脚に出場し負けてくやしかったことなどが、素朴な表現の文章ではあるがよく書かれている。明治四十二年頃、子どもは、こままわしをしたり、野山をかけ廻ったりして自然の中にいるという感じがよく出ている。それだからこそ「定形化」されている文ではあるが、内容があるという感じを強くうける。
 この日記を読みすすむと、文部省唱歌「ふるさと」の歌詞が思いうかんでくる。当町の往時の姿の一面でもあろう。
 また別の意味からみれば、伊藤博文がこの年十月二十六日ハルビン駅頭に於て韓国人安重根に暗殺される事件が発生し、一小学生の日記にも当時の様子が具体的に記述されていることなど注目すべきことかと思われる。