(2) いろいろな学校

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 日露戦争がおわったころから「実業教育」ということが問題になりだした。千葉県のように第一次産業県では「農学校」の設置ということがとりあげられ、県内各地にその気運がもりあがっていった。前項で述べたようにいわゆる初等教育の機運である小学校は一応一段落ついて、次は小学校を卒業した者が、家業との関係で専門的な知識や技術を身につけるために進学する学校が求められた。厳密に言えばもう日露戦争以前からそのような気運はあったし、設置が認められていたものもいくつかは存在した。
 当町には郡立大網工芸学校(染織)があった。これは郡立東金染織学校(明治三十四年創立)が明治四十一年に大網町に移転したものである。
 千葉県では実業教育を実施する学校として染織・商業・水産の種類があり、それぞれ地域の実態と関連して郡立あるいは、町立の学校として設置されている。その概要は表34のとおりである。
 
表34 染織学校設置当初の状況
名   称位   置設置者設置認可
発令年月日
創立年創立年度の状況備   考
学科修業
年限


教員生徒授業料校長
東金染織学校山武郡東金町
(現東金市)
郡立文部省告示 第一二八号
M34・6・14
明治34年染織2年133222235円新井宗治
銚子染織学校海上郡銚子町
(現銚子市)
郡立 同 35年染織本科3年
別科1年
3
3
314新坂宗蔵郡立銚子工業補習学校を改組する
印西女子染織学校
(現県立印旛高校)
印旛郡大森町
(現印西町)
組合立( 下 略 )
市原染織学校
(現県立鶴舞高校)
市原郡八幡町
(現市原市)
郡立( 下 略 )
大多喜興業学校
(県立大多喜女子高校)
夷隅郡大多喜町町立( 下 略 )
大網工芸学校山武郡大網町
(現大網白里町)
郡立文部省告示 第一五四号
M41・4・29
明治41年染織2年33144848104円芳永乙吉郡立東金染織学校を移転改築
松尾実業学校
(現県立松尾高校)
山武郡松尾町郡立( 下 略 )
(『千葉県教育百年史』第一巻)

 これをみると大体明治三十四、五年から明治四十一年ごろまで、即ち日露戦争をはさんで、その前後に「実業教育」のための学校が県下各地に設置されたことがわかる。その分布を地図上でみると図8のようになる。

図8 明治時代後期における県内中等実業学校所在地
 
 また当町にあった郡立大網工芸学校がどのような経過をたどり、中等実業教育を展開していたかということに関しては次の表35の染織学校の組織のうつりかわりというなかでみることができる。これはカリキュラムの概要とまではいかないが、どのような内容をおしえていたかということを知ることができるであろう。『大網案内』は大網工芸学校が松尾実業学校に併合された直後の大正四年に編さんされたものであるが、これによると私立大網実業補修学校の付属大網裁縫女学校として郡立工芸学校の跡地に大正三年四月に開設され、当時在学生五十余名裁縫を主とし、尚女子に必要な学科の教授したと記されている。
表35 染織学校の組織のうつりかわり
名   称創立年度組織の改廃・改称と学科・修業年限
学科修業年限
郡立
東金染織学校
染織二年明治三十五年度本科三年、別科一年を置く。
同三十七年専攻科一年を置く。
同四十年度専修科一年を置く。
同四十一年四月二十九日文部省告示第一五四号により位置を山武郡大網町に移し郡立大網工芸学校と改称すること認可される。
郡立
銚子染織学校
染織本科 三年
別科 一年
明治三十七年度専攻科一年を置く。同四十一年度本科二年とする。
同四十二年三月二十四日文部省告示第八四号により郡立技芸学校と改称する。学科を裁縫染織とし専修科一年を置く。
同四十四年三月二十五日文部省告示第九十号により郡立銚子実科高等女学校設置を認可され、郡立銚子技芸学校を廃する。
組合立
印西女子染織学校
染織本科 三年
別科 一年
明治三十六年度別科を廃し選科三年を置く。
郡立
市原染織学校
染織二 年明治三十七年度補修科一年を置く。同三十九年十月二十日文部省告示第一九四号により位置を鶴舞町(現市原市鶴舞)に移す。
明治四十二年度本科三年とする。同四十三年度補修科を廃し専修科二年を置く。
同四十四年三月三日文部省告示第四十五号により郡立市原実科高等女学校設置を認可され、市原染織学校を廃する。
町立
大多喜興業学校
色染本科 三年
選科 一年
補習科一年
明治四十二年度学科を色染・機織とする。
同四十三年度学科を染織とし専修科二年を置く。
同四十四年度学科を染織。裁縫とし選科二年に改める。
郡立
大網工芸学校
染織二 年明治四十一年四月二十九日文部省告示第一五四号により郡立東金染織学校を山武郡大網町(現大網白里町)に移し改称する。
同四十二年度学科を裁縫・染織とし専攻科一年を置く。
同四十三年度専攻科を廃し、別科一年、専修科一年を置く。
同四十四年度学科を染織・裁縫・手芸とする。
(大正三年四月郡立松尾実業学校に合併、廃校となる)
郡立
松尾実業学校
染織本科 二年
専攻科二年
明治四十三年度専攻科を廃す。
同四十四年度学科を染織・裁縫・手芸とし専修科一年を置く。
(大正三年四月郡立大網工芸学校を併合し山武郡立女子実業学校と改称する)
(『千葉県教育百年史』第一巻)

 ここで実業補習学校のことに少しふれておくことにしたい。当町旧大網町に明治四十四年四月開校の「私立大網実業補修学校」があった。これは郡立の大網工芸学校が女子の学校であるのに対し、男子の学校として設置されていたものである。当校の校長は井口善叔で、まとまった資料がないのは残念であるが『大網案内』の紹介を参考にすれば、当時大正三~四年で生徒は一七〇名であり、学科の程度は文部省実業学校規程に準拠して修業年限三か年の教育を実施していた。
 この実業補習学校とは、前に述べた郡立大網工芸学校やその前身の郡立東金染織学校が地場産業をバックボーンにして設置された(山武郡は上総木綿の本場であったこと)のとは多少傾向が異なっている。もっと身近な問題として小学校を卒業して徴兵検査をうけるまでの間に、農業の技術や知識を学ぶという目的で設置されたものである。しかも千葉県のような農村の多い地域では、大正期に入るとその効用が注目され各地に設置されるようになる。
 千葉県もこうした傾向に注目し大正七年二月五日、県教四〇五四号として「実業補習学校の施設方案ニ関スル件通牒」を発している。その内容は次のようなものである。
  過般所催ノ実業補習学校長会議ニ諮問相成候事項ニ対シ左記ノ通答申有之、右ハ大体ニ於テ適当ニ被認候条、御指導上将(諸カ)施設経営上御参考相成度候也、
       記
 一、実業補習学校ニ於ケル最適切有効ナル施説方案如何
   右答申
 実業補習学校ハ各種ノ実業ニ従事シ、又ハ従事セントスル者ニ適切ナル方法ニ依リ、其ノ実業ニ関スル普通ノ知識技能ヲ授クルト同時ニ、普通教育(公民教育ヲ含ム)ノ補習ヲ為スヲ以テ目的トス、随テ実業ノ教科ヲ主脳トシ、併セテ普通教育ノ補習ヲ為スヲ本旨トスルカ故ニ、其ノ施設上最適切有効ナル方案ヲ示セハ左ノ如シ、
 一 種類
  土地ノ状況ニ依リ農工商水産等ニ関スル実業科目中ノ一種、若シクハ数種ノ実業補習学校ヲ設クルコト、
 二 位置
  イ 実業補習学校ハ小学校ニ附設スルヲ本体トシ、土地ノ状況ニ依リテハ他ノ学校ニ附設シ、又ハ独立シテ設クルコト、
  ロ 一町村一校以上設置スルコトハ必要ナレトモ、場合ニヨリテハ数町村組合ヲ以テ設置スルコト、
 三 期間
  イ 通年教授ヲ為スモノ(昼間教授、夜間教授)
  ロ 季節教授ヲ為スモノ(昼間教授、夜間教授)
  以上ノ期間ニ於テ土地ノ状況ニ依リ、適切ナル各教科毎週教授時数ヲ定メ、各種ノ実業補習教育ヲ為スコト、
 四 教育
  一 教授
   イ 土地ノ状況ニ依リ教材ノ選択、排列ニ十分注意スルコト、
   ロ 生徒ノ学力程度ニ応シテ適当ナル教授ヲ為スコト、
   ハ 生徒ニハ努メテ自発的ニ研究創作ノ態度ヲ以テ学習セシムルコト、
   ニ 県郡又ハ私設農事試験場、水産試験場其ノ他ニツキテ実際的指導ヲ為スコト、
   ホ 各実業科ハ実際ニ於ケル実習ニ留意スルコト、
  二 訓練
   イ 生徒ノ心理状態ニ鑑ミ寛厳宜シキヲ得、実践躬行ニ努ムルコト、
   ロ 夜間教授ノ際ハ、通学ノ途中ニ於ケル適切ナル監督ノ方法ヲ講スルコト、
   ハ 特ニ自治的精神ヲ涵養シ、堅実ナル公民ノ養成ニ努ムルコト、
   ニ 適切ナル娯楽教養機関ヲ設ケ、高尚ナル趣味ノ養成ニ努ムルコト、
  三 養護
    イ 身心両方面ノ健全ヲ計ル為適当ナル体操ヲ課スルコト、
    ロ 土地ノ状況ニ依リ遠足、登山、撃剣、柔道、角力、水泳等ニヨリ剛健ナル気風養成ニ努ムルコト、
    ハ 年一回以上身体発育ノ状況ヲ調査シ、体力ノ増進ヲ計ルヘキコト、
 五 教員
  イ 師範学校、農学校、商業学校、水産講習所等ニ於テ適当ノ方法ニ依リ実業科教員ヲ養成スルコト、
  ロ 実業科ノ教授ニハ専任教員ヲ置クヲ本体トスルコト、
  ハ 普通教科ノ教授ニハ小学校教員ノ兼任ヲ便トスルコト、
    (以下略)
 こうしてみると大網実業補習学校などは、当時の「実業補習学校」の嚆矢(こうし)であったといってよいであろう。

写真 大網実業補習学校の農業実習(『大網案内』大正5刊)
 
 また『瑞穂教育のあゆみ』の年表の中に、大正八年六月、当校に補習学校が併設されたとある。これなどは前述の県が実業補習学校に関する答申を受けた後のものである。おそらく当町の旧町村各小学校に併設されていたところもこのほかにあったと思われる。
 なお、この頃より普通中等教育への関心も次第にたかまっていった。
 当町近辺では、県立東金高等女学校が明治四十一年四月一日設置の告示があり、山武郡役所内に開校の準備と生徒募集の事務室を設け、同月二十一日小池民次が校長に任命され、同月二十八日選抜試験を実施、八十名の募集に志願者は一三一名であった。
 なお、同校の校舎は山武郡立東金染織学校(大網町へ移転)旧校舎を仮校舎として五月四日より授業を開始した。学校長の小池民次は当時本県の女子教育の第一人者であり、初代校長としてわずか在任期間一か年であったが大きな足跡をのこした。
 当町からも多くの人びとがこの県立東金高等女学校の校門をくぐった。この頃になると「女に学問はいらない」というようなことばを口にする人はあっても、一般にもはや承認される時代ではなくなっていた。

写真 東金高等女学校正門
 

写真 東金高等女学校校庭
 

写真 東金高等女学校 実習(調理)のようす
 
 さらにこれは学校教育ではないが、日露戦争後の日本には、社会教育の問題がもちあがっていた。特に小学校卒業後の男子青年に対する徴兵期間に至るまでの「壮丁準備教育」が問題であった。本県でも毎年実施された徴兵検査で、壮丁者の学力程度は未だ大いに劣等を示し、無学者が少なくなかった。このため青年が団体を組織し「夜学会」のような学習会を開いたりするものもあり、その他の奉仕活動に励んだりした。こうした組織は早いものは日露戦争以前にすでに結成され、戦時中いろいろな活動をしている。たとえば当町北今泉にあった「北泉同志会」は、区内の出征軍人に対しては餞別を贈り、遺族には労力を以て業務の幾分を補助するなど「援助活動」を活発に行っている。
 明治四十年六月、当時の石原千葉県知事は、青年団体組織に関する諭告を出しこれが契機となり、さらに明治四十一年十月戊申詔書が発せられたのと併せ、山武郡内では「聖旨を奉体し実行する」ということから青年団設立のはこびとなっていった。
 たとえば、当町瑞穂に設置された瑞穂村青年会の場合は、明治四十四年八月ごろ同村小学校長多部篤四郎が村内各地を奔走して青年会を組織し、村長を会長にして結成されたものであった。団員は当時三五〇余名、多部校長はその顧問兼講師として指導にあたった。
 こうして明治後半期は単に学校教育だけではなく、さまざまなかたちの実用的な学校、あるいは学習の場が設けられるようになってきたことに特色があろう。さらに驚くべきことは当時の人びとの知的好奇心の大きいことで、こうした集まりに沢山人が集まってくることである。主催者の人集めの苦心などはなかったらしい。それは、この時代を経験した人びとが今もって基本的姿勢を失っていないことでもよくわかる。